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私がエッセイの添削を始めたのは、二〇一四年五月からです。所属する随筆春秋の添削指導に携わって十年になりました。これまでに一一六名、六二七本の作品を拝見してきました。その五八八本目がこの作品集になります。ここに収録された二十九点も、一本とカウントしていますので、実際の添削数は一〇〇〇本近くになるでしょうか。その私の添削第一号が、西澤貞雄氏の「自治会長の初仕事」でした。その後、西澤作品は「熊ん蜂焼酎」「女王蜂狩り」「ザリガニレシピ」と続いていきます。これまでに二十三作を添削させていただきました
「面舵(おもかじ)いっぱーい!」をネットで検索すると、次のような内容が出てくる。船の操縦のときに使われる言葉で、「舵を右に一杯にきりなさい」という意。左に曲がりたいときは、「取舵(とりかじ)」という。これは十二支に由来するもので、船首を十二時の子(ねずみ)の方向に向けて時計回りに十二支を配置すると、右側の三時の方向は卯(うさぎ)、左側の九時の方向が酉(とり)になる。そこで右側を卯面(うも)、左側を酉と呼ぶようになった。それにより、卯面(右)に舵をきることを「面舵」、酉(左)に
東電・福島第一原発、その処理水の海洋放出は、二〇二三年八月のことだった。国際的な安全基準をクリアしたこの放出は、三十年に及ぶという。原発の功罪は計り知れない。この放出に過剰反応を示したのが中国だった。日本からの水産物の輸入を即日全面停止し、科学的根拠に基づくことのない大々的なプロパガンダを展開した。それは政治的意図を多分に含んだものだった。マイクを向けられた人々は「日本は、とんでもないことをする国だ」と口を揃える。一方的な情報しかなく、自由な発言が許されない国である。近年の温暖化の影響
エッセイの添削を始めたのは、二〇一四年からである。所属する同人誌会員の添削指導に携わって十年近くになる。これまでに一〇〇名超、一〇〇〇本近い作品を見てきた。「添削で、そんなに赤字を入れちゃダメよ」「あなたは、手を加えすぎなのよ」先輩講師から、何度、そんなふうに言われてきたことか。それは私にもよくわかっている。現に、プロの作家や脚本家などの原稿には、明らかな誤字脱字がない限り、朱筆を入れない。その辺のバランス感覚はわきまえている。添削を始めてしばらくすると、私への指名が増え出した。添
バカにつける薬がないのと同じく、ハゲに効く薬もないと思っていた。「ハゲを治す薬ができたら、ノーベル賞モノだぞ」、そんな言葉を耳にしたこともあった。育毛剤、増毛剤は昔からよく聞くし、テレビでも宣伝している。だが、その効果については、ホントかな、という疑念が払拭(ふっしょく)できない。塗るのか振りかけるのかは知らないが、髪の毛がボウボウに生えてきたという話は、聞いたことがない。ハゲが気になるのかと訊かれると、さほどでもない。だが、毛は、あるに越したことはない。ハゲは見た目が悪いし、どうしても嘲
私は手紙を書く機会が多い。できるだけ手書きを心がけてはいるが、場合によっては、どうしてもパソコン打ちになることがある。簡単で、なにより時間がかからない。だが、手書きの手紙や葉書をもらうと、その味わいに圧倒される。とりわけ、年配者の書きなれた方からの便りには、まったく手も足も出ない。先日もそういう手紙をもらった。短冊形の便箋に、「前略」も「怱々(そうそう)」もなく、いきなり始まる本文。惚(ほ)れぼれするほどの流麗な文字に、思わずため息が漏(も)れる。ブルーブラックの万年筆が、味わいに深みを添
十一月二十日、今年最後の雨が降り出した。夜半には雪に変わる雨だ。このまま順調にいけば、来年の二月下旬まで雨を見ることはない。だが、今年も暖冬に違いない。雪の上に思いもかけぬ雨が降るのだろう。冬の到来を喜んでいるのは、元気な子供と犬くらいなものだ。いや、いや、むかしのように「庭駈(か)けまわる」犬はもういない。防寒着を身にまとった室内犬が、冴えない顔で散歩をしている。「北海道の冬」といっても、地域によって大きなバラツキがある。太平洋側がマイナス一〇度のときに、内陸部ではマイナス三〇度に達
将来、私はがんで死ぬだろうと思っている。明確な根拠はない。ただ、ぼんやりとそう思っているのだ。がんの家系かというと、父方に若干、その傾向がみられる。だが、そうだとまでは言い切れない。母方は、どちらかというと血管系、つまり血管が詰まったり破れたりする方の色合いが強い。最近、周囲で、がんになったという話をよく耳にする。「ねえねえ、〇〇さん、すい臓がんだってよ。気の毒に……」「〇〇ちゃん、乳がんだってさ。会社の健診で引っかかって、それでわかったみたい」おおむね、このようなものである。
北海道の南部、太平洋に面した様似町(さまにちょう)が私のふるさとである。その西方の海岸沿いに、かまぼこ型の小高い山がある。アイヌの人々からソピラヌプリ(崖滝の山)と呼ばれていたこの山は、和人の進出とともに円山と称されるようになり、明治中期以降は観音山として親しまれている。様似漁港を見下ろすこの観音山は、標高一〇〇メートルほどで、パンチパーマをかけたように山全体が柏の木で覆われている。強い海風の影響で、そのすべての木が海とは逆方向に枝を伸ばしているのだ。真っすぐ生えている木は一本もない。
大学の四年間とは、貴重なムダな期間である。真摯(しんし)に学究を極めようとする者にとって、四年という期間はあまりにも短い。だから大学院へと進み、修士課程、博士課程と五年を上乗せする。それでも時間が足りない。ついには大学に残って研究者としての道を歩む。生涯を通しての探求となる。私の友達にもそんな研究の道を歩んでいる者がいる。高校時代、寮生活を共にした友人が、院生時代にショウジョウバエの遺伝の研究をしていた。そのまま研究室に残り、しばらくするとアメリカの大学へ行ってしまった。以降、音信が途
眠れない夜がある。ベッドから起き出して原稿に向かう。パソコンの電源はすでに落してある。机の電気スタンドの小さな明かりを頼りに、常備している原稿に走り書きをする。ふわっと浮かんできた言葉を書き留めるのだ。パソコンを立ち上げて正式に書き出すと、いよいよもって眠れなくなる。若さが失せた今、夜更かしは次の日の仕事に響く。無謀は、もうできない。浮かんできた言葉は、どこかに書き留めておかないと、翌朝にはきれいさっぱり消え去っている。思い出そうにも、まったく何も出てこない。私のメモリー機能は、すでに壊れ
高校に入るまで、私はまったく読書をしてこなかった。夏冬の休みの読書感想文に、どれほど泣かされてきたことか。そのツケは、現代国語の点数に如実に現れた。どんなに頑張っても六十点台しか取れないのだ。いくら漢字を覚えても、微々たる点数にしかならない。高校生になってから小説に目覚め、読書を始めた。日記もつけ出した。だが、読解力と作文力は、一朝一夕には身につかない。メインエンジンである現代国語を補うためには、古文・漢文という両補助エンジンの出力を上げるしかなかった。だが、古文も漢文も「とてもじゃな
授賞式の開始間際になって、竹山先生が現れた。いつものように黒づくめの服装だったが、靴だけがオレンジ色の蛍光色のスニーカーであった。靴がこちらに向かって歩いてくるような、そんな印象を受けた。年齢にしてはずいぶんと大きな足だなと思った。目もどことなく虚(うつ)ろで、まだ半分自分の世界の中にいるような、そんな雰囲気を醸し出していた。二〇一八年五月、随筆春秋賞の授賞式が行われた東京四谷の主婦会館でのことである。そもそも随筆春秋は、堀川とんこう先生のお母様、堀川としさんが始められたエッセイの同人誌で
初めての京都は、高校の修学旅行であった。以来、古都に魅了され、大学を京都に選んだ。北海道からの進学者のほとんどは、当たり前のように皆、東京へいった。そんな右へ倣(なら)えが、私には苦手だった。私が京都で過ごしたのは、一九七九年、十九歳から二十三歳までの四年間である。もう四十年以上も前のことになってしまった。過ぎ去った歳月の分厚さに、愕然(がくぜん)とする。一浪して、受験のために訪ねたのが二度目の京都だった。従兄の四畳半のアパートに、一か月ほど滞在した。従兄と一緒に銭湯へ向かう道すがら、
(一)私がエッセイを書き始めたのは二〇〇〇年、ちょうど四十歳になった年からである。二年後の二〇〇二年八月、公募雑誌で見つけたエッセイ賞に初めて作品を応募する。自分の書いてきたものが、世間一般に通用するものなのだろうか、という疑念がわいてきたためである。十二月初旬、忘年会が跳(は)ね、したたかに酔って帰宅すると、優秀賞という受賞の報せが待っていた。発表が年明けだと思っていたので、息が止まった。酔いが吹き飛び、その夜は興奮のあまり寝つけなかった。その時の作品が「祝電」で、選考委員が佐藤愛子
自分というのは、誰よりも身近な存在である。当たり前だが、自分のことを最もよく知っているのは、自分自身だ。自分が自分だから。だが、そんな自分が、自分のことをうまく描けない。書いても、書いても表現しきれない自分がいる。本当は、自分のことをよく知らないのではないのか。わかっているようで、理解できていない、それが原因ではないか。そんな思いが頭をよぎる。いや、一概にはそうとも言えない。自分を描こうとすると、それを抑制しようとする力の存在を感じる。磁石のプラスとプラスの反発のような、もう一人の自分がそ
私は昭和三十五年(一九六〇)に北海道の片田舎、様似町(さまにちょう)で生まれている。そこは、太平洋に面した小さな漁村で、一帯は日高昆布とサラブレッドの一大生産地である。町(ちょう)が牧場の中に初めての公営住宅を造った。結婚してから銭湯を営む母の実家に居候していた両親は、そこに移り住む。私が一歳から小学五年までを過ごした家である。自宅の目の前が牧場であり、その先に太平洋が広がっていた。背後も牧場で、低い山々がグルリと周囲を囲んでいた。夕方になると、母に手を引かれ、一升瓶をもって牧場に牛乳
私の生まれ故郷は、北海道の太平洋岸に面した小さな漁村、様似町(さまにちょう)である。現在、私は札幌で暮らしているが、街中で〝様似〟を目や耳にする機会はほとんどない。たまに‶様似〟に出会うことがあると、ドキッとして胸がギュッとなる。同じ北海道でも、なかなか訪れる機会のない、交通の便の悪い土地である。そんな不便なところに、私のふるさとはある。だからいいのだ。様似町は、えりも岬を擁するえりも町とサラブレッドの浦河町に挟まれている。現在(二〇二三年時点)の様似の人口は、四千人を切ってしまったが
ここ数年、夏になると決まって富良野へいっている。えみ子がラベンダー畑を見にいきたいというので、ドライブがてら出かけるのだ。彼女は私と出かけた後、間を置かずに娘たちとも出かけている。札幌―富良野間は一二〇キロの道程、ドライブにはほどよい距離である。観光客に紛れてラベンダー畑の中で写真を撮る。丘陵一面のラベンダーは壮観である。テレビドラマ「北の国から」で、純と蛍が走り回っていた畑だ。どこまでも続く紫の絨毯(じゅうたん)、すべてがラベンダーの香りの中にある。えみ子がきたくなる気持ちもわかる。まし
(一)「大変!コロナになっちゃった。喉(のど)、全然よくならないし、微熱あるなーって思ってて……。まさかと思ったけど、抗原キット使ったら、陽性だった。まいったーごめんねー」えみ子からのLINEを受け取ったのは、二〇二二年十一月二十四日(木)の午後六時近くのことであった。この時、私は娘夫婦の家にいた。二十三日(祝)から四泊の予定で、長野県にいっていた。(ということは……、オレって……、濃厚接触者か?)そういわれると、喉に違和感がないでもない。前夜、調子に乗ってけっこう酒を飲んだ
編集部から岩崎さんの初校ゲラができた、という連絡を受けたのは、昨年十一月下旬のことでした。現在、札幌で暮らす私と東京の編集部とのやり取りは、もっぱらLINE(ライン)です。LINEとは、スマホやパソコンなどで利用できるコミュニケーションアプリです。ゲラは郵送されてくるのではなく、クラウド上に置かれます。それが「ゲラができました」という意味です。連絡を受けた私は、インターネットを介してサーバー上に保管されたデータをコピー&ペーストで自分のパソコンに取り込むのです。今回のゲラをプリントしてみる
酒は人並みに飲むが、決して強くはない。すぐに顔が真っ赤になり、ほどなく強い眠気に襲われる。または、酔い潰(つぶ)れる前に具合が悪くなる。そのいずれかだ。前後不覚になるまで酔える人が、ある意味、羨(うらや)ましい。私は、サラリーマン生活の大半を東京で過ごしてきた。会社では全員が電車通勤である。「たまには、一杯、やろうか」という誘いが、会社帰りによくあった。会社を一歩出ると、魅力的な店が、いくらでもあった。日本橋人形町は小粋な街である。酒に強い人と飲んでいると、時にペースを乱される。
私は左利きである。「へー、ギッチョなんだ」かつては、よくそんなふうに言われた。相手に悪気はない。「左利き」や「サウスポー」はまどろっこしい。「ギッチョ」の方が言いやすいのだ。「あら?あの人、どうしたのかしら。ビッコひいてるわ」のビッコと同じ感覚である。だが現在は、いずれも差別用語として使われなくなった。私は見取り図などを書いていて、鏡に映したように正反対に書いてしまうことがある。言われて初めて気がつく。かなり意識していないと、今でもそうなってしまうのだ。また、左右が瞬時に判断できな
年を重ねてくると、予期せぬ涙に慌てることがある。涙腺の根元が、経年劣化により弛(ゆる)んでしまっているのだ。水道のパッキンのように、交換できるものならしたいのだが。そんなこともあり、できるだけ危うい場面は避けるようにしている。娘がまだ就学前のこと。娘の友達と三人で近所の区民館へ子供映画を観にいったことがあった。妻が風邪をひき、前からの約束ということで、急遽(きゅうきょ)、代役を引き受けたのだ。区民館の小さなホールは、就学前後の子供と母親で満員だった。映画は「アルプスの少女ハイジ」。まい
冬になると、よくナベをする。寒いからだ。野菜がしっかり摂れるということもある。野菜を摂取しなければ、という強迫観念にも似た思いが、私の頭にこびりついている。だが、一番の理由は、一度作ると、ほかのメニューを考える必要がないからだ。四、五日は楽ができる。大量に作るのだ。カレーを作ると、カレーだけを毎晩食べる。数年前から白米を食べるのを止めた。太るからだ。だが、それでも太る。結局、食べ過ぎているのだ。とにかく、月曜から金曜日までを乗り切ればそれでいい。えみ子なら〝味変〟をして違う料理に作り変えて
二十代のころから、老けて見られてきた。だから服装や身嗜(みだしな)みには、それなりに気を遣っている。年を取ったら相応に見られるだろうとガマンをしてきた。ところが、加齢とともに頭がハゲ出し、後続とのキョリがますます広がるばかり。気がついたら、すでに独走態勢に入っていた。人生とはままならぬものである。転勤で室蘭に二年間いた。そのころ、週に二度は銭湯通いをしていた。あるとき番台の婆さんから、唐突に「お客さん、何歳?」と年齢を訊かれた。ふだんは口を利かない婆さんである。五十二歳だよというと、「あら
二〇二一年の暮れのことだった。ふと気になって血圧を測ってみた。すると、最高血圧が一七〇台と表示された。何かの間違いだろうと、呼吸を整えて測り直したら、今度は一九〇台だった。ギョッとした。実は、昨年の春、近所のクリニックに胃薬をもらいにいったとき、看護師に血圧を測られた。その数値を見た看護師が「あら?高いわね」とつぶやいた。一五〇台であった。測り直すと、一四〇台になった。カルテを見た医師も、「そろそろ血圧の薬を飲む年齢ですよ」と言われ、「ゲッ」と思った。「血圧計を買って、毎日、測って
冬になると、北向きの窓に結露ができる。そして、いよいよ寒くなると、その結露が凍てつき、昭和の旧式冷蔵庫につく霜のような様相を呈してくる。結露は、寒冷地仕様の二重窓の内窓と外窓の間、外窓部分にできる。大家によると施工ミスだという。居間の蛍光灯をLEDに替えてから、その霜が銀河のような冴(さ)え冴えとした輝きを放つようになった。そんな霜を眺めながら、このマンション、それほど古くはないのに、どうしてこんなに寒いのだろう、そんなことをぼんやりと考えていた。今季(二〇二ニ年)の札幌は、前の年よりもず
クロマツの木が道路の真ん中に立っている。歩道ではなく、アスファルト舗装された車道のど真ん中である。しかもその木は見上げるほどの大木で、場違いな場所にも関わらず、正々堂々と立っている。この木は明らかに通行の妨げだ。現に、幹の下部に樹皮の剥離(はくり)が見られる。以前に、車がぶつかった痕跡(こんせき)なのだろう。だが、そんなことにはお構いなしに、飄々(ひょうひょう)としている。室蘭市知利別町(ちりべつちょう)にあるこのクロマツは、いつしか「あんぽんたんの木」と呼ばれるようになった。あんぽんたん
酒での失敗談は数知れず。なかでも、電車の乗り過ごしでは忘れがたい思い出がある。私は結婚して二年ほど東京の杉並にいたことがある。ある月曜の夜のこと。その日はいつも以上に疲れていたうえに、会合が二次会に及んだ。なんとか無事に自宅のある明大前駅にたどり着いてホッとした。アパートが近づくと、二階の我が家の明かりが見えるのだが、その日は電気が消えて真っ暗だった。遅く帰っても、明かりが消えていたことはなかった。娘に何かあったのかと心配になった。そのころ娘はまだ二歳で、夜中に高熱を出すことがしばしば