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◇「ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダン、、」(酒井雄哉大阿闍梨)「ぼくにはお師匠さんが三人いるわけよ。小林先生、小寺先生、それからおじいさん(箱崎師)。最初に小林先生のところにいったんだけど、弟子はとらないからって、小寺先生に紹介されたわけね。小林先生のあずかり弟子というかたちで、霊山院に住み込んだ。それから飯室谷にきて、今度はおじいさんといっしょに住むことになった。三人の師匠は、それぞれ立派な人で、その点、ぼくは恵まれているわけ。相談ごとがあると、いまだって小林先生のところにい
箱崎文應③(酒井雄哉大阿闍梨)荒れ果ていた飯室谷長寿院に『箱崎阿闍梨』は入った。太平洋戦争が日本に不利になり始めた頃である。田んぼで米を作り、畑を耕す。精力的に箱崎師は動いた。北嶺大行満大阿闍梨となれば比叡山の高僧の仲間入りである。悠々自適の生活を送ることも出来るのだか、現実は厳しい。弟子も居なければ寺の住職として認められてないからであった。(大峯山)日々の生活に追われながらも、一方で再び「回峰行」を始めた。昭和17年、大峯回峰にのぞんでいる。大峯山は女人禁制の修験の根本道場で厳しい
◇箱崎文應②(堂入り酒井雄哉大阿闍梨)「俺は坊主にもなれない人間なのだろうか。この山の坊主は、どうして俺の気持ちをわかってくれないのだろう。もう俺には帰る所がないんだ。もしこの山で坊主になれなければ、、」中山玄雄師によって無動寺谷宝珠院につれられて『奥野玄順大阿闍梨』に引き合わされた箱崎師、「寺男」として使ってもらえることになった。寺の雑役である。三千日回峰行中に足を痛めた奥野大阿闍梨は、籠で毎日三十キロの山道を歩くことになり、箱崎師は、奥野師の乗った籠の先棒をかついで回峰道を歩く役
◇火焔の十万枚大護摩供、、(酒井雄哉大阿闍梨)紅蓮の炎が燃え上がり、酒井阿闍梨が祈禱しながら護摩木を投じると、火焔はさらに天井まで焼きつくすかのように凄まじい火勢でめらめらという音をたてた。「ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダンマーカーロシャナソワタヤウンタラターカンマン」信者たちが唱和する真言が、一大合唱となってそれに和する。一つひとつ護摩木に込められた衆生の祈願を声に出して読みあげ、それを火焔の中に投じる阿闍梨の顔は、真っ赤に炎にそまり、さながら生きた不動明王を彷
◇飯室谷にいく、、①(酒井雄哉大阿闍梨護摩行)酒井阿闍梨の千日回峰行は認められた。が、一つ条件がつけられた。これはすでに、酒井阿闍梨が叡山学院研究科を卒業したあと、本山交衆への加入を認めるかどうか、年齢が問題になって一山会議が開かれ、比叡山の規則が変更されたときからついていた「ただし書き」だった。特例を認める代わりに「ただし書き」をつけた。その内容は、「将来は飯室谷(いむろだに)の箱崎文應師のもとで、起居する」というものである。先達会議は、酒井阿闍梨の千日回峰を認めると同時に、この「ただ
◇飯室谷へいく、②(酒井雄哉大阿闍梨)飯室谷とは。酒井阿闍梨に深い関係をもつ飯室谷、第三世天台座主、慈覚大師円仁が、自らの隠棲修行の場所として開いた谷で、もともと比叡山では歴史と由緒がある谷である。円仁は十五歳で最澄の門に入り、最澄が入寂するまでの十四年間、その膝下で学問修行した高弟の一人で、承和五年(八三八年)から十四年(八四七年)まで約十年間、唐にわたり、五台山で念仏三昧法(五会念仏)を相承した。さらにこの入唐求法の旅で、最澄が果たせなかった天台密教の充実をはかった。この円仁に次いで
☆【外伝】『高倉健と二人の阿闍梨』酒井雄哉阿闍梨と『魂の交流』、、御前様永らく御無沙汰致しました。半年振りに仕事をする事になり今日京都に着き御会い出来るのを楽しみに来ましたが御不在なので残念です。留守中なのに御瀧を受けさて戴きます。御許し下さい。御身体になにかあったのではないかと案じて居ります。近日中に又参ります。その時を楽しみに。六月二十五日夜八時半高倉健この手紙を、ヤッさんがおよそ四十五年ぶりに目にしたのは、健さ