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私は二〇一一年三月からの二年間を室蘭市で過ごした。二十八年間住み慣れた東京を離れ、会社の異動で室蘭に移り住んだのだ。その後、札幌へと転勤になり、今に至っている。室蘭では、市役所の裏手、市立図書館(現在は移転)のすぐ隣にマンションがあった。そこから北へ九キロほどのところに知利別(ちりべつ)がある。「あんぽんたんの木」は、そこにあった。当時、私はその木の存在を知らなかった。(一)伐採計画の浮上札幌に暮らして四年半ほど経ったある日、フェイスブックであんぽんたんの木の伐採が話題になって
私は学生時代の四年間を京都で過ごした。住んでいた場所は、伏見区深草なので、京都市の南部、大阪寄りの方向になる。深草という地名が、とても気に入っていた。藤原俊成の代表歌に、夕されば野辺の秋風身にしみて鶉(ウズラ)鳴くなり深草の里というのがある。その地域に住めると思っただけで、ワクワクした。俊成が歌った当時は、うらぶれた京都のはずれ、いわゆる「洛外(らくがい)」だった。実際に今でも中心部からは外れている。一山越えた向こう側は、山科(やましな)である。江戸期の狂歌師四方赤良(よ
私はひどい機械オンチである。昨年、テレビが壊れて買い替えるまで、自宅のビデオの録画もできなかった。自分のテレビが不調なのに、マンションの集合アンテナがダメになったと大家に連絡し、電気屋が点検にくるという騒ぎを起こした。新しいテレビは、録画機能が内蔵されており、ボタンを押すだけで録画が可能になった。妻と別れ、北海道で一人暮らしになって十年、録画とは無縁の生活を送っていた。だが、不便を感じたことはなかった。娘が中学生のころだから二十年も前のことになるか、通っていた学習塾からケータイにアンケート
私は、中学を卒業する十五歳までふるさと様似(さまに)で過ごした。様似は、えりも岬にほど近い、北海道の太平洋に面した小さな町である。そんな町で海とともに暮らしてきた。柔らかな日差しが踊る春の海、吹く風はまだ冷たいが海面には光が溢(あふ)れている。生まれたばかりのような初々しい煌(きら)めきが踊る。私が通っていた中学校は、遠くに海を見下ろす小高い山の中腹にあった。窓から差し込む柔らかな日差しが、学生服の肩を温める。「春の海ひねもすのたりのたりかな」「波は寄せ波は返し波は古びた石垣
私は作文がまったくダメだった。「ダメ」というのは、死ぬほど嫌いだったという意味である。それはもう苦手中の苦手で、まるで書けなかった。だから、小学校の夏・冬休みの最終日は、涙なしに過ごした記憶がない。宿題の読書感想文が書けず、どれほど母を煩わせたことか。「せめて、マンガでもいいから、読んでくれるといいんだけどね……」そんな母の嘆息が耳に残っている。「私は高校生まで本も読んでこなかったし、そのせいで作文はからっきし苦手でした」そんなことを言っても、自分の声がむなしく返ってくるだけで、誰
ウイスキーのボトルを眺めている。「まだ、半分ある」と思うか、「もう、半分しかない」と考えるか。「大変、もう半分も飲んでしまった。どうしよう……」これが、私だ。総じてものごとを楽観的に捉えられない。どんなときでも「どうしよう……」が枕詞のようにつきまとう。なにごとも悪い方向にしか思考回路が作動しないのだ。「誕生日、おめでとう」と言われ、表向きは嬉しそうな素振りをみせる。だが、一方で「人生の残り時間が刻々と削られている。死へのカウントダウンだ。どうしよう……」と考えている。三十代の後半
選ばれる側、挑戦する立場から、選ぶ側に回ったのは、いつのころからだったろう。気がついたら選ぶ方にまわされていた、というのが正直なところである。所属している同人誌のエッセイ賞の選考に本格的に携わっている。以前にも下読みと言われる予備選考にかかわっていたことはあった。エッセイ賞などの文学賞の場合、多少の違いはあるが、だいたい似たような選考過程をたどる。全国各地から集まってきた原稿を何人かで手分けして読んで、評点の高い順から採(と)っていく。第三次または第四次選考が最終選考となり、最優秀賞、
(一)私がエッセイを書き始めたのは、四十歳になってからである。今年(二〇二〇年)でちょうど二十年になる。人生の三分の一を占めるようになった。きっかけは、元妻が精神疾患を発症し、湧き起こる嫉妬妄想から暴力が始まったことによる。このままではこちらがダメになるという強い危機感が、私を書く方向に向かわせた。結局、十二年半に及ぶ闘病生活の末、妻は同類の病を持つ男性のもとに走ってしまった。だが、私はその後も書き続けている。私にとって書くことは救いであると同時に、生活になってしまった。そもそも私
娘が一歳の誕生日を迎えた日の朝のこと。会社帰りに駅前のケーキ屋に立ち寄って、ケーキを取ってきて欲しいと妻に頼まれた。代金は支払い済みだという。東京での話である。帰り道。ケーキ屋に立ち寄って名前を告げると、店員が店の奥に入ったきり、なかなか出てこない。どうしたのかと覗いてみると、なにやら三人でヒソヒソやっている。やがて、責任者らしき男が恐る恐る出てきて、オーダーを受けていないという。そんなはずはない、ちゃんとお金も払ってあるんだしと強気に出たが、埒(らち)が明かない。妻に電話し、直接店員
会社の独身寮にミツルがいた。釜石(岩手県)出身の純朴な男だった。ミツルは出不精で、休日はいつも寮でゴロゴロしていた。東京にきて数年になるのに、渋谷、新宿、池袋など、どこへもいったことがなかった。ある日、「オラ、ヤッダよ、そんなどごさいぐの」渋るミツルを無理やり原宿へ連れ出した。原宿や表参道にはおしゃれな店がたくさんある。街ゆく人も華やいでいる。初夏の日差しが眩(まぶ)しい日だった。歩き疲れた私たちは、喫茶店に入った。そこは、オープンカフェで、客の大半が欧米人だった。コーヒーを飲みなが
令和二年(二〇二〇)一月、私は六十歳になった。むかしから思っていたのだが、六十歳は年寄りである。その年寄りに自分がなった。覚悟はしていたが、にわかに突き付けられた現実に、改めて愕然(がくぜん)とする。近年の社会通念に照らすと、六十歳は「かなりの年寄り」ではない。だが、中年からは完全に脱皮している。私の場合、若作りしようと毛繕(けづくろ)いしたくても、肝心の毛がないので話にならない。何をどう取り繕っても馬脚が露呈する。腹が膨らみ尻が垂れ、陰毛の白髪も目立ってきた。顔にはシミが増え、頭はこれみ
「ケンさぁ、オレ、カネないんだけどさ、飲みにいかない?」イブの夕方、カシンから会社に電話があった。人懐っこい口調で話しかけてくるカシンの顔が浮かぶ。お金がないけど、飲もうぜと誘ってくるあたりが、カシンらしい。「おっ、いいよ。どこで会おうか。また、新宿にするか?」二つ返事でOKを出す。私が二十五歳のときだから、一九八五年の十二月二十四日のことになる。カシンとは札幌での高校の寮からのつき合いである。「アッタマ痛えな、チクショウ!」それがカシンの口癖だった。「なんだよ、その頭痛えって
二十八歳を特別な年齢と意識しだしたのは、いつのころからだろう。この年齢を超えると本格的な成熟した大人の領域に入っていく。だからそれまでに自分を確立し、それなりの人間になっていなければならない、そんなふうに考えるようになっていた。自分で勝手に設定したそんな人生の到達点が、思わぬプレッシャーとなってオノレにのしかかってきた。天に向かって吐いたツバが、自らに降りかかってくるように。二十七歳で川崎にあった会社の独身寮を追い出された私は、アパートで独り暮らしを始めた。一九八七年、当時はバブル景気の真
「東京にいると、芸能人を見かける機会って、多いんじゃない?」そんなことをよく言われた。内心、そうでもないんだがなと思いながらも、曖昧に答えていた。確かに、「テレビで見る人」を街中で見かけることはある。「あ、あの人だ」と思うのも一瞬のことで、あっという間に人波に紛れてしまう。だが、そんな遭遇にもいくつかの例外があった。以前に、元アイドル男性のDNA鑑定騒動が世間を賑わせたことがあった。前妻との子の鑑定結果が、父子確率〇パーセントだったという。男性が涙を流しながらインタビューを受けるシーンが
今年(二〇一九)、同級生の大半が還暦を迎える。私は早生まれなので年を越してからだが、大差はない。みな、それぞれに感慨があるようで、さかんに「還暦」という言葉を耳にする。私たちが幼いころ、還暦といえばとんでもない年寄りだった。赤いチャンチャンコに赤い頭巾を被らされ、座布団にこぢんまりと座って孫たちに囲まれ写真に納まっている、そんなお祝いの画像が目に浮かぶ。そのころの六十歳の人たちは、全員が明治生まれだった。ちなみに私が生まれる五年前、昭和三十年(一九五五)の男性の平均寿命は六十三歳で、女性は
忘年会が終わり外へ出ると、さかんに雪が降っていた。師走のすすきのは、酔客でごった返していた。道ゆく人の頭はみな真っ白だ。そんな中、自分の頭にだけ雪が積っていないことに気がついた。解けた雪が、しきりに頬を伝ってくる。私の頭は、ロードヒーティングと同じ状況になっていた。父方にも母方にも誰一人としてハゲはいない。年老いてもみな、これ見よがしに剛毛を生やしている。「どうしてそういう頭になったわけ?」妹から非難めいた口調で言われるが、そう言われても困るのだ。私の頭は、額から頭頂部にかけ、便
(一)「必死に生きる」という言い方があるが、字面(じづら)だけ眺めると変な言葉である。「必ず死ぬ」+「生きる」という正反対の言葉が連結して、「めちゃくちゃガンバって生きる」という意味になっている。「毒を以って毒を制す」的なヤツか?トンチンカンなことを言っても始まらない。私は二〇一五年八月二十五日、五十五歳にして人生初の入院を経験している。自宅の近所で酒を飲んでいて、突然、小便が出なくなったのだ。実は、数日前から会陰部(えいんぶ)、つまり肛門のあたりがモゾモゾしており、イヤな痛みがあっ
まだ土曜日が半ドンだったころの話である。それは私が二十五歳くらいのことだから、一九八五年前後ということになる。そのころの私は、仕事が終わってから都内の一流ホテルの喫茶ラウンジで、コーヒーを飲みながらよく読書をしていた。帝国ホテル、ホテルオークラ、赤坂プリンス、パレスホテル……、田舎者の私にとって、それがひとつのマイブームとなっていた。そんなある日、ホテルニューオータニでのことだった。私は四人掛けのソファー席で、いつものように本を読んでいた。しばらくすると、「相席させてもらってもよろし
まさか自分がハゲるとは、思ってもいなかった。父方、母方を見回してもハゲている者は一人もいない。父はもちろん、おじもいとこも祖父たちですら。だから、私も年老いたら白髪のオジサンになるものだと思っていた。「内面を磨くと、内側から光り輝くものだ」そう常々言っていたのは中学の校長だった。校長の話は長く、朝礼ではいつも、四、五人の生徒が勢いよく倒れていた。私の場合、内面を磨く前に、外側が光り出した。もともと私の髪質は細く、若いころからかなりの短髪にしないと髪の毛が立たなかった。静電気で総立ちに
(一)深い眠りの中で、揺れがきた。「地震だ」と遠いところで思いながら、なおも睡眠を継続しようとしている自分がいた。夜中の地震は、そんなふうにしていつもやり過ごしてきた。ところが、その揺れが急激に大きくなり、尋常ではないと思った瞬間に、跳ね起きた。ベッドを飛び出した私は、寝室から居間へ出ようとした。室内の景色が歪んでいる。音が凄(すさ)まじい。その揺れは、荒天の津軽海峡の最も激しい動揺地点、青森と函館の中間地点を連絡船が通過するときの、あのひどい揺れを思わせた。何かにつかまっていなければ
昨年(二〇一七年)の夏、えみ子と始めて様似(さまに)へ遊びにいった。その札幌へ戻る車の中でのこと。太平洋に沈む夕日に出くわし、えみ子が目を丸くした。夕日が太平洋に沈むなんて、ありえないというのだ。太陽は日本海に沈むものだと信じて疑わなかったという。ずいぶんと突拍子もないことを言い出すものだと、私は驚いてえみ子を見た。アポイ岳から昇った太陽は、やがて大きな夕日となり親子岩へと落ちていく、それが私のふるさと様似の常識だ。「様似はアポイで始まり、親子岩で一日が終わる」様似駅前民宿の女将、クミコさんが
学生時代の先輩から、地元産の二十世紀ナシが送られてきたことがあった。三年前のことである。鳥取出身のマモルさんは、私の一学年上の先輩である。先輩とはいえ、私が一浪しているためで、年齢は同じだった。学生時代を京都の同じアパートで過ごし、青春を謳歌した仲間であり、同士でもあった。大学を卒業後、マモルさんは地元の町役場に、私は東京の会社に就職した。そのマモルさんから思いもかけず荷物が届いた。大きな段ボールの中には、手紙が添えられていた。私のブログを読んで、かつて私と北海道旅行をしたことを思い出
私のふるさとは北海道の太平洋岸、えりも岬にほど近い様似(さまに)という小さな漁師町である。この一帯は、日高昆布とサラブレッドの一大生産地となっている。昭和五十年(一九七五)、私は高校進学とともにふるさとを離れた。札幌の高校で寮生活を始めてすぐに、海のない環境に大きな戸惑いを覚えた。それまで意識することもなく目にしていた海が、突然なくなったためである。磯の香り、潮騒のない生活に、窒息しそうなほどの閉塞感を覚えたのだ。都会の学校で受験勉強に浸(ひた)る生活をしながら、こんなことではいけない
童謡「赤とんぼ」、先日、何十年かぶりでこの歌を耳にした。夕やけ小やけのあかとんぼ負われてみたのはいつのひか山の畑の桑の実を小篭(こかご)に摘んだはまぼろしか十五で姐(ねえ)やは嫁に行きお里のたよりも絶えはてた夕やけ小やけの赤とんぼとまっているよ竿の先改めて歌詞を読むと、郷愁と切なさが渾然(こんぜん)一体となり、現実世界が一瞬にして遠のく。とりわけ三番のくだりは胸に迫る。この歌は、三木露風が大正十年(一九二一)に子どものころを過ごした兵庫県揖保郡龍野町
平成二十三年(二〇一一)、私は三十二年ぶりに北海道での生活を再開した。東京を離れる前に、近所の商店街のクリーニング店や薬局などへ引っ越しの挨拶をして回った。希薄な付き合いとはいえ、練馬には二十年もいた。それなりに顔見知りができていた。私が転勤の旨を告げると、誰もが一様に驚き、「ねえねえ、このお客さん、北海道に引っ越すんだって!」「ええッ!ほっかいどー!あら……」何人かが集まってきて、気の毒そうな顔で同情された。東京の人にしてみれば、北海道は「地の果て」の「とんでもない土地」なの
六月、肌寒い日にはまだダウンジャケットを着ている。この時期、札幌でダウンを着ているのは私と的外れな外国人観光客くらいなものだ。バカかと思われても仕方ないが、寒いものは寒い。現に、去年も今年も六月中旬に北海道のどこかの峠では、雪が降ったというニュースを耳にした。そういうところなのだ、北海道は。私は十九歳で北海道を離れている。以来、三十二年間、本州で暮らしてきた。学生時代の四年間を京都で、その後就職した東京に二十八年いた。つまり、十九歳から五十一歳までの期間となる。再び北海道へ戻ってきたの
仕事をしていてふと顔を上げると、窓の外に白い浮遊物を目にするようなった。六月に入る数日前からのことである。タンポポよりもよほど大きい。何かの綿毛だ。まるで無重力の中を漂うように、気の向くままに浮遊している。ネットで調べて、それがポプラの綿毛であることがわかった。実は、高校時代にこの光景を同じ札幌で見ていた。長い歳月の中ですっかり忘れていたのだ。かつて、大陸からの引揚者が、ハルビンの風物詩として、街中に綿毛が飛ぶという話を何かで読んだことがある。中国の方は、ヤナギの綿毛のようだ。浮遊する
先日、近所の床屋へいったときのことである。そこは従業員が四、五名いるスーパーに併設された床屋なのだが、その日は、初めて見る年配の男性が私を担当した。散髪が終わり、レジで会計をしようとしたとき、「お客さん、カードありますか」その男が人のよさそうな笑顔で訊ねてきた。(カード?)私は一瞬、何のことかわからず、小さな戸惑いを覚えた。すると、レジのところに立てかけてある案内プレートが目に入った。そこには、「六十五歳以上の方は、シルバーカードをご提示ください」と記されていた。現在、私は五十
昨年末(二〇一七年)に田中クンからりんごが届いた。田中クンは、高校時代からの四十年来の友達である。五年ほど前から、岩手県花巻市の農園経由でりんごが届くようになった。だが、私の住所の番地が間違っているので、毎回宅配便のドライバーから確認の電話がきていた。最初の年は、そのままにした。親友とはいえ、もらい物をして、誤りを指摘するのがはばかられたのだ。だが、翌年も間違っていた。言おう言おうと思いながら、ついつい機会を逸し、さらに二年が過ぎた。一昨年、田中クンと飲んでいる最中、突然、住所のこ
三十年も前の話だが、母が千歳空港の駐車場でマフラーを拾ってきたことがあった。入れ違いで出ていったベンツが落としたもので、気づいて追いかけたのだが、そのままいってしまったという。妹が調べたところ、それはエルメスのマフラーで、定価が十五万円だという。そのマフラーは私がもらい受け、いまだに愛用している。とはいえ、私はブランド物には、まったくといっていいほど頓着がない。昨年(二〇一七)の十一月下旬、母と妹を車に乗せて、ドラッグストアに立ち寄った。札幌に大雪が降った日のことである。買い物を終