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私たちは、何だろう、自分の良いと思うものを自分の周りに集めると言いますか、そうして自分を造り上げていきます。あまり自分に都合の悪いことに耳を貸したくないと言いますか、削除すると言いますか…でも、考えてみると神様があなたに語られることにしても、与えることにしても不要なことってないんですよね。むしろ神様からもう見捨てられてもおかしくない中で神様は私たちを見捨てるのではなく、かえって御子イエス様を身代わりに十字架に架けて死なせてでも、私たちへの裁き、死を取り消して下さった。私たちがこのイエス
ノアの箱船の話は有名ですが、この時、実は驚くべきことがあった、神様はこの世の状況を見て心を痛められた、と。神様は血も涙もある神様です。あなたが死ぬことを悲しまれる。だからこそ、神様は行動に移される、何もしない神様ではないのです。私たちの痛み、悲しみ、何より罪の身代わりにイエス様を十字架にかけて死なせるほどまでに愛された。この神様の愛の前に私たちはどう生きるでしょう。ということで今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よければ聞
後回し、これほどもったいないことはないな、とつくづく最近思わされます。もちろん優先順位というものもあるのは分からないこともないのですが。しかし大事なことを後回しにしたら後で大変なことになります。イエス様はある時、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」と仰られたのですが、今イエス様はあなたに救いをもたらしたい、今あなたに命を得てほしい、今いのちの光を注ぎたいと招かれているのです。遠い先でいい、ではなく今神様は恵みを注ぎたい。後回し
皆さんは「あわれみ」と聞くと、どんなイメージがあるでしょう。イエス様は「あわれみ深い者は幸いです」と語られました。昔のローマの哲学者は「あわれみは魂の病気である」といいましたが、本当の憐れみが病気で終わるのもどうなのでしょう。しかし、イエス様はあわれみ深い者は幸いです、と仰られるのです。あわれみにはいろいろな意味がありますが、「寄り添うこと。一緒に経験して苦しむ」という意味もあります。イエス様は、ただあわれに苦しんでいる人を思われるのではなく、むしろ寄り添われ、その苦しみを取
私たちの人生、これは特別なんです。どうして?偶然で積み重なった日々なのではなく、神様があなたをつくられたいのち、その一日一日だから。私たちはどうせ…とか人にあまり話せたもんじゃないよ、というような思いに縛られることがあるかもしれませんが、実は神様があなたの内に働かれていること、それ自体が素晴らしいんです。私たちが思うような、周りと比べたらなんの、と思うかもしれない、当たり前と思う中で神様は特別な愛が注がれている。でもそれだけじゃないんです。神様はあなたに特別な話、といいますか、
今の時代、様々な困難に直面しますね。そのような時、私たちは神様を疑ってしまいやすい。神様は何をしているんだろう、と。でも神様が導こうとしているところはどこなのか…聖書はすべて神様の霊感によって書かれたもの。ただ、ある人はそれは真実ではない、昔の事、といいます。しかし、あなたを救うためなら御子イエス様の命さえ惜しまなかった神様が真実をどうして尽くされないはずがあるでしょう。私たちはリアルにあなたを愛しぬかれたイエス様に最後まで信頼し歩みたいものです。ということで今日は日曜日なの