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ご訪問ありがとうございます。再び「倭の五王」です。さて、この前の倭国王珍ですが、自らの「安東大将軍」への冊封と、国内の有力者倭隋と、その他12人への「将軍」の叙爵を求めて、宋に遣使したのですが、その事情を推察すると次のような状況が考えられます。①倭国王讃が安東将軍を叙爵され、将軍府の開設が可能になることで、日本にはなかった官僚組織と組織内の上下関係を示す官位の概念が入ってきた。②しかしながら、将軍府は讃の直属の側近しか組み入れられなかった。これは当時の大和王権が、君主制というより豪
『渡来人』第7回<古墳時代の渡来人>年代的には3世紀の前半に前方後円墳がつくられ始め、3世紀中頃に箸墓古墳がつくられる。大体、このころを古墳時代の始めとしている。646年に実効性は疑われているが薄葬令が出され、このころから大型の前方後円墳がつくられなくなり、707年に文武天皇が火葬され、この八角墳を最後に古墳がつくられなくなる。次の飛鳥時代は、蘇我氏が飛鳥の地で政治を主導的におこなった時期がその始めとみられるので、7世紀は中頃まで古墳時代と飛鳥時代が重複します。すなわち
ご訪問ありがとうございます。今回から「倭の五王」について考えていこうということですが、これまでみてきた通り、「日本書紀」の紀年はズレまくっていて、「神功皇后紀」の120年のをどう回収するかなどは、どなたも考えられたこともなく、また応神・仁徳同一人物説に立つと、天皇の数があまりにも少ない、ということになり、今まで言われているほど天皇の系譜が信用できるのか、甚だ心もとなくなってきます。ですから今回は「倭の五王」を中国や朝鮮半島の国々の史料から考えて、安易な比定をせずに話を進めたいと思いま
埼玉県比企郡ときがわ町西平に鎮座する萩日吉神社に参拝。ViewthispostonInstagramApostsharedby山下弘枝(@kusunoki_chihaya)私が参拝させて頂こうとすると同時に、風も無いのに紙垂の一枚がヒラヒラと翻り、時報が鳴り響き、神の歓迎を嬉しく思った。このような現象は度々あり有難き事である。萩日吉神社は、(蘇我馬子の父)蘇我稲目により欽明天皇6年(544)創建されたと伝えられ、萩明神と称した。蘇我稲目は蘇我高麗(こま)の子で、蘇我
癖になる辛さで知られる「辛ラーメン」、私も時々無性に食べたくなります。そんな「新羅麺」こと辛ラーメンに挑戦状を叩きつけたのが、話題の新商品「百済麺」こと「白製麺」。この白製麺を発売したのは、鶏肉で有名な「夏林(ハリム)」で、イーマートと協業し、あえて「辛ラーメン」を意識した攻撃的なネーミングで勝負に出たということ。新羅と百済、時空を超えた味の対決韓国の歴史に詳しい方ならピンとくるかもしれませんが、実はこの二つの商品名、歴史的な国名に由来しています。日本では新羅(シンラ)