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タモリが山下洋輔らの招きで1975年6月に福岡から上京後、赤塚不二夫や筒井康隆らの前でその〈密室芸〉の数々に磨きをかけた新宿・歌舞伎町のスナック「ジャックの豆の木」が前年の74年2月に発行したジャックの豆の木新聞「有閑ジャック」創刊号。寄附者一覧に、山下、坂田明、高信太郎、奥成達、三遊亭春馬らの名前がある。☆事前講座+ウォークイベント『西条昇教授と歩くタモリが新宿にいた頃〜新宿アルタ閉館を惜しんで〜』(参加費無料)開催のお知らせ江戸川大学・西条ゼミでは、来たる2025年2月2
りぼん1960年(昭和35年)4月号幼女むけ総合月刊誌として1955年に創刊された『りぼん』。創刊当初は男性漫画家による作品が多く掲載されていた。なかでも横山光輝・つのだじろう・赤塚不二夫は人気連載作を発表している。この年の9月号から牧美也子「マキの口笛」の連載が開始される。以降、女流漫画家による作品が多く掲載されるようになる。この号には創刊後の『りぼん』を代表する人気連載である横山光輝「おてんば天使」がある。りぼん5月号のとくべつごうかな8大ふろく‼︎①フレンド・バック②別冊
松本零士先生のメーテルのイラストの贋作はかなりあるように思います。これなんか怪しいのかもしれません。。。5万5000円もかけて鑑定しても意味がないと思いますし、サインのタッチをもう少しよく見てみます。サイン会の日付入りなんて、ニセモノ師には余裕で思い付くアイデアでしょうから。複製画なんですかね。複製画と印刷の違いがわかってませんが。絵のクオリティも高いですし。。。複製画かも。複製画として直筆とどう見分けるのか、まんだらけの鑑定レベルでないとわからないんでしょうか。これらは、新潟
ギャグ漫画から、少女漫画までこなす天才漫画家の赤塚不二夫さんの墓参りです。子供の頃は、バカボンやアッコちゃん・もーれつア太郎などテレビで見てました。赤塚不二夫とは漫画家。中国(満州)生まれ。第二次世界大戦後まもなく中国から引揚げ、奈良、新潟で育つ。中学卒業後上京し、工員として働きながら漫画を投稿。このころ石森章太郎(石ノ森章太郎)を中心とする「東日本漫画研究会」に参加。また、豊島区椎名町のトキワ荘に移り、石森、藤子不二雄、水野英子らと共同生活をする。1958年(昭和33)、『漫画王
自分トフタリッキリデ暮ラスノダ自分ノパンツハ自分デ洗ウノダ自分ハ自分ヲ尊敬シテイルカラソレクライナンデモナイノダ…これは赤塚不二夫と谷川俊太郎とのコラボ詩集の一節です。今年(2024年)谷川さんが亡くなられた時「二十億光年の孤独」と共にSNS等で泣けると話題になりました。私が谷川俊太郎さんを知ったのは今から40年前、劇作家の寺山修司さんがビデオ・レターで往復書簡を始めた相手だって事でした。このお二人に共通しているのは「好奇心の塊」だと言う事です。寺山さんなんか好
"おそ松さん"監督英勉原作赤塚不二夫出演高橋ひかる*トト子桜田ひより*チビ太八木莉可子髙石あかりあらすじ、ネタバレ御免六つ子のおそ松唐松チョロ松一松十四松トド松20歳を過ぎてニート実写はやりにくいそもそも実写でやるような話じゃない無理してまでやるような企画じゃない六つ子なのに髪型以外全然似てないし六人の憧れトト子トト子は屑で童貞の糞ニート六人が嫌いチビ太屋台のおでん屋を営む
トキワ荘マンガミュージアム豊島区立の熊谷守一美術館がありました。ここは熊谷守一の自宅だった場所です。次は豊島区立長崎公園。西武池袋線の踏切を越えて南に向かって歩きます。10分足らずでトキワ荘マンガミュージアムに到着です。ここは今年5月にも訪れたところ。手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫などの有名漫画家たちが若手時代に暮らしていたアパートが復元されています。「トキワ荘」から東にのびる商店街。トキワ荘通りという名前です。昭和の文化、暮らしぶりが展示され
シェーをもう知らない世代も多くなりました。このポーズも形式美のような拘りが結構ありますね。(靴下含む)イヤミ名前の通り、嫌味な男性。漢字表記は「井矢見」。痩せ型で3枚の出っ歯と口髭、当時人気を博していたビートルズ式の長髪が特徴。話す際に語尾に「~ザンス」と付ける癖がある。一人称は「ミー」、二人称は「チミ」。手足を曲げながら「シェー」と叫ぶギャグは国民的な流行語となった。トニー谷がモデル。ほとんどの話では独身の設定でモテない場合が多い。職業や役割は様々。原作初登場時は医者の役だった。