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特別公開刀剣の美を楽しむー刀身の美・鞘の美ー|春日大社www.kasugataisha.or.jp春日大社にこれを見に行きました。↑特にこの現存する最古の打刀を見たくて。刀身は平安時代のもので、拵は南北朝時代のもの。打刀として確実なものとしてはこれが最古のものといわれています。室町時代の中期以降に太刀佩きにかわって打刀の二本差しが流行しますが、打刀自体は平安時代から存在します。太刀佩きが許されない身分の者が差していたと考えられています。打刀とは「刺す刀」ではなくて打ち付ける刀とい
さて、平安時代に起きた合戦や戦争を一通り見てきた。ここで再び合戦のルールと武士のフェアプレイ精神について論じたいと思う。最初に私の結論から言おう。原則として平安時代の武士が行う合戦にルールはない。平安時代の武士道たる兵の道(つわものの道)にもフェアプレイ精神といった精神性はない。なぜそう言えるのかと言えば、ルールには罰則が必要である。罰則のないルールなど守られるはずがないし、仮に罰則があったとしても、それを強制し行わせる強力な権力が平安時代にない。唯一、天皇や朝廷が公的権力として存
ワイルドバンチ演劇団第10回公演マタ後ノ世モ、巡リ会ヘ-頼朝と義経-2026年3月12日(木)〜15日(日)@ザムザ阿佐谷●あらすじ時は平安末期。源頼朝は、清和源氏の後継者として平家を打倒するために挙兵する。そしてその報せを聞いた弟の義経は、はるばる奥州から馬を走らせ二人はついに、二十年ぶりに対面を果たす。再会を喜ぶ頼朝と義経は真の武士の世をつくるため手を取り合い、共に戦うことを誓うのだった。時代は風雲急を告げ、目まぐるしく移り変わってゆく。かつて栄華を誇った平
今年の夏、京都に行き、泉涌寺を参詣した際に悲田院を発見しました。しかし、泉涌寺の末寺として現存している悲田院は平安・鎌倉時代に存在していたものとは別だそうで。『徒然草』に悲田院が登場するのは第141段です。京の都の人と鎌倉の人との性質の差について述べられています。悲田院の尭蓮上人、在俗時代の姓名は三浦のなにがしとかいったそうで、比類ない武者だった。故郷の人がやってきて話をした際に、「東国の人の発言こそは信頼できる。都の人間は、快く引き受けるのは口先だけで誠実さがない」
源実朝の上洛の思いは建保四(一二一六)年三月二四日に届いた知らせでさらに高まった。この日京都から届いたのは、一〇日前の三月一四日の夜に坊門信清が亡くなったという知らせである。坊門信清の死の知らせを受けた後鳥羽上皇はただちに石清水八幡宮から戻るとして周囲を当惑させたというのがこの書状に記載されている内容であった。後鳥羽上皇から見て坊門信清は、叔父であると同時に岳父でもある。慌てたとしてもおかしなことではない。この知らせを聞いた源実朝は上洛を求めた。坊門信清は源実朝の正妻の実父であり、また、朝
男衾駅~不動寺~熊野神社~長昌寺~普光寺~出雲乃伊波比神社~常楽寺~昌国寺~男衾駅まで約8㎞。男衾の里難読地名の男衾は、鎌倉時代の武士・男衾三郎がこの地に住んでいたことに由来します。駅前の街路樹が紅葉。不動寺創建年代等は不詳板碑町指定文化財板石塔婆は、主として追善供養のため、鎌倉時代中頃に出現し江戸時代初期まで造立されたもので、青石塔婆は当町最古のもの。どちらの仁王像も筋骨隆々、門の守護者としてふさわしい姿。