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70年代~80年代中盤までの男性アイドルは、ソロも多くジャニーズ以外のアイドルもたくさんいて、歌番組は個性豊かでした。特にレッツゴーヤングは売れる売れないに関わらず色んなアイドルが出演して楽しかったです。その番組内グループ、サンデーズは毎年何人かが卒業します。卒業回である81年3月22日はメンバーの持ち歌が聞ける貴重な回でした。渋谷哲平「Deep」作詞松本隆作曲都倉俊一山崎誠「ジャギーガールNo.1」作詞橋本淳作曲平尾昌晃
太陽はひとりぼっち園まり19621962.09モノラル録音作詞:ミケランジェロ・アントニオーニ訳詞:タカオ・カンベ作曲:ジョヴァンニ・フスコ編曲:森岡賢一郎シングルジャケットはWebにあるものを使用しました。音源はCD「三人娘全曲集」です。youtu.be昨日、ダイガシから教えてもらったところによると、牧村旬子が歌った「誘惑されて捨てられて」の日本語歌詞を書いたのが、水木かおるだということが分かって、私も楽譜が出ているのを確認致しました。で、水木かおるの名誉の
ピンク・レディーがデビューしたのは、1976年8月25日。まもなくちょうど45年になる。「ペッパー警部」で彗星の如く登場し、たちまちスターダムに駆け上がった2人は、歌謡曲の歴史を塗り替える圧倒的な成功を収め、社会現象と呼ばれる巨大なブームまで巻き起こした。華やかな活躍は、レコード音源やテレビ出演の映像、新聞・雑誌の記事などによって今に伝えられている。また、その舞台裏に関しても、関係者の回想などで数々のエピソードが語られ、半ば「伝説」となっているものもある。そうしたエピソードの一つに「実は“
今回は結論から書きます。Q・ピンク・レディーはなぜ解散したか?A・最も大きな理由は、メンバーの一人が当時の交際相手との結婚を望み、解散を申し出たことによる。加えて、背景には当該メンバーと所属事務所の関係の悪化があった。紅白歌合戦出場辞退、アメリカ進出など話題作りを優先する事務所の強引な手法や、交際を巡って「仕事を取るか結婚を取るか」と迫る上層部のハラスメント行為などによって、事務所に対するメンバーの不信感は極限にまで募っていた。ただし、上の事情は2000年代にメンバーが著書で明らかにするまで
「何故売れなかったのか」と悔やまれてならないアイドルはたくさんいるんですが、その中でも、少女隊は特に、売れなかった直接的な原因が本当に不運としか言いようがないためか、惜しい気持ちが募ります。ものすごく、お金をかけて(40億と言われています)大々的なプロデュースの末に生み出されたアイドルが少女隊でした(このあたり、セイントフォーと通じる部分がありますね)。レコード、PVは全てアメリカで収録、撮影。現地のミュージシャンを巻き込んでのレコーディングで、おかげでサウンドの質は当時の日本
1978年5月15日。ピンク・レディーが「夜ヒット」で「サウスポー」を歌うのは、この日が3回目。例の野球のユニフォーム調のコスチュームは、いくつか色違いのバリエーションが作られていて、この日はまず、オープニングメドレーで黒の衣装を着て「UFO」を歌った。恐らく前の仕事で着用したままフジテレビに移動して、オープニングに登場したと思われる。その後、自分たちの歌の番では、改めてブルーを基調とした別の衣装に着替えて現れた。2人の背中には、それぞれカタカナで「ミー」「ケイ」の文字が。これ、当時テレビ
昭和歌謡が全盛期を迎えていた1977年。「夜のヒットスタジオ」は正月休み返上で、早くも1月3日から放送している。この日のオープニングメドレーでは、晴れ着で登場したピンク・レディー。ミーちゃん18歳、ケイちゃん19歳。ごらんの通り、もう文句なしの可愛さである。(ミーちゃん、右手に火傷したのかな?)※追記:当時の雑誌記事によると「旅先でバッグのふちに引っかけてケガをした」とのことそしてミニの白の衣装に着替えて披露したのは、2枚目のシングル「S・O・S」。この曲で初めてオリコンチャートの1位