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大リーグボール2号の最期が近づきつつあるという不安の中来日したSFジャイアンツとのオープン戦が始まった巨人は2点を先制されるもONの一発で追いつき2-2の同点で飛雄馬に登板が回ってきた飛雄馬は消える魔球でメジャーリーガーをなで斬りにしたものの、初見のメジャーリーガーには通用しても花形や左門、そして伴には通用しないだろうと考えていたそんな中、土井のダブルスチールでの主審岡田の判定にSFジャイアンツの捕手が激怒岡田を小突いて退場処分になるという事件が起こる試合
ついに迎えた花形と飛雄馬の直接対決消える魔球の正体が縦変化の魔送球だと推理した花形は自信満々で打席に入っただが初球は花形の推理どおりの縦変化の魔送球続いて消える魔球を投げ、花形の推理を嘲笑うこれに怒り狂った花形は飛雄馬を卑怯者と罵るだが左門からの電話で、飛雄馬は決して虚勢やハッタリを言っていたわけではないと思い知るこの瞬間、花形の完全敗北が確定した花形も交代し、試合は2-0で9回裏阪神は代打遠井吾郎が内容は不明だが二死から二塁打を打ったらしい
■神戸のメトロいろいろその5翌朝。NHKの『目撃!にっぽん』をみる。札幌にある自立支援施設のはなしだった。この番組、面白いな。毎回引き込まれます。あと、番組のテーマ曲がいいですね!ホテルをチェックアウト。クルマは昨夜の雨でスッカリ綺麗になってますやん!今年の夏は雨が降らないんで、乗る前に窓のホコリだけは拭くようにしてましたが、ボディはその内ゲリラ豪雨でキレイになるやろて思ってました。大成功~!西宮へ向かいます。クルマの中はラジオが流れてた。ABCラ
1969(昭和44)年、「東京オリオンズ」は「ロッテ」と業務提携を結び、球団名を「ロッテオリオンズ」と改称すると、翌1970(昭和45)年、「ロッテオリオンズ」は見事に10年振りの優勝を達成した。しかし、翌1971(昭和46)年に、オリオンズの永田雅一オーナーは、本業の「大映映画」の経営悪化により、球団経営から撤退し、同年(1971年)12月、「大映映画」は遂に倒産した。そして、1972(昭和47)年限りで、オリオンズは「東京スタジアム」からも撤退する事となった。そんな中、197
大リーグボール2号を打たれた事で完全に心が折れてしまった飛雄馬川上監督にオールスター戦の出場辞退と引退を願い出るが「お前は全てかゼロしかないのか」と却下される一方ライバル花形も父親の花形モータース社長から野球を引退して後を継ぐかどうかをオールスターの飛雄馬の結果で決めるという賭けをさせられるそんな中大敗しているオールスター第一戦でついに飛雄馬は登板を命じられたここは花形モータースの本社たがTESTというプレートの車は、3代目ブルーバードっぽいやはり花形モータ
宝塚ファンの皆様、すでにお聞きおよびでしょうが宙組公演が再開ですって!いや〜どんだけ恥知らずなのよ、阪急、宝塚、宙組。なぜあの宙組トップをそうも守りたいのか理解できない。両親の関係から生粋の阪急っ子、と書く人もいますけど、あのね??星組に創業家の娘がいるんですよ??天下の東宝社長の姪ですよ?おもねるならそちらの方が重要でしょ。お父様が阪急ブレーブス出身といいましても阪急ブレーブスという名称がなくなったのは平成前ですよ??つまり35年以上まえ。お母様が元宝塚といいましてもそういった係累を持つ生
本日(10/19)は、今から31年前の1988(昭和63)年、日本中が釘付けになった、川崎球場のロッテ-近鉄の「10.19」のダブルヘッダーが行われた日である。近鉄バファローズが、シーズン最後の、残り2試合に連勝すれば逆転優勝という状況で、1988(昭和63)年10月19日、ロッテ-近鉄のダブルヘッダーが行われた。当ブログでも、この「10.19」については、何度か触れているが、今回は、10/19という日付に因み、その「10.19」の詳細な経緯などについて、描いてみる事としたい。
桑田佳祐が、サザンオールスターズのコンサートで、長渕剛を「前座扱い」にした上、コンサート終盤で、桑田が長渕にビールを浴びせてしまったという「1983ナゴヤ事変」により、桑田佳祐と長渕剛の関係が悪化したという話を、前回の記事で描いた。その後、桑田佳祐と長渕剛の間柄は疎遠になってしまったが、桑田と長渕は、それぞれ実績を積み重ね、音楽界で超売れっ子になって行った。今回は、桑田と長渕の1980年代後半の活躍と、深く静かに進行して行った、2人の対立について、描いて行く事としたい。<
オリックスブレーブス移転後は、「阪急西宮スタジアム」と名称が変わりましたが、西宮球場時代からも野球以外に多目的に使用されていました。コンサート会場としては、クィーン、マイケルジャクソン、マドンナ、ボンジョビなと海外の大物アーティストもやってきました。また業界では有名な「3000人の吹奏楽」の会場にもなっていました。西宮球場と切っても切り離せないのが競輪。1949年3月から2002年の63年間、西宮競輪が開催されました。阪急ブレーブスの集客不振を打開するためでしたが、その目論見はあたり連日満員
打倒蜃気楼ボールに燃える花形星一徹の協力もあり、ついに必殺のツバメ返し打法を完成させたしかし肉体を極限にまで酷使するこの打法は禁断の魔打法でもあった飛雄馬との最後の対決に挑んだ花形はついに蜃気楼ボールをとらえ、ホームランを放つしかし直後に花形は倒れ、野球生命は終わってしまった最終回「新たなる出発(たびだち)」前回ズタボロで倒れて、野球界から去った花形がいきなりピンピンして登場(笑)ただもはや野球選手としては無理らしい破壊されたのは上半
広岡達朗、野村克也は、それぞれの上司である川上哲治、鶴岡一人と、決定的に対立してしまった。そして、広岡達朗は、13年間所属していた巨人を、追い出される事にとなった。そして、野村克也の前に、遂にあの女性が現れる事となる。そう、皆様もご存知の、あの「サッチー」である。というわけで、今回はいよいよ、サッチー(沙知代)にご登場頂き、ヤクルトスワローズ球団史に大きな関わりを持つ野村克也と、野村克也の「運命の女性」サッチーとの出会い、そして1977(昭和52)年シーズンオフの、野村克也
オツカレ様です。この前ランチ行きました。宝塚歌劇団の衣装、飾られてました。刺し身撮り忘れました・・・幼少の頃は、宝塚ファミリーランドよく来ました阪急ブレーブス子供会の、クリスマス乗り物乗り放題が懐かしい宝塚ホテル、南口から大劇場横になりました。美味しく頂きました。そんな感じです。
現在、プロ野球12球団には、それぞれマスコット・キャラクターが居るが、かつては、プロ野球の球団にはマスコットというものは無かった。そのマスコットを本格的に導入し、定着させたのは、阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)であり、プロ野球におけるマスコット・キャラクターの先駆け的存在となったのが、ブレービーであった。(阪急ブレーブスのマスコット・キャラクター、ブレービー)今回は、プロ野球12球団のマスコットについて、球団別にご紹介したいと思っているが、まずは、日本のプロ野球のマ
2019年5月1日、元号が平成から令和に代わり、プロ野球は令和元年のシーズンとしてメモリアルなゲームが展開されることでしょう。そんな中、セ・リーグで3連覇中の広島カープの調子が上がりません。丸の巨人移籍の影響があるかもしれませんが、カープファンならずとも、評論家のなかでも広島カープの4連覇を予想している方々もいます。カープ3連覇!V9グラフ〜優勝号外・衣笠祥雄メモリアルブック付き〜2,980円Amazon振り返って、戦後からのプロ野球の歴史の中で4連覇した
(旧)師走十八日栄光の時を閉じ込め伝説となって心のわがブレーブス雲端西宮ガーデンズの一角にある展示には、西宮球場当時の「お宝」が並ぶ。阪急ブレーブスのユニフォームに当時の優勝旗、ペナント等々。今も、ブレーブスから発展したオリックスバファローズを僕は応援し続けている。今年もまた。。。球場のあった時代の模型。
KANSAICLASSIC2018近鉄と南海の復刻の次は、阪急と西武の復刻ユニフォームでの試合が行われた。阪急は1985年から88年のビジターユニフォームを復刻した。私はいつもホームの西宮球場で観戦していたので、ビジターユニフォームは馴染みが薄い。阪急の球団マスコット、ブレービーがビジターユニフォームを着た姿は初めて見たので、とても新鮮に思えた。さて、オールドユニフォームの着こなしを見てみる。まず最初に違和感を覚えたのが、そのシューズの色だ。阪急当時のシューズは白地に赤のラインのスパ
(旧)師走十七日遊ぶ子を微笑み見つつ誰からも顧みられぬベース愛しき雲端旧西宮球場の西宮ガーデンズ。そのスカイテラスには、かつての位置にホームベースのオブジェが埋め込まれている。この赤丸の位置なのだが、誰も気にする人はない。
(旧)師走十六日憧れの日々確かめる西宮今は形も無きスタジアム雲端阪急電車を、、、西宮北口駅に降りる。駅前には阪急百貨店を軸にしたショッピングモール「西宮ガーデンズ」ここにはかつて、、、西宮球場と呼ばれた野球場があった。わがオリックスバファローズの前身阪急ブレーブスのホームグランドだ。
▪️所在地:兵庫県西宮市高松町14▪️完工:昭和12年(1937年)5月5日▪️廃止:平成12年(2002年)12月31日▪️収容人員:55,000人(内野37,000人・外野18,000人)←完工時▪️中堅:118m両翼:101m(ラッキーフェンス設置時:91m)▪️観戦試合:1989.6.23vsライオンズほか17試合西宮球場は、阪急ブレーブス→オリックスブレーブスの本拠地でした。昭和10年(1935年)に、京阪神急行電鉄の小林一三会長が、職業野球開催の機運を捉え、建設を
1975(昭和50)年、桑田佳祐と関口和之は青山学院大学の2年生に進級したが、その年(1975年)、桑田・関口の1年後輩として、原由子と大森隆志が、青山学院大学に入学した。後に結婚した桑田佳祐と原由子は、ここで初めて出会う事となった。というわけで、今回は桑田佳祐と原由子が初めて出会い、音楽界・芸能界に新たな才能が続々と生まれ、プロ野球では広島東洋カープが、球団創立26年目で初優勝を達成し、「赤ヘルブーム」を巻き起こし、そして阪急ブレーブスの黄金時代の幕開けとなった1975(昭和5
現在、連載中の「サザン史・外伝【連続ブログ小説】『クワタとハラ坊』」というシリーズ記事は、私自身も、書いていてとても楽しいのだが、1つ1つの記事を仕上げるためには、少し時間がかかる。ちょっと気合いを入れて(?)書いているシリーズ記事であるが、一旦、ちょっと「お休み」させて頂き、今回は、肩肘の凝らない(?)記事を書かせて頂きたい。今回、取り上げるのは、かつて阪神タイガースに在籍していた赤星憲広が、試合後のヒーローインタビューで、思わずファンに対して言ってしまった一言、「入ってね