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宝塚ファンの皆様、すでにお聞きおよびでしょうが宙組公演が再開ですって!いや〜どんだけ恥知らずなのよ、阪急、宝塚、宙組。なぜあの宙組トップをそうも守りたいのか理解できない。両親の関係から生粋の阪急っ子、と書く人もいますけど、あのね??星組に創業家の娘がいるんですよ??天下の東宝社長の姪ですよ?おもねるならそちらの方が重要でしょ。お父様が阪急ブレーブス出身といいましても阪急ブレーブスという名称がなくなったのは平成前ですよ??つまり35年以上まえ。お母様が元宝塚といいましてもそういった係累を持つ生
1977(昭和52)年は、サザンオールスターズのプロデビューが決まった年である。当時、学生バンドだったサザンオールスターズは、「イーストウエスト'77」というコンテストに出場し、そこで認められたサザンは、遂にプロの世界に入る事となった。今回は、サザンオールスターズのプロデビューが決まり、沢田研二の『勝手にしやがれ』と、ピンク・レディーの『渚のシンドバッド』が大ヒットし、そして、キャンディーズが「普通の女の子に戻りたい!」と解散宣言して大騒ぎとなり、プロ野球では、王貞治が通算7
1975(昭和50)年、桑田佳祐と関口和之は青山学院大学の2年生に進級したが、その年(1975年)、桑田・関口の1年後輩として、原由子と大森隆志が、青山学院大学に入学した。後に結婚した桑田佳祐と原由子は、ここで初めて出会う事となった。というわけで、今回は桑田佳祐と原由子が初めて出会い、音楽界・芸能界に新たな才能が続々と生まれ、プロ野球では広島東洋カープが、球団創立26年目で初優勝を達成し、「赤ヘルブーム」を巻き起こし、そして阪急ブレーブスの黄金時代の幕開けとなった1975(昭和5
▪️所在地:兵庫県西宮市高松町14▪️完工:昭和12年(1937年)5月5日▪️廃止:平成12年(2002年)12月31日▪️収容人員:55,000人(内野37,000人・外野18,000人)←完工時▪️中堅:118m両翼:101m(ラッキーフェンス設置時:91m)▪️観戦試合:1989.6.23vsライオンズほか17試合西宮球場は、阪急ブレーブス→オリックスブレーブスの本拠地でした。昭和10年(1935年)に、京阪神急行電鉄の小林一三会長が、職業野球開催の機運を捉え、建設を
阪急ブレーブスホーム用1972年〜1983年ビジター用1972年〜1984年略年表1972年オープン戦終盤から着用。1974年《ホーム・ビジター共通》左袖のロゴが細くなる。1975年《ホーム・ビジター共通》ラインが太くなる。ビジター用のグレー地はこの年が最後となる。1976年ビジター用がスカイブルー地に変更となる。1977年《ホーム・ビジター共通》5月末頃に背ネーム表記が採用され、選手名表記される。1980年《ホーム・ビジター共通》アンダーシャツとソックスが
ついに迎えた花形と飛雄馬の直接対決消える魔球の正体が縦変化の魔送球だと推理した花形は自信満々で打席に入っただが初球は花形の推理どおりの縦変化の魔送球続いて消える魔球を投げ、花形の推理を嘲笑うこれに怒り狂った花形は飛雄馬を卑怯者と罵るだが左門からの電話で、飛雄馬は決して虚勢やハッタリを言っていたわけではないと思い知るこの瞬間、花形の完全敗北が確定した花形も交代し、試合は2-0で9回裏阪神は代打遠井吾郎が内容は不明だが二死から二塁打を打ったらしい
大リーグボール2号を打たれた事で完全に心が折れてしまった飛雄馬川上監督にオールスター戦の出場辞退と引退を願い出るが「お前は全てかゼロしかないのか」と却下される一方ライバル花形も父親の花形モータース社長から野球を引退して後を継ぐかどうかをオールスターの飛雄馬の結果で決めるという賭けをさせられるそんな中大敗しているオールスター第一戦でついに飛雄馬は登板を命じられたここは花形モータースの本社たがTESTというプレートの車は、3代目ブルーバードっぽいやはり花形モータ
桑田佳祐が、サザンオールスターズのコンサートで、長渕剛を「前座扱い」にした上、コンサート終盤で、桑田が長渕にビールを浴びせてしまったという「1983ナゴヤ事変」により、桑田佳祐と長渕剛の関係が悪化したという話を、前回の記事で描いた。その後、桑田佳祐と長渕剛の間柄は疎遠になってしまったが、桑田と長渕は、それぞれ実績を積み重ね、音楽界で超売れっ子になって行った。今回は、桑田と長渕の1980年代後半の活躍と、深く静かに進行して行った、2人の対立について、描いて行く事としたい。<
江川物語も、いよいよ、江川卓の法政大学野球部での活躍に話は移る。だが、その前に、前回の記事で江川が慶応の受験に失敗し、泣く泣く法政に入った、という件について書いたが、今回は、その話をもう少し詳しく書きたいと思う。それと、1973年秋のドラフト会議で、江川が阪急のドラフト1位指名を拒否した、という件についても、述べる事とする。1973年のドラフト会議の一番の目玉といえば、勿論、超高校級のスーパースター・江川卓であった。しかし、江川は慶応進学を希望しているため、何処に指名さ
1969(昭和44)年、「東京オリオンズ」は「ロッテ」と業務提携を結び、球団名を「ロッテオリオンズ」と改称すると、翌1970(昭和45)年、「ロッテオリオンズ」は見事に10年振りの優勝を達成した。しかし、翌1971(昭和46)年に、オリオンズの永田雅一オーナーは、本業の「大映映画」の経営悪化により、球団経営から撤退し、同年(1971年)12月、「大映映画」は遂に倒産した。そして、1972(昭和47)年限りで、オリオンズは「東京スタジアム」からも撤退する事となった。そんな中、197
(旧)師走十八日栄光の時を閉じ込め伝説となって心のわがブレーブス雲端西宮ガーデンズの一角にある展示には、西宮球場当時の「お宝」が並ぶ。阪急ブレーブスのユニフォームに当時の優勝旗、ペナント等々。今も、ブレーブスから発展したオリックスバファローズを僕は応援し続けている。今年もまた。。。球場のあった時代の模型。
(旧)師走十六日憧れの日々確かめる西宮今は形も無きスタジアム雲端阪急電車を、、、西宮北口駅に降りる。駅前には阪急百貨店を軸にしたショッピングモール「西宮ガーデンズ」ここにはかつて、、、西宮球場と呼ばれた野球場があった。わがオリックスバファローズの前身阪急ブレーブスのホームグランドだ。
2019年5月1日、元号が平成から令和に代わり、プロ野球は令和元年のシーズンとしてメモリアルなゲームが展開されることでしょう。そんな中、セ・リーグで3連覇中の広島カープの調子が上がりません。丸の巨人移籍の影響があるかもしれませんが、カープファンならずとも、評論家のなかでも広島カープの4連覇を予想している方々もいます。カープ3連覇!V9グラフ〜優勝号外・衣笠祥雄メモリアルブック付き〜2,980円Amazon振り返って、戦後からのプロ野球の歴史の中で4連覇した
KANSAICLASSIC2018近鉄と南海の復刻の次は、阪急と西武の復刻ユニフォームでの試合が行われた。阪急は1985年から88年のビジターユニフォームを復刻した。私はいつもホームの西宮球場で観戦していたので、ビジターユニフォームは馴染みが薄い。阪急の球団マスコット、ブレービーがビジターユニフォームを着た姿は初めて見たので、とても新鮮に思えた。さて、オールドユニフォームの着こなしを見てみる。まず最初に違和感を覚えたのが、そのシューズの色だ。阪急当時のシューズは白地に赤のラインのスパ
Sランク外野手国内新人外野手Sランクリスト出身地近畿成長晩成持続普通初期値全盛期評価ご存じ走力に関しては完璧の一言。打撃も選球眼Sで巧打B、長打もBに近いCなので2桁HRくらい狙える能力を持っている。走塁並みに性能が良いのが守備。肩も捕球も平均それ以上を持っており守備適正と守備力がSに到達。画像だと監督が松井稼頭央になっているので野手コーチもそこそこなのだが古田敦也、張本勲などのコーチを雇えばさらに上を目指せるだろう。成長遍歴【初期値→スタメン定着→全盛期→衰えピ
川上哲治監督率いる読売ジャイアンツは1965(昭和40年)〜1973(昭和48年)まで9年連続日本一は90年のプロ野球の記録🏆1965年南海ホークス⚪️⚪️⚪️⚫️⚪️1966年南海ホークス⚪️⚫️⚪️⚪️⚫️⚪️1967年阪急ブレーブス⚪️⚪️⚪️⚫️⚫️⚪️1968年阪急ブレーブス⚫️⚪️⚪️⚪️⚫️⚪️1969年阪急ブレーブス⚪️⚫️⚪️⚪️⚫️⚪️1970年ロッテオリオンズ⚪️⚪️⚪️⚫️⚪️1971年阪急ブレーブス⚪️⚫️⚪️⚪️⚪️1972年阪急ブ
(旧)師走十七日遊ぶ子を微笑み見つつ誰からも顧みられぬベース愛しき雲端旧西宮球場の西宮ガーデンズ。そのスカイテラスには、かつての位置にホームベースのオブジェが埋め込まれている。この赤丸の位置なのだが、誰も気にする人はない。
現在、プロ野球12球団には、それぞれマスコット・キャラクターが居るが、かつては、プロ野球の球団にはマスコットというものは無かった。そのマスコットを本格的に導入し、定着させたのは、阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)であり、プロ野球におけるマスコット・キャラクターの先駆け的存在となったのが、ブレービーであった。(阪急ブレーブスのマスコット・キャラクター、ブレービー)今回は、プロ野球12球団のマスコットについて、球団別にご紹介したいと思っているが、まずは、日本のプロ野球のマ