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罪、この事を語ると嫌がられることも結構あるんですけど、これ、私たちには避けては通れない道なんですよね。人は誰しも罪を持っているんです。罪、と言われると何か犯罪的なものを指すように感じて、いや、そんなことはしたことはない、と多くの人は思うでしょう。ただ、罪というのは神様から離れてしまっていること、そこに本質があるんです。神様から離れてしまっていると、神様からの本物の恵み、関係を失ってしまう。それ、すごくもったいない。そしてそれ以上にあなたが神様から離れて、本来受けられるはず
ある生まれつき目の見えない方がある日、神の御子イエス様に出会って癒されました。ところがそれを目撃した宗教家たちは、せっかく彼らの本来求めていた救い主と出会ったのに、彼らはそれを認めない。自分たちの考え方や価値観とは違う、とか考えていた。でも現実が見せるものと、イエス様が癒され見せてくださる新しい世界、イエス様が私たちを新しくしてくださるときに見せてくださる新しい世界はいかばかりか。あなたのためにいのちさえ惜しまず与えられた方が、その命がけで開かれた世界は…あなたは今日、誰を、何
私たちの周りには真実な事と、嘘がまあよく入り交ざっていると言いますかなんと言いますか。今から約2000年前も、キリストを認めないがために、認めたくないゆえに、イエス様の復活は嘘だ、とお金払ってでもいって否定しようとした人たちがいた。でもなんともったいない話だろう。せっかく神様が成し遂げてくださった救いを否定して、嘘に塗り固められた歩みをするなんて…神様は、私たちに嘘で満たしたいわけではない、真実な愛をもってご自身を現され、私たちにあらゆることを注がれた。いやそれだけではなく、私た
今日は復活節(初穂の祭り)、イエス様の復活をお祝いする日でした。たぶん、イエスキリストという存在はどこかで皆さん聞いたことがあると思います。そのイエス様はどこかの宗教家でもなければ、教祖でもない、神の御子として、あなたを支配するためではなく自由にするために来られました。私たちを束縛する様々な思い煩い、痛み、罪、死、そうしたものから一切自由にするためイエス様は私たちの重荷も、罪の刑罰も一切引き受け、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし死んで終わりではなく、3日目によみがえられた、こ
私たちは、何だろう、自分の良いと思うものを自分の周りに集めると言いますか、そうして自分を造り上げていきます。あまり自分に都合の悪いことに耳を貸したくないと言いますか、削除すると言いますか…でも、考えてみると神様があなたに語られることにしても、与えることにしても不要なことってないんですよね。むしろ神様からもう見捨てられてもおかしくない中で神様は私たちを見捨てるのではなく、かえって御子イエス様を身代わりに十字架に架けて死なせてでも、私たちへの裁き、死を取り消して下さった。私たちがこのイエス
私たちの人生、これは特別なんです。どうして?偶然で積み重なった日々なのではなく、神様があなたをつくられたいのち、その一日一日だから。私たちはどうせ…とか人にあまり話せたもんじゃないよ、というような思いに縛られることがあるかもしれませんが、実は神様があなたの内に働かれていること、それ自体が素晴らしいんです。私たちが思うような、周りと比べたらなんの、と思うかもしれない、当たり前と思う中で神様は特別な愛が注がれている。でもそれだけじゃないんです。神様はあなたに特別な話、といいますか、
新年度も始まりいろいろ苦労があるかもしれませんね。そこで何かに私たちは寄り縋りたくなりますが…ー以下、しろくま先生の記事よりーこんな記事を読みました。まずはこちらをご覧ください。「神様には得意ジャンルがある」大きな神社には、どんな神様がまつられているかを説明した立て札などがある。無病息災や家内安全が一般的だが、できればご利益を期待して、学力向上には学問の神様、恋愛成就なら縁結びの神様にお願いしたいところ。見分ける簡単な方法として、神社の名前に注目すればわかりやすい。・
光と闇。ある意味で対極的なものですが、もし暗闇だらけだったら大変なことになりますよね。しかし神様は私たちの内にいのちの光を照らすために人となって生まれてこられました。そんなイエス様と3年半近く共に歩んだ12弟子の一人のヨハネは、「神は光であって、闇が全くない」と証言しました。神様の現された愛、イエス様の愛、十字架の愛、その御業、一切の内に暗闇はない、なかった、と、その老年になってもその神様の真実の光について証言しました。あなたは神様を信用せず、暗闇的な部分があると疑っていませ
私たちの日々の価値はどれくらいあると思いますか?ものすごくあるんです!だってこの日は神様がつくられたのだから。あなたのために備え、あなたの内にその愛を現されている、何と感謝なことだろう。しかもイエス様はご自身のいのちを持ってまであなたを救い出されて与えられた、そのいのちはいかほどか。安息日、というと宗教的に聞こえるかもしれませんが、神様は安息日を聖なるものとして保つように仰られている。聖なるものにイエス様がしてくださるから、このイエス様の聖なる日々を大切にしたいですね。とい
人は楽しいところにいたい。何かをきっと求めてそこを探し求めるんでしょうね。でもその楽しさはいつかは過ぎ去っていってしまう…今回の動画は教会は楽しいところですか?ということですが、教会はもちろん楽しいはずなんですよね。というよりもあれこれ人の手で頑張って工夫する、それもわかるのですが、何よりイエス様がおられるところ、イエス様が楽しみを、喜びを、いのちを広げてくださる、そこに招いてくださっている。世から本物の楽しみ、喜びへ私たちを変えてくださる。ということで、今日は日曜日ですので、
生まれつき目の見えなかった男性・・・ある時イエス様が彼と出会ってくださり、完全に目が癒されるという奇跡が起こりました。やまだかつてないおどろくべきことが起こったのです。彼の人生は一変しました。見えるようになったという驚くべき奇跡が現実に起きた!これを知った人たちは自分もこの神様の本物の恵みをいただきたい、と行くチャンスだったのに…イエス様はあなたを悲しみ、暗闇の中に連れいていきたいのではない、あなたをご自身の最高の恵み、いのちへと招くためにいのちをかけられたのに、あなたは今日どこ
私たちは色んなものから聞いて、見て、触れて生きています。ある意味でそれに影響を受けます。でもそれは本物ですか?神様はもう一度私たちを神様の生きた交わり、家族の中に招こうと、御子イエス様を遣わされ、その愛を現されました。命をかけてでもあなたを偽物の支配、思い煩い、死から解き放ち本物に招くために救いに来られた…私たちはこのイエス様の本物の声に聴き、見、これに触れて歩んでいますか?ということで今日は日曜日ですのでいつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただき
私たちがよく使う言葉の中に「一応~」というものがあります。一応知っています。一応信じています。一応~です。一応クリスチャンです…一応ってどれだけその〇〇に自身がないのでしょう。今回のタイトルで「悪霊と同じ」と言われていますが、実は悪霊もイエス様が神であることを一応知っている、でも認めない。でも、一応信じているけど自分に合わないから排除するって、これ、かなり問題。神様は本物の愛を、いのちを与えたいとすべてを注ぎだされている。そんな悪霊のようなレベルの存在に神様は造られたわ
ことば、これがあることは素敵なことだと思います。これがあるから人と人がコミュニケーションを取ったり、互いに励まし合ったり強めあったりできる(聾啞者を否定するわけではありません。彼らにも手話など素晴らしい手段が与えられています)。そのことばって、どうやってできたか知ってます?神様が与えてくださったんです。神様が人に口と耳を与え、またその言葉を留める心を与えてくださった。そして神様の語られることばを聞いて人は建てあげられてきたのです。そういう意味で私たちは神様のことばを、自分の都合と違
私たちには帰る場所がある。いや受け入れてくださる方がいる、知っていますか?ある放蕩息子、お父さんの財産をお父さんが生きている間にもらい、家を出ていって好き放題生きていたのですが、飢饉が来てお金もすべて使い果て、友と勝手に思っていただけで彼のお金やいろんなものに群がっていただけの人たちも離れて言ってしまった。もう自業自得?しかし彼を受け入れてくれる方がいた…私たちには帰る場所がある、神様があなたを待っている。あなたに最高のものを与えたい、と今日も…ということで今日は日曜日です
知識として知っている事と、体験的に知る、求めるということは違いますよね。実際にそれを獲得しに行かなければ意味がない。人はたぶん神様という存在はどこかで認めるなり、知っています。しかしその神様を求めなければ何の意味もない。神様はあなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどにあなたを愛され、救わんとされました。それ以上の愛はどこにもない、そこまでしてあなたを取り戻そうとされた先に神様が用意されているものはいかほどか。イエス様という存在は知っている、でも「あなたの」救い主
私たちの時代には様々な価値観があります。本当に世の中どうなっているんだ、と思うことなどたくさん。私たちはそれらによって刻み込まれてはいけない、と思う。本当にあなたを生かすのは、神様。神様はあなたが本来あるべき姿、神様のいのちに溢れるものとなることを願われています。この時代、神を信じて何になる、ではなく、だから世の中の価値観やルールによって生きて、本来神様がくださっているはずのいのちを傷つけるのではなく、傷やシミのない、むしろ神様の恵みが覆う命を歩んでほしい、と神様は待っている。イ
私たちは様々なことで変わります。人との出会いだったり、体験だったり。でも本質的な部分、内側はどうでしょう。イエス様はあなたをもう一度新しくしてくださる。あなたのことをだれより知っている方が、あなたのことをだれよりも愛し、あなたのためにご自身のいのちさえ惜しまず与える方が、あなたを丸ごと癒し、また変えてくださる…神様の栄光、神様の素晴らしさ、神様の全てがあなたの内に現される…生まれつき目の見えない男性が、イエス様に出会い変えられていった話のシリーズ…この男性にイエス様が何を
感謝をする、感謝を伝えるって大事ですよね。その感謝の心は関係を物事かえていくような気がします。今日の聖書の箇所は、「主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは」と詩人が歌ったものです。そこに神様が「安息」を広げてくださる。私たちはこの神様の安息、良い最善の内に、ただもらって終わりではなく感謝し、神様という最善をいつも求め歩みたいものですね。ということで今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よ
後悔とは、文字通り、後になって悔いること。悔い改めとは、悔いるだけでなく、自分の罪、人生、考えのすべてを改めること。後悔とは、自分で反省し、迷惑をかけた相手に対して謝罪すること。悔い改めとは、神と迷惑をかけた相手とに対して罪を告白し、赦しを願うこと。後悔しても、赦してもらえないことはある。悔い改めは、心から神に対してするならば、赦されない罪など一つもない。後悔とは、ある意味、自己満足の世界でもある。しかし悔い改めとは、私自身ではなく、神が喜ばれるものである。後悔と
私の友が、よく「今を大切に」と自分に言い聞かせています。それは100点満点に正しいとは言わないまでも、大事なことです。私たちの今はイエス様のいのちにあって取り戻されたものですから、そのいのちをどう生きるのか、今を大切に生きることはとても大事なことです。じゃあその今、どう生きましょう?やがて終わりの時が来ることをイエス様は告げられました。弟子たちも命がけで、だからこのイエス様の愛に立ち返ろう、いのちをいただこう、救いをいただこうと必死に訴えてきました。それはこのイエス様の内に
私たちは人生色んな道を通り、時に楽しみ、時に疲れ、どこを進んだらいいのか分からず迷うことがあります。そんな時、あなたを探してくれる人がいる時、助けてくれるとき、本当に安心に溢れますよね。神様はそんなあなたを探しに、かのクリスマスに御子イエス様を人として生まれさせてまであなたを探しに来られた。神様から離れ、神様を神様とも思わない私たちをそれでも見捨てられず…あなたを救い出すために、あなたの降るはずだった陰府に降ってでもあなたを救いに来られた、命をかけて。今日は日曜日。今日は少し
クリスマスになると、なんだかんだでそれぞれ思う形でクリスマスを楽しみお祝いしますよね。でも本物のクリスマスを味わっていますか?クリスマスって神様から与えられた、最高の贈り物、これ以上ない、御子イエス様があなたに与えられたんです。他人事ではない、本物の愛があなたに現したい、と紛れもない神様の愛が。そしてそれは今日もあなたに注がれている…ということで今日は12/24なので、せっかくなので、先日の日曜日にしろくま先生が礼拝でメッセージされたクリスマスのお話をシェアします。よけれ
今から約2000年ほど前、神の御子たるイエス様が人となってお生まれになられました。暗い、暗い、洞窟のようなところで、家畜が休むような場所。においもひどかったでしょう。そのベビーベッドは石でできた飼い葉を入れるエサ入れ。イエス様は、王の王、神の御子であられながら、生まれてきたのは王宮ではなく、このようなどん底。しかし、そのどん底にいる私たちのもとにすく主としてイエス様はお生まれになられたのです。その喜びの知らせが最初に告げられたのは、羊飼い。当時のどん底の立場、また元犯罪者だったり、も
クリスマスのお話。今から約2000年程前に誕生されたイエス様、その誕生をお祝いするのがクリスマスですが、ここにはものすごい出来事がありました。イエス様はマリアに聖霊様によって身ごもったのですが、彼女はまだ今でいうところの女子中学生くらいの年齢。そして何より男の人を知らなかった(意味は察してくださいね(;^_^A)。マリアはある時、御使いからこの事を知らされるのです。聖霊様によって身ごもったことを。聖霊様が彼女の上にのぞみ、いと高き神様の力が彼女に覆うことが約束され、なされ
性格は顔に出る。生活は体型に出る。本音は仕草に出る。感情は声に出る。センスは服に出る。美意識は爪に出る。清潔感は髪に出る。落ち着きのなさは足に出る。信仰はその人の生き様に出てくる。愛は行ないとなって見えてくる。本物の信仰は生き方が証しとなっていく。真の悔い改めはその後の人生で実を結ぶ。感謝と感動は礼拝として現わされてくる。ーしろくま先生ー実を結ばせてくださるのは神様、神様としっかり結び合わされている時、私たちは神様が見乗らせてくださる豊かな実を見るのです。
ある人がこう言いました。「この世界で最も美しいものは、水平線に沈む夕陽と、疑うことを知らない赤ちゃんの目である。」なるほど、確かにそれらは美しい。けれども私は、それにまさる美しいものを知っている。それは頭を垂れ、全能なる神の前で罪を悔い改める人の姿である。人が神の御前で自分の罪を告白し、悔い改めることは決して恥ずかしいことではない。むしろ最高に尊ばれる美しい姿である。たとえそれはこの地上ではさげすまれようとも、その光景を見た幾千幾万もの御使いたちは歓喜の声をあげ、天
12月、クリスマスシーズンに入っていますが、クリスマスは人類に新たな日を迎えた日という感じが個人的にします。ちなみに私もクリスマスに人生を変える転機が、ちょうど20年前ありました。イエス様が私の救い主となってくださって新しい命に変えてくださった、復活のイエス様が住まわれ働かれる…と、神様が、救い主イエス様を人として生まれさせてくださったことで、天と地が繋がれた…神様はこのクリスマスにイエス様という救い主をプレゼントしてくださった。このイエス様から新しい命が私たちに与えられる。そん
こんな記事を読みました。まずはこちらをご覧ください。「神様には得意ジャンルがある」大きな神社には、どんな神様がまつられているかを説明した立て札などがある。無病息災や家内安全が一般的だが、できればご利益を期待して、学力向上には学問の神様、恋愛成就なら縁結びの神様にお願いしたいところ。見分ける簡単な方法として、神社の名前に注目すればわかりやすい。・神宮(伊勢神宮、明治神宮など)→昔の天皇→願うならスケールの大きなことを。・稲荷(豊川稲荷、伏見稲荷大社など)→穀物の神様→商売繁盛
私たちの周りには様々な戦いがあります。心の葛藤という面においては誰もしもが抱えているのかもしれません。家庭、友人、職場、様々な場面で良い方向に向かうために頑張る。でもなかなかうまくいかないのが世の中。ただ、私たちは神様がいるということを忘れてはいけません。私たちを神様が誰かを通して時に支え、神様ご自身があなたを支えてくださる。私たちは目に見えないかもしれない、しかし神様は確実にあなたに生きてほしい、と支えてくださっているのです。求めよ、されば与えられん、という言葉をどこかで