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2022年1月30日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第4回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第4回北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、北條政子(小池栄子)、北條宗時(片岡愛之助)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、伊東祐清(竹財輝之助)、仁田忠常(高岸宏行)、江間次郎(芹澤興人)、工藤茂光(米本学仁)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田
鎧に鉄が使われなくなった時期古墳時代・奈良時代には挂甲・短甲といった主に鉄でつくられた鎧兜が使用されていましたが、平安時代には綴牛皮(てごひ)という革製の鎧兜が出現し、大鎧が誕生します。奈良時代後期の光仁天皇(709~781年)が780年に「甲冑は皆よろしく革を用いるべし」と勅命を出し、平安時代初期の桓武天皇(737~806年)は790年に蝦夷征討にあたり坂東諸国に2,000領の革鎧をつくらせるなど、2度にわたり「鉄の鎧は不便なので革製の鎧兜に切り換えるように」と命令が下され、国家的につくら
前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。今回は縅毛の色目についてです。死に装束としての鮮やかさ縅毛の色目は、赤・紺・白・紫・萌黄・浅葱・茶・薄青などの色絲が一般的です。色目には一部の色を変える
前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。今回は立物(前立)についてです。平安時代の兜(遺物)には1つも鍬形はついていない立物の1つに鍬形および鍬形台があり、兜の正面に掲げる一双の角状の立物のこと
石器時代や縄文時代は短い弓を用いていた『日本書紀』に毛人(蝦夷)が弓の名手で毒矢を使うという記述があります。『吾妻鏡』貞応3年(1224年)2月29日條に夷弓が短いことに触れられています。夷弓は毛人(蝦夷)の弓です。夷弓のような短い弓は、連射性に優れ、腕力を必要とせず、馬上で扱いやすい利点がある反面、大きい弓に比べると射程距離や貫通力が劣っており、馬上戦に向かない環境や歩射には向かないとされています。夷弓は騎射による機動戦において真価を発揮する弓であり、射程や威力は毒で補っていました。また、見
実はそれがしも子どものころからずっと座右の銘にしてきたこの最後の一文「一期は夢よただ狂え」は、ビジネスなどでもよく座右の銘にしている方を見かけます。真の意味を知っている人は少ないようです。『閑吟集』は恋愛をうたったものが多く、この節も例外ではなく、真の意味を知ったら、ほとんどの方が座右の銘にはしないかもしれません。あ、逆に真の意味を知って、あえて座右の銘にする方も続出するかも…???『閑吟集』夜中は地櫓裏に巣刳るちろりちろり何と裳男矢綯う何ともなやなう浮き夜は夫婦
烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。公家や侍(仕える下級貴族)たちの日常のかぶり物として徐々に庶民にも広まっていき、
前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。大鎧を構成する小札はほとんどが革平安時代の鎧についてのあれこれ(2)で大鎧は日本史上最も軽い鎧という話をしました(この表現にはかなり語弊はありますが)。奈良時
津波(河川遡上)津波で鎌倉も大船ものみこまれる。と、思っているのは私だけなのだろうか。最近、鎌倉市内の津波ハザードマップ、洪水ハザードマップ、土砂災害ハザードマップなどを見ていて、プロがつくっているのだから、正しいデータに基づいてつくられているのだろうけど、どうも信じられない。鎌倉市にはなぜ河川遡上を踏まえたハザードマップがないのだろうか。滑川をはじめ鎌倉にはいくつもの河川がある。河口から河川に侵入した津波が、1mの津波でも5kmは遡上するといわれている。河川を遡上する津波は伝播速
遺物がありませんので全ては『平治物語絵巻』『蒙古襲来絵詞』『後三年合戦絵詞』『軍用記』『武器袖鏡』などに描かれた貫(毛靴)からの推測となります。笹間良彦氏によれば、履物は、古墳時代や奈良時代には身分の高い者が履いており、下級の者は裸足であったそうです。埴輪の履いている沓などから古代の履物が推測できます。かなり後世までは裸足だったようで足の裏は相当丈夫だったようです。平安時代以降、俘囚の文化が入ってきて以降は、鹿や猪などの皮(革)でつくった沓、貫(毛沓)が使用されたとされています。狩猟用で
2022年4月17日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第14回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第14回「都の義仲」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、木曽義仲(青木崇高)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、仁田忠常(高岸宏行)、岡崎義実(たかお鷹)、平知
1月1日(元日)初詣・年籠(としごもり)かつては「年籠(としごもり)」といい、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に籠る習慣がありました。これは仏教説話集『後拾遺往生伝』にあり平安時代にはすでにあったことが分かっています。やがて年籠は、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」の2つに別れました。「元日詣」が現在の初詣の原形です。氏神に参詣する以外に、居住地からみて恵方にあたる社寺に参詣する「恵方参り」や「三社参り」「二年参り」「初縁日(初卯・初巳・初
烏帽子のルーツは古代中国の頭巾烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。※古代中国では、冠や烏帽子(烏帽子の起源とされる