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私は、かなりの「あがり症」である。見知らぬ大勢の人を前にスピーチをする場面では、とたんに平常心を失くしてしまう。動悸(どうき)が強くなり、顔が上気してくる。手が震え、脚が震え、唇が震え、声が震える。話をしている途中で頭が真っ白になり、話の内容が尻切れトンボで終わってしまうのだ。若いころに比べると、鈍感になってきたせいか、いくぶんマシにはなってきている。だが、過剰ともいえる緊張は、相変わらずである。試しに「あがり症」を検索してみると、「あがり症(社交不安障害)とは……」と出てきた。「えッ
ふだんの生活の中で握手を交わす機会は、そうあることではない。芸能人や政治家ともなると、その頻度は格段に増えるのだろう。私たちが握手をするのは、「はじめまして」(初対面の人と)だったり、「よろしくお願いします」(商談成立や和解)、さらには「ありがとうございました」(試合や勝負が終わった場面)や、「おめでとうございます」(送別、卒業、退職)などだろうか。最近の私の握手は、古い友人との再会だった。予備校時代に同じ寮で過ごした仲間と、四十七年ぶりに会う機会があった。「いやー、久しぶりー」「
近年、雨の時季になると「線状降水帯」という言葉をよく耳にする。線状降水帯とは、発達した積乱雲が次々と発生し、長時間にわたって同じ場所に停滞して大雨を降らせる現象だ。その雲の下では、毎年、土砂崩れや堤防の決壊など、甚大な災害が発生している。この線状降水帯の雪バージョンが、JPCZ(日本海寒帯気団収束帯)である。机の前の壁に貼った付箋を眺めながら「日本海寒帯……」と毎日アホのように唱えている。覚えられる気がしないのだ。「線状降雪帯」ではダメなのか、と思う。今年(二〇二六年)の一月、札幌に大
二〇二五年の秋から、自分の車に〝四つ葉マーク〟を付けている。高齢運転者用のステッカーだ。今のデザインになる前は、〝初心者マーク(若葉マーク)〟の対極として、〝枯れ葉マーク〟と揶揄(やゆ)されていた。このステッカー、身体の衰えから運転への支障が危惧される七十歳以上の高齢者が付けるものである。「努力義務」であり、義務や罰則はない。六十五歳でステッカーを貼ることには、私自身、まったく抵抗はなかった。私は車の運転が下手クソで、クラクションを鳴らされることが多々ある。免許を取ったのが北海道の片田
私が本格的に読書にのめり込んだのは、遅い方である。十代後半から四十代にかけて、盛んに小説を読んでいた。東京で就職してからは、読書の大半が往復二時間の通勤電車の中だった。安月給の会社員には、新刊本を買う余裕がなかった。土曜日の半ドン(午前中のみの勤務)を利用して、会社帰りに神田神保町の古本屋へ立ち寄っていた。一九八〇年代当時の神保町は、一四〇軒ほどの古書店がズラリと軒を連ねていた。まだ、ブックオフのない時代である。新刊本のインクの匂いが好きだという人がいる。私の場合は、古本を開いたときの
「体を酷使して働いてみたら、自分の本音が姿を見せるのではないかと思って田舎に来たのですが、今のところはただ疲れるだけでどうしようもありません」南木佳士(なぎけいし)の小説『阿弥陀堂だより』の一節である。久しぶりにページを捲(めく)っていると、赤鉛筆で線が引かれている箇所があった。東京から信州の山間(やまあい)のふるさとに戻って、田植えや稲刈りといった農作業の手伝いに従事している主人公の吐露である。当時、この部分に「あっ、なんかわかるな」と共感を憶えたのだ。学生時代、私は法学部の勉強は
私が初めて佐藤愛子先生にお会いしたのは、二〇〇五年六月のことである。以来、二〇一一年三月に社内の異動で、私が東京から北海道に転居するまで、半年に一度、世田谷のご自宅を訪ね、エッセイの作品評をもらっていた。私が北海道に来てからは、毎夏、先生の来道にあわせて、浦河町の別荘を訪ねるようになっていた。二〇一四年の夏、別荘を訪ねたおり、思い切って色紙に一筆したためてもらったことがある。揮毫(きごう)をお願いしたのは、初めてのことだった。それまで先生にお会いしてきた九年間、畏(おそ)れ多くて言い出せな
うちの家系は、総じて短命である。祖母(父方)は九十二歳まで存命だったが、あとの三名の祖父母は、みな五十代で病死している。父は五十一歳、母は八十九歳だった。つまり、六名中、四名が五十代で亡くなっている。ここだけみると、現在六十五歳の私は、比較的「長命」の部類になる。今回、祖父母の生まれ年を眺めていて、全員が明治生まれであることに改めて気づく。私が幼いころの年寄りは、みな明治生まれだった。現時点(二〇二五年七月)での日本の最高齢者は、明治四十四年(一九一一)生まれ、一一四歳の女性だという。
私の祖母(母方)の伯父米良(めら)亀雄は、熊本藩の下級士族だった。明治九年(一八七六)に熊本で勃発した明治新政府に対する不平士族の反乱、神風連(しんぷうれん)の乱にて自刃(じじん)している。徳川幕府が瓦解し、すでに武士の時代は終わっていた。旧勢力となってしまった武士の残党による、死に場所を見つけた戦いに打って出たのである。武士としての面目を保って死ぬ、神風連の乱はそんな戦いだった。「……慷慨(こうがい)の心ふかく、一挙のさそいをうけて欣然(きんぜん)参加し、敵弾を膝にうけ、刀を杖ついて本陣に
すすきので痛飲した帰り道、転倒してケガをした。久しぶりに会った高校時代の友人と二人、二軒の店を飲み歩いた。考えてみればこの田中クンとは、五十年来の付き合いになる。彼の結婚披露宴では、私が友人代表のスピーチをした。そんな仲である。深酒をした感覚はなかった。「迎えに行くよ」という妻のLINE(ライン)を断っていた。酔い覚ましのため、歩いて帰ろうと思ったのだ。歩き出してほどなく、ポツポツと降り出した雨が、急に本降りになった。あっという間に、ずぶ濡れである。札幌の四月の雨は冷たい。これはマ
会社の異動で、北海道への転勤が決まった。二〇一一年三月のことである。私にとっては、三十二年ぶりの生まれ故郷、北海道ということになる。都会での希薄な人付き合いとはいえ、練馬には二十年も暮らしていたので、顔見知りはけっこういた。商店街の薬局や八百屋、クリーニング屋などに、転勤の旨を告げて歩いた。「北海道」と言っただけで、みな大仰にのけ反った。「ええーッ!ホッカイドー!」「うっそォー!ホント?」驚いたあとで誰もが一様に哀れむような、気の毒そうな顔をした。彼らが思い描く北海道は、本州最
えみ子と出会って八年が過ぎた。五十六歳だった私は六十五歳になった。えみ子も二歳の年齢差をしっかりとキープして、ついてきている。二人とも伴侶を失って、相応の年月を経てきた。若いカップルとは違い、私たちは使い込まれたリサイクル品である。お互いいたるところに傷がある。加えて私の場合、塗装の剥げたような頭をしており、商品価値を決定的に落としている。廃品同然のポンコツだ。この八年間、互いの経年劣化を眺めながら、加齢を楽しんできた。別に楽しんできたわけではないが、結果的にそのような形になっている。
高校三年、私は満を持して大学受験に臨んだ。結果、片っ端から落ちた。最後にやっと合格通知をもらったのが、予備校の入寮試験だった。とりあえず喜んだ。寮の名は、大志寮。北大のはずれ、旧ポプラ並木の出口からほどないところに寮があった。三十六名の小所帯だった。「青年よ、大志を抱け!」の「大志」寮である。身長が一八〇センチを超す痩身で、強い天然パーマの寮生がいた。風貌が、どことなくあのワラビに似ていた。ワラビだとあまりにも直接的なので、「ワビラ」と名付けた。ワビラは、分厚い眼鏡をかけたガリ勉であっ
二〇二五年、正月の慌ただしさが落ち着き、六十五歳になった。そんな年になる自分を想定していなかった。だが、どこから眺めてもジイさんである。とりわけ写真に写る自分の姿は無残なものだ。そのうち、私は命が尽きて死ぬ。その順番がいつくるのかはわからない。身近なこととして、〝死〟がまとわりついてくる。幼なじみの同級生は一七〇名ほどいるが、すでに二十人近くが鬼籍に入っている。実際は、その二倍以上はいるかもしれない。ほとんどの者がふるさとを出ているので、風の便りでしか消息がわからない。私もそんな一人なのだ
休日の午後、日がな図書館で過ごしていた時期があった。十数年前のことなのに、遠いむかしの出来事のように思う。二〇一一年、私は二十八年暮らした東京を離れ室蘭市に移り住んだ。その転勤の前年、会社から懇請され、宅建士(当時は「宅建主任」)の勉強をしていた。五十歳からの試験勉強である。勉強を始めてすでに一年以上が経過していたが、覚えた知識が片っ端から消えていくザルのような頭に、力づくで知識を摺(す)り込んでいた。年齢との勝負だった。日没が近づき、慌てて海へと急ぐ。図書館前の道を西に数百メートル行
(一)二〇二三年十二月二十六日、幼なじみの淳穂(あつほ)が死んだ。淳穂はイタリアンの料理人だった。インフルエンザ罹患(りかん)から肺炎を発症し、札幌の大学病院でエクモ(ECMO)(体外式膜型人工肺)による治療を受けていた。淳穂には糖尿病という基礎疾患があった。四十日ほどHCU(高度治療室)で治療を受けていたが、力尽きた。六十四歳だった。一報は、二十七日の早朝のこと。淳穂の妻、さとみからのLINE(ライン)だった。中学時代、私は野球部員で、さとみはマネージャーだった。淳穂も一時期野
フキノトウ、漢字では「蕗(ふき)の薹(とう)」と書く。フキノトウは、フキの花のつぼみ、つまり花茎(かけい)部のことである。一般的にフキと称しているのは、その葉柄(ようへい)部分になる。花茎とは、スミレやタンポポなどのように、地下茎や根から直接出て花だけをつける茎のこと。また、葉の本体ともいうべき平たい部分を葉身(ようしん)というが、その葉身と茎との間にある棒状の部分を葉柄という。つまり、フキノトウはフキの花だが、花と葉柄が別々の時期に別々のところから出てくる特異な植物なのである。ツクシとス
夏は暑い。とにかく暑い。だが、日本全国、どこへ行っても猛烈に暑いというわけではない。私のふるさと様似町(さまにちょう)は北海道の南岸にあるのだが、夏の最高気温がせいぜい二十八度程度である。それでも、「昨夜(ゆうべ)はムシムシして、眠れなかったー」という言葉をよく耳にした。私自身も寝苦しいと思っていた。住んでいる地域によって、人々の暑さの体感はまるで違う。最近では、様似も三〇度近くにまでなることがあるという。気の毒な話である。私が東京を離れ北海道に戻ってきたのは、二〇一一年三月
宝くじは、めったに買わない。買っても当たらないからだ。連番やバラなど、六千円とか九千円分を買っても、毎回、お金をドブに捨てるようなものである(溝(どぶ)と言っても、今の若者にはわからないか)。この四十年間での最高当選額は一万円、たったの一度きりだ。「買ってもムダ、当たらない」とは思いつつ、それでも年に三、四回は買っている。買うのは、○○ジャンボというヤツだ。〝買わないと当たらない〟という思いが、〝買ったって当たらない〟を凌駕(りょうが)するのだ。それが年に三、四回ある。二〇〇二年正月早々
今年は暑いと思っていましたが、旧盆を過ぎると、とたんに透明感のある秋風が吹いてきました。ふり返ることもなく、夏が立ち去っていったのです。残暑?そんな未練など、残してはいきません。夕暮れの風は、肌寒いほどです。ですが、台風が湿気を伴った夏の残党を連れてくる可能性もあります。また、あの長く閉ざされる季節がやってくるのですね。ランキングに参加しています。ぜひ、クリックを!↓エッセイ・随筆ランキング■近藤健(こんけんどう)HPhttps://zuishun.net/k
私のふるさとは、北海道の南岸、太平洋に面した様似町(さまにちょう)である。そこは襟裳(えりも)岬を擁するえりも町と、サラブレッドの生産地である浦河町に挟まれた小さな町だ。一帯は日高昆布の産地である。とりわけ様似の浜は、良質な昆布の採れる「上浜(じょうはま)」にランク付けされている。早朝から始まる昆布採りの作業は、かなりの重労働である。高校一年の夏、札幌から帰省したおり、初めて昆布干しの手伝いをした。一人前の男になりたい、そんな密かな思いがあった。毎年、七月上旬から九月下旬にかけて〝採り
利尻(りしり)昆布、羅臼(らうす)昆布、日高昆布……、スーパーでよく目にする昆布の銘柄です。私のふるさとは、北海道の南岸、太平洋に面した小さな町、様似町(さまにちょう)です。「出汁によし食べるによし」、万能昆布と称される日高昆布の産地です。とりわけ様似の浜は、良質な昆布の採れる「上浜(じょうはま)」にランク付けされています。様似町は、襟裳(えりも)岬を擁するえりも町とサラブレッドの生産地浦河町に挟まれた人口3,800人の町です。そんな小さな町を見下ろしているのがアポイ岳(ヌプリ)です。
目の前に積まれた原稿の束を眺めている。これから始まる気の遠くなる作業を前に、ただ呆然(ぼうぜん)と眺めている。夏の終わりから年末にかけての毎年の恒例行事の始まりである。タイトル、名前、性別、生年月日と目を移していく。〇〇に住んでいる人かと確認し、職業欄へ。そして再びタイトルを一瞥(いちべえつ)し、静かに息を吸い込みながらページをめくり本文へ。しばらく読み進んでから、「あれ?タイトルなんだったっけ」と原稿のカガミを見直すこともある。「タイトルは予感であり、本文は実感である」と言っていた人
今さら改まって言うことでもないのだが、私たちは〝地球〟という天体に暮らしている。その形状は球体で、自ら回転(=自転)しながら太陽の周りを回っている(=公転)。太陽の周りを一周すると一年になるわけで、その間に地球は三六五回自転する。私たちは、そんな知識を子供の頃から摺(す)りこまれてきた。だが正直な話、日常生活を送っている分には、球体であることも、回転していることも実感に乏しい。私は現在、札幌に暮らしている。郊外に向かって車を走らせると、ほどなく広々とした平野が開けてくる。走っても走って
私は会社員でありながら、長年、プロの作家から文章指導を受けてきた。それは、エッセイで賞をもらい、同人誌に加入したことに始まる。二〇〇三年、四十三歳の年だった。東京・世田谷の茶沢通りをゾロゾロと歩く一団、その中心は、六、七十代で、八十代の方もいた。久しぶりに会う十人ほどの男女が、しゃべりながら歩く。脚の悪い女性もいたので、その列は時に五十メートルにも達した。中でも飛び切り若かった四十代の私は、牧羊犬よろしく殿(しんがり)を務めていた。先頭がときおり立ち止まってくれ、後続隊の合流を確認し、
私がエッセイの添削を始めたのは、二〇一四年五月からです。所属する随筆春秋の添削指導に携わって十年になりました。これまでに一一六名、六二七本の作品を拝見してきました。その五八八本目がこの作品集になります。ここに収録された二十九点も、一本とカウントしていますので、実際の添削数は一〇〇〇本近くになるでしょうか。その私の添削第一号が、西澤貞雄氏の「自治会長の初仕事」でした。その後、西澤作品は「熊ん蜂焼酎」「女王蜂狩り」「ザリガニレシピ」と続いていきます。これまでに二十三作を添削させていただきました
「面舵(おもかじ)いっぱーい!」をネットで検索すると、次のような内容が出てくる。船の操縦のときに使われる言葉で、「舵を右に一杯にきりなさい」という意。左に曲がりたいときは、「取舵(とりかじ)」という。これは十二支に由来するもので、船首を十二時の子(ねずみ)の方向に向けて時計回りに十二支を配置すると、右側の三時の方向は卯(うさぎ)、左側の九時の方向が酉(とり)になる。そこで右側を卯面(うも)、左側を酉と呼ぶようになった。それにより、卯面(右)に舵をきることを「面舵」、酉(左)に
東電・福島第一原発、その処理水の海洋放出は、二〇二三年八月のことだった。国際的な安全基準をクリアしたこの放出は、三十年に及ぶという。原発の功罪は計り知れない。この放出に過剰反応を示したのが中国だった。日本からの水産物の輸入を即日全面停止し、科学的根拠に基づくことのない大々的なプロパガンダを展開した。それは政治的意図を多分に含んだものだった。マイクを向けられた人々は「日本は、とんでもないことをする国だ」と口を揃(そろ)える。一方的な情報しかなく、自由な発言が許されない国である。近年の温暖
エッセイの添削を始めたのは、二〇一四年からである。所属する同人誌会員の添削指導に携わって十年近くになる。これまでに一〇〇名超、一〇〇〇本近い作品を見てきた。「添削で、そんなに赤字を入れちゃダメよ」「あなたは、手を加えすぎなのよ」先輩講師から、何度、そんなふうに言われてきたことか。それは私にもよくわかっている。現に、プロの作家や脚本家などの原稿には、明らかな誤字脱字がない限り、朱筆を入れない。その辺のバランス感覚はわきまえている。添削を始めてしばらくすると、私への指名が増え出した。添
バカにつける薬がないのと同じく、ハゲに効く薬もないと思っていた。「ハゲを治す薬ができたら、ノーベル賞モノだぞ」、そんな言葉を耳にしたこともあった。育毛剤、増毛剤は昔からよく聞くし、テレビでも宣伝している。だが、その効果については、ホントかな、という疑念が払拭(ふっしょく)できない。塗るのか振りかけるのかは知らないが、髪の毛がボウボウに生えてきたという話は、聞いたことがない。ハゲが気になるのかと訊(き)かれると、さほどでもない。だが、毛は、あるに越したことはない。ハゲは見た目が悪いし、どうし