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今年1月20日、左右両方の脳出血で倒れ、緊急手術をした父。開頭手術をし、頭蓋骨はお腹の脂肪のなかに入れた。2月19日、お腹のなかに入れていた頭蓋骨を取り出し、頭に戻す手術をおこなった。もう1ヶ月もたつんだ。術前の頭は、べこっとへこんでいて違和感ある頭でした。もとに戻るんだ、嬉しい。術後、またも包帯ぐるぐる巻きの頭。そして、4-5日間は顔も腫れあがった。これまで健康で手術の経験がなかった父、この1ヶ月で、頭を2回、お腹も20㎝ほどを2回きり、気管切開、肺、と、大変な1ヶ月を送った。体力
今年1月20日に脳出血で倒れ、意識不明が続いている父。2月13日、気管切開手術をした。麻酔がきいているというが、見た目にはわからない。大きな管がとれ、父が少しでも楽になったと思うと嬉しい。今まで鼻からチューブを入れていた痰吸引は、気管切開したところから痰吸引する。それは、変わらず苦しいみたい。意識回復したときは、声がでなくてびっくりしちゃうよな。
佐賀住まい・福岡勤務の作業療法士の橋間葵です。同じ時期に脳卒中になられてから、数年後お会いしたり、SNSでの近況を確認すると、その方によって、さまざまな症状が残っているなと思うことがありませんか。リハビリの内容や、年齢・体力などで予後が変わりますが、脳のダメージを受けた場所で出現してくる症状が異なるので、残っている症状が異なる場合があります。今回は、脳出血による脳のダメージを受けた場所ごとの臨床症状についてまとめていきたいと思います。脳出血の疫学2
今年1月13日(日)後から考えたら、倒れる1週間前のこと。その日は、母と観劇に行きました。観劇帰りの夕方、父と待ち合わせ、3人で食事へ。その時の会話は、観劇についてや、4日後が父の誕生日だったので、お祝いの話など、いつもどおり、笑顔で過ごした時間。誕生日をむかえることで、病気することなく健康でいられることに、父は亡き親への感謝の気持ちを語っていました。食事した東京の店を出ると、両親はバスで埼玉の家へ、私は電車で横浜の家へそれぞれ帰り、別れ際、父は私に、実家に泊まらないの?と泊まってほしそ
保険証など、父の荷物をいろいろ見る、探すことが、とても嫌だった。こんな日がくるなんて…。あらためて父が見えないところまで几帳面な人だと知った。すべてひとつのところにあった。保険証券などもすべてひとつのところにあった。私は何かととっておき、不用な書類も結構ためてしまうほうだ。だが、父は不用な書類がなく、見つけやすく、探しやすかった。すぐに、見習った。自分に何かあったら、ここにすべてあると夫に伝えた。もっているクレジットカードもすぐ解約できるよう、わかりやすくまとめた。保険、クレジットカ
悲しんでいるところにも、病院からいろいろな質問事項に答える。父の身長体重からはじまり、普段飲んでいる薬や、生活習慣のこと、便や尿のことまで。家族でも、知っていることのほうが少ない…。お薬手帳、大事です。記入する書類も次々と手術同意書、入院手続き、レンタル申請や、今後に関するアンケートなど。病院以外では高額医療、介護申請、保険、すぐ書けて提出できればいいが、説明書類読んで、必要書類をとり、役所と病院と出向き、母だけでは体力的に無理だと感じました。
脳出血で倒れた父。目も開かず意識不明が続いている。それでも、顔を真っ赤にして苦しい顔をする時がある。苦しさで身体も動く。ピンコンピンコン、機械音も鳴る。最初はすごく驚いた。原因は痰がつまっているのだ。意識不明でも苦しいのか…。看護師の方が痰吸引してくださる。口からは人工呼吸器がつながれているので、鼻からチューブを入れ、吸引する。それが、すごく苦しいという。顔が真っ赤になり、身体全体で苦しさを伝えている。数分のことだが、見ていられない。そんなことが1時間おきにやってくる…。生き
頭蓋骨を戻す手術をした3日後の2/22から、日中は人工呼吸器をはずした。意識不明は続いている。ただ酸素は送っている。夜はまた人工呼吸器をつける。途中、呼吸を休んでしまうことがあるので心配の日が続いた。
一般病棟に移ってから2日後、医師から説明があった。最近撮った術後の脳の画像。腫れは落ち着いてきていたし、中心位置も戻ってきていた。意識不明のことについては、今後、目を開けてくれるかどうか…。倒れた日の説明では、片麻痺、失語などの可能性を話されていたし、家族も質問していた。ただし意識回復が目標だと。今回は、失語や片麻痺の言葉は誰からもでなかった。気管切開の話になる。私の気持ち、今の人工呼吸器がついた状態で目も開かない父。気管切開をして、この状態で生かされていくのはどうなのか…。医師に話
倒れてから2ヶ月間は目を開けることができなかった父。開かないけどピクピクという動きをするようになって、家族で喜んだ。リハビリテーション病院に転院してから、リハビリ途中で片目が開き、私は泣いた。そして、リハビリ以外でも、たまーに、ほんの一瞬ベッドでも片目を開けるようになり、そして、倒れて3ヶ月、両目を開けたときは、また泣いた。今では、両目を開けていることが増えた。増えた…といっても、開けている時間は数秒~数分。開ける頻度が増えた。眼球の色も薄かったときから、もどってきたような気がする。
今年1月20日(日)休みだったので、目覚ましもつけず、携帯電話は音を切り寝室には置かなかった。朝までぐっすり寝て、8時ごろ起きた。寝室をでて、すぐ携帯電話の光に気付く。手にとってすぐに胸騒ぎがした。着信件数とLINE件数の多さに心臓の音が早く大きくなった。母からのLINE内容にはお父さんが意識不明で倒れた。朝方救急車で救命センターに運ばれたという。最初の着信やLINEから既に1時間30分がたっていた…。身体が震えた…声を震わせ母に電話した。生きてる、父は生きてる、とにかく急いで
1ヶ月ちょっと前に呼吸が苦しくなった父、そのとき、酸素をつけられた。それからずっと今でも酸素は送られている。酸素がはずせなくなっている…
どういうわけか、父の年齢が、実年齢より10歳若い57歳と書かれていた。ベッドにも。父の手首バンドにも。気がついたのは、1月20日に倒れ、そのまま開頭手術となってから、確か2~3日後のことだ。どういう経緯かわからないが、他人から見たら、50代でも違和感がないのかもしれない。背が高くて恰幅がよく、シワもまだないし、白髪も目立たない父。開頭手術する際、本人にはかなりの負担がかかる。その判断のひとつに、患者の年齢もあるのではないだろうか…。もし、57歳ではなく、67歳と理解していたら、何か違っ
意識不明の父はオムツをしている。意識不明でも便がでてる。便意を感じてるのだろうか。少なくても、りきむ力が必要のはず…。なんか、嬉しくなった。
画像見たとき、知識のない私が見ても驚くほどの出血量だった。左被殻出血。さらに、右被殻出血…。高血圧によるものだと言う。出血量で脳が圧迫され脳の中心がずれていた。今回の開頭手術後、1ヶ月後に、左頭蓋骨を戻す手術を行うとのこと。それまで頭蓋骨は、お腹の脂肪のなかに入れていると。手術はあくまでも救命のため。予後のことを不安に感じていた私たち家族に、医師は、まずは意識回復すること、それが目標です。と…。
1月21日少しの時間ならICUに入ることが許されていた。必死に生きている父。まだ意識はない。でもまだ少し麻酔を入れていると言われ安心した。ポロポロ涙を流しながら、じっと見つめて立つだけの私を見て、声をかけても大丈夫ですよという声をかけられた。でも、かけられなかった…。目を覚ましてほしい気持ちはあったが、現実が辛すぎるからだ。顔を見てたえられず、2、3分でICUをでた。声をだして泣きながら駅まで歩いた。スーパームーンがパワーをくれたらいいな。そう願った。
告げれらたのは、2022年4月だったかな。担当医に母が呼ばれた日。コロナ渦で、母一人で行きました。そこで父の余命を告げられました。あと1年と思ってください…。病院からすぐに、母から電話がきた。母の声が震えていた。わかってる、わかってるんだけどね、目をみて言われるとすごく怖くてショックで、、声を出して泣いていた母。また泣いてごめんね、すぐ落ち着くから。もう大丈夫だから。そんな言葉を私にかけていた。コロナ渦とはいえ、こんな話を、母ひとりだけで、なぜ背負わせたのかと、私も辛かっ
60代の父と母をもつ私40代の娘。同じ40代の兄がいます。兄弟二人とも家庭をもち、実家はでています。とても元気な家族で、笑顔に溢れていた日々が一転。今年1月父が脳出血で倒れました。背が高くて、恰幅のよい父、風邪で寝込んだことも記憶にないくらい健康で、まだまだ仕事もしていました。そんな父が…目まぐるしく過ぎてゆく日々と、追いつかない気持ちを書き留めておきたい。心のページです
病院到着すると父は緊急手術をうけていた。開頭手術病院についてやっと脳出血だと理解した。開頭手術…恐ろしい…そんな大変な手術を…でも手術すれば大丈夫!絶対大丈夫!父なら大丈夫!そんな自信がなぜかわいてきた。手術が終わり、ICUに入った父。少しの時間だけICUに入ることが許された。人工呼吸器がついた父。信じたくない父の姿があった。麻酔がまだ効いているとのこと。
何度か父が夢にでてきてくれた。意識回復して、これまでのこと、ゆっくり会話している夢。母がうるさくて困ってると、父が私に愚痴る夢。(母にこの夢の話を伝えると、微笑んだ。意識不明の父の耳元で話をすることが多いらしい。聞こえてるのね)兄の夢にもでてきたという。兄の夢には、声のみの出演。父から朝に電話がかかってきて、これから仕事か?仕事頑張れよ。って言ってくれた夢。父らしくて、涙がポロポロ。そろそろ声が聞きたい…。
今年1月20日に倒れてから約10日ほどで、ICUからHCUに移った。顔の腫れは落ち着いてきたが、父の意識はまだ戻らない。人工呼吸器もまだついている…。熱が出やすくて、からだのまわりにアイスを置いている。冷たそうだ。
顔の腫れがひどい。腫れというより、顔の大きさが二まわりも三まわりも大きくなっていると言える。もう、父の顔とはわからなかった。そして、呼吸が苦しそうでもう死んでしまうかもしれないと恐怖を感じた。痰がつまっているようだ。右肺が真っ白だった。気管支鏡で針を刺した。苦しそうで、痛々しくて、可愛そうで、切なくて、信じたくなくて、見ていられなかった。辛すぎる…。
父が今年67歳となった1月17日。後から考えたら、倒れる3日前のこと。私は父にメールを送りました。おめでとう。最後に送ったメールとなった。その後父からの返信メールはなく、父から最後に届いたメールは、1月13日待ち合わせした時、今バスに乗ったよ。でした。誕生日、メールですませず、会えばよかった…会っておめでとうって伝えたかった…会っていらたら、運命は変わっていたかもしれないと後悔が押し寄せる。
まだ意識不明のなか、3/1抜糸した。大きな大きな傷に、かなりの数がホチキスのようにおおっていたもの。抜糸された。頭と、頭蓋骨を入れていたお腹、同時に抜糸。1月20日、開頭手術、お腹に頭蓋骨入れる2月19日、お腹から頭蓋骨取り出し、頭蓋骨戻す手術をした傷跡同じく3月1日、送っていた酸素をとめた。自発呼吸。たまに、苦しそうに大きく息を吸い込む父。心配…。どうにか酸素を父の口元に集められないかと思ってしまう。夜はまた酸素を送ってくれるそうなので、日中は側にいた。
一日数回、栄養を鼻からチューブで入れている。口がたまに動く。何かはいってきてるってわかるのかな…。ふと見ると、父が口からあわをふいていた…。その姿にショックをうけ、すぐにはっと、きっと呼吸苦しいよね、危ない。ちょっとびっくりしたが、キレイに拭き取ったら落ち着いた。栄養入れると、痰もでやすくなり、苦しそうになる…。まだ私には、元気な父が鮮明すぎて、日々こういう姿を見ていくってことが、受け入れられてない…。何もできないとは、寝ているだけの姿を想像していたけど、こういうことか、、父をみ
今年1月20日に脳出血で倒れ、2月5日、一般病棟に移った。父の意識は戻らない。目も開かない。人工呼吸器がついている。その状態でも一般病棟なのは不安に思うが、仕方ない。ICUやHCUには、日々、救命のために、次々と運びこまれてくる。
主人の脳出血は幸いにも出血部位が被殻であったこと。画像はお借りしました🙇♀️出血した範囲と出血量が手術するまでには至らなかったこと。麻痺も一時的であったこと。初診の内科医の対応が迅速であったこと。そのおかげで1週間ほどの点滴治療及び入院で収まり、脳出血も拡大することなく、血腫もなく、吸収傾向となり、経過も良好です。色んなことが大難を小難で収まってくれてありがたい結果となりました☺️この冬の時期は急激な寒暖差や冷え込む寒さで健常者ですら血圧が高めになります。ま
開頭手術で左側を大きく開いたことにより、顔を右側に向けていることが多かった。向けていることが原因いうより、恐らく、右耳が折れた状態が続いていたと予測する。顔を右に向ける際に、耳の状態まで確認していないのだろう。ICUに入っていた術後数日で右耳が炎症し、血がではじめた。どんどん酷く大きくなり、耳鼻科の先生に毎日処置していただいたが、治ることはなかった。右耳壊死…。
今日はと〜てもネガティブな内容となってますが敢えて記しておきます。これも私の大切な人生やから桜🌸のお花見は2回ほど行ったら雨が降り気圧差にしんど〜とか、言ってたらあっという間にお花見🌸のタイミングが終わってしまいました今はベランダのお花たちがいろいろ咲いてて楽しい🌷ムスカリは終わり今はジャスミンが咲き出したよですが‼️体調がかなり大変です暖かくなったら舌も滑らかになり話しやすくなるしマヒ手足のぎこちなさもちとマシになるはず〜絶対とか、思ってたのに…逆にめちゃ