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よんちゃんの弟を出産して、世間的に4人の子持ちとなってから、言われるようになったセリフがひとつある。「あとひとり」とか「また次もあるかもね」とか。胸がギュッとなる。相手に嫌味がないのは分かる。軽いノリなんだろう。きっと、4人も産んでりゃまだいけるだろう、とか、思ってるんだと思う。別に相手の性格が悪いとか、想像力が云々という話でもないと思う。それに今回、私自身、出産して思ったけれど、やっぱり、子どもは可愛いし、兄弟が増えて子ども同士、ワイワイしているのを眺めるのは好きだし、帝王切開の
夫とは10年ほど前に出会いました。結婚してからずっと、子どもは4人欲しいねと話していました。それから男の子、女の子、女の子…と、トントン生まれ、最後はまた男の子を妊娠しました。第1子の長男は、とても大喜びでした。一緒に妊娠週数を数えたり、お腹に話しかけたりしていました。生まれたら何をしたいとか話していました。ちょうど今年度は長男の小学校進学の年でもありました。育休で家にいれることもありがたかったです。家族や親戚一同、大喜びの妊娠でした。子ども達も毎日、お腹の赤ちゃんに声をかけ
実は、よんちゃんのお父さんは医療従事者です。周産期医療センターも入っている大きな病院に勤めています。夫は、同僚である医療従事者の方に、よんちゃんが常位胎盤早期剥離で亡くなったことを伝えていました。その中には、産婦人科やNICUで働く看護師さん達が何人もいたそうです。そして、その方達はだいたい「えー!早剥!!早剥はねぇ…」という感じで、言葉を失う。夫の勤めている病院では、年に4、5件くらい、常位胎盤早期剥離があるそうです。この症状を訴える妊婦の受診があると、医療スタッフも軽くパニッ
エコーで赤ちゃんが亡くなっていることを知らされケロッとした表情をしていた私本当に実感がなかった信じられない…でも確かに赤ちゃんは動かない旦那は次の日の朝イチの飛行機でかけつけてくれるとのことでそれまでは実母が付き添ってくれた21:00〜バルーンを使って子宮口を5.0cmまで広げるその時点で陣痛が始まり痛みは徐々に強くなる生理痛のような痛みから腰に針をさされるような痛みになっていく痛い痛い…!!腰が割れそうな痛みになり朝方には子宮口が一旦7cmまで開きバルーンが勝
2023年4月4日12時頃健診を終えて帰された私一度実家に帰り、実母と家で待っていた3歳の娘を連れてファミレスへ行きハンバーグを食べる娘はお子様ランチ呑気に食事をして帰宅〜14時頃〜猛烈な疲れと眠気に襲われてソファで仮眠をとらせてもらうことに夢の中で一度鈍い腹痛を感じた記憶がある〜15時30分頃〜仮眠から目を覚ます2日前程ではないが、下腹部がズーンと重たい台所に行き、夕飯のしたくを始める〜16時過ぎ頃〜起きてから胎動がないことに気づくお腹もズーンと重たいまま様子を3
娘を出産後謎な体の変化が二つありました。一つは娘を出産し会陰裂創縫合術で縫合した部分が痛くなったこと。ヒリヒリして座るのも痛かったです。会社の先輩から円座クッションをお下がりでもらったのですがそれを使っても座るのが痛くて触れるたびに痛かったです。とりあえず我慢していたのですが・・・普通の自然分娩なら5泊するところを2泊で退院したことそして夫や両親が異常に心配したので痛くてどうしようもなくなった時深夜ですが病院に行くことにしました。火葬が終わって
ようやく・・・今回の死産を振り返ろうと思います。私は毎日胎動カウントをしていませんでした。。。気が向いたときにやるくらいで、そんなに胎動について≪今日も動いているな。≫くらいの軽い気持ちで考えていました。病院からも毎日胎動カウントしていますか?などは一切聞かれていないので如何に胎動が重要な意味を持っているかなどあの時は分かっていませんでした。≪臨月まで問題なく元気に育っているし大丈夫!後は私が出産の時に無事に産むだけ≫・・・・まさか娘の心臓が止まるなんて・・・
第一子を体外受精で妊娠し、妊娠経過は順調でした。赤ちゃんの体型も平均的に育っていて、40週5日までは本当に元気でした。そんな娘がなぜ・・・・2020年2月22日妊娠40週5日目~お昼頃~病院後の日課になっている散歩臨月入る前は、全然歩かず家でゴロゴロしている日々でした。私は仕事をしていました。産休は1月~でしたが通勤に片道一時間半以上かかっていた為≪一ヶ月早めの12月から産休に入りたい≫と、お願いしておりました。夫は反対でした。夫『妊娠して大変なのはわかるけど!頑
次女を臍帯真結節で死産して1年。可愛い家族が増えましたことをここで報告させていただきます。2024年4月2日第三子となる子を出産しました。元気な産声を上げてくれました。嬉しいことに、また女の子でした。次女を忘れた日なんて1日もなかった。姫翠もお姉ちゃんになりました3姉妹だね。第三子妊娠中はとにかく常に不安でした…胎動がまだ感じられない時期→生きてるか不安胎動が感じられるようになってから→胎動がない時間に気づくと不安夜は眠れず20週目以降は夜中3時頃には起きて胎動カウン
また今回もダメだった。そう思い、早めに見切りをつけて気持ちを切り替えたものの、なかなか生理は始まりませんでした。トイレに行く度、トイレットペーパーとにらめっこ。なんとなく、薄く茶色のおりものが混じっているような、いないような…そんな日が2、3日続きます。その他に体調の変化もなく。これまでの私は、基礎体温こそ微妙だったものの、生理周期はずっと規則的でした。生理予定日から4日程過ぎたとき、ようやく、これは、ついに!!!!!!と、いう思いが湧き上がってきました。夫に報告すると、「仕
私が長男を妊娠したのは、ちょうど8年前でした。私はこの時からずっと同じ産婦人科がかかりつけです。2、3歳差で4人の子供を授かったので、結果的にほぼ毎年、通い続けていました。よんちゃんが亡くなったあの日。私はまず、かかりつけ医に行きました。結局、救急搬送されたため、料金は未払いで、自分の靴などもそのままとなっていました。よんちゃんとお別れをした数日後、私は未払いの件等でかかりつけ医にお電話しました。すると、キチンと話が伝わっていたのか、事務の方から助産師さんにも取次いでいただきました
診察室に入った私は、その場に立ち尽くして泣き続けました。先生に「ありがとうございました」と「すみません」を伝えるのが精一杯でした。先生も立ったまま、私にこう言ってくれました。今回のことは、先生自身も私の様子(妊娠週数や痛がり方)等から陣痛だと思っていた。(注、だからと言って病院がのんびり構えていたわけではなく、手早い段取りをしてもらっていました。かかりつけ医での滞在時間は10分くらいだと思います。)ただ、エコーを当てたらエコー画面が白く映っており、すぐに常位胎盤早期剥離だとわかった。
自分用の記録でもあるので長くなります…。いつも読んでくださってありがとうございます。いいねやメッセージが力になってます。ー出産後、娘にしてあげられる事ー陣痛の始まりまで目に涙をいっぱい浮かべた姉が来てくれたそれを見たらまた辛くなって泣いた…4つ年上の姉大人になってからは凄く仲良しになった姉と私だけど、高校生ぐらいまでは本当に仲が悪くて小さい時は取っ組み合いの喧嘩をしたり…心底姉が嫌いな時期があった…(お姉ちゃんゴメン笑。今は大好きです!)そんな姉が今では私を支えてくれて本当
4月2日深夜2時頃膀胱が圧迫され尿意が近くなっていたため私は3〜4時間おきには目を覚ましていましたこの日も深夜2時頃に目を覚ましトイレに向かいました起き上がるときにお腹に普段はない異変を感じましたみぞおちから下腹部〜鼠径部にかけてガチガチに強張っているのです痛くて寝返りも打ちにくいほどに立ち上がる時もトイレに歩いているときも継続して「痛い...」強張って突っ張っている何これ?変な寝相で寝てたから?腹筋寝違えた?私は長女と寝ており寝返りがうちにくかったことや
家に着いてから少し横になれば、、、っとベッドに倒れる。。。朝早くから動いていたので横になったらすぐにウトウトし始めた。。。「あ〜Maria動いてる〜ちょっと歩き過ぎてMariaも疲れちゃったかな。。。」この時、Mariaがゴニョゴニョっと動いた。。。この時、Mariaは確かに動いていた。。。この時、Mariaは生きていた。。。この時、Mariaの最後のSOSだった。。。お腹を撫でながら、しばらく眠りについた。。。1時間後。。。「あーーー少し寝たらスッキリーーーーお
先生から休むことを勧められた私は、職場に電話連絡をしました。もう、復帰まで10日に迫っていました。職場からも了承を貰い、診断書を取るように指示されました。そもそも私は、育休で1年間休む予定であり、抜けた穴には新しい方もいらっしゃいました。職場への負担も無いわけで、私自身、申し訳無さもあまりありませんでした。みなさんも事情を知っているので、無理させようともしません。その点では、本当にありがたかったです。後日、再度かかりつけ医に行き、先生に診断書を書いてもらいました。先生はとりあえず
2020年2月23日朝11時10分2,828g53cm第一子女の子を出産しました。私のお腹の中で過ごした10ヶ月元気いっぱいにお腹を蹴っていた娘やっと会えたのに・・・娘の元気な泣き声を聞くことは、できませんでした。出産後、分娩室で家族全員に娘を抱っこしてもらいました。夫と両家の親と記念写真を撮りました。写真を見返すとみんな泣顔でした。嬉しいはずの出産が
SNSに興味が無い私めんどくさがりで飽き性でやりっぱなしでも全然きにならない。そんな私が自分自身が納得いく最後まで書き上げることが出来ました。娘を失い悲しくて辛くて苦しくて絶望で自分を責めて生きているのも辛かった毎日そんな日々に天使ママさんのブログを見つけました。亡くなった時期が近いのにブログに書ける精神力すごいと思いました。そして『こんな悲しい思いを他の誰かがしないように』と、ブログに残すことで情報提供をしている所に感心しました。人に話
死産した時の悲しい記憶を辿っています。思い返しても本当に後悔ばかりの記憶です。2020年2月22日妊娠40週5日目夜に陣痛らしきものが来たので産院の営業時間開始から健診に行くことにしました。私は里帰り出産だったので毎週夫が車で会いに来てくれていてこの日も夫が会いに来る予定でした。その為、朝5時から夫に電話をしました。夫は物凄く!!早起きで休みの日はなぜか朝5時から起きている時もちらほら・・・(ちなみに夫も30代です。おじいちゃんの様に就寝、起床が早いです
旦那:「着いたよ。。。」気づいたら家の前にいた。。。玄関を開けると義母が待っていた。。。義母:「どうだった?」Mariaママ「。。。。。」義母の顔を見たら涙が溢れ出てきた。。。旦那:「ダメだった。。。」義母:「え。。。。。嘘でしょ?」旦那:「おふくろ。。。ダメだったよ。。。」義母が私と旦那を抱き寄せ、涙した。。。義母「こんなことってあるの。。。昨日元気だったって言ってたじゃない。。。」いつもは強気な義母だが、こんなに涙し、弱々しい義母は初めてみた。。。旦那:「俺にも
昨日は寝付きが悪く、朝はゆっくり寝てしまいました。夫から声をかけられて目覚めます。慌てて皆の食事を作り、バタバタと準備をします。服装もよく分からなかったので、とりあえず落ち着いた格好に着替えました。仏間に行き、よんちゃんを抱き上げます。「一緒にお寺さん行こうね。」よんちゃんが亡くなって1か月が経過し、ひと通りの行事は全て終わっていました。だからここ最近は、淡々とした生活を送っていました。ですが今日は違います。あぁ、やっぱりこれが現実なんだよなぁと思い、車の中で小さくなったよんち
私は前駆陣痛が来る前妊娠39週~40週の時に深夜3回程、心配になり病院に行ったことがあります。破水のような感じの水っぽいものが出たからです。結局それは破水ではなかったんですが・・・3回ともただの勘違いで入院に至らなかったので次こそは、入院して産みたい!と、思っていました。もう、勘違いで病院に行きたくないもう、ぬか喜びしたくない!!陣痛が昨日の夜と同じ痛みで全然痛くなかったので、問題ないと思いました。朝から病院
2023年4月3日昨日の夜はなんだかお腹がこわばったけど今は大丈夫だし、赤ちゃんも動いてる!だから大丈夫かな〜くらいに思っていました。その日も朝から娘を公園に連れて行き2時間くらい遊ばせました🚗早く産みたくて床拭きもしたりして…どの妊婦さんもそうなのかもしれませんが動くとお腹が張りますよね?息切れがしますよね?でも休めば治りますよね?それが私にもずっとありました。妊娠初期〜中期にかけては「お腹が張ったら休みましょう」臨月に入ると「どんどん動いてお腹を張らせましょう
自分用の記録でもある為長くなります…いつも、いいねありがとうございます◡̈⃝メッセージも嬉しいです!ありがとうございます。夫は何度もなんでこんな事になったんや…こんな事ってある?と大泣きしながら言っていたそれでも私の事を1番に心配してくれていた「お前あんなに頑張ってくれてたのに…」彼は何度も言っていた元々、私の母がうちに来てくれる予定だった日すでに電車でこちらに向かってくれている母に夫が連絡してくれた。電車なのはわかってたけど内容が内容なだけに電話してくれた(電車での通
胸の鼓動が止まらない。。。お腹を何回撫でてもMariaは動かない。。。どうして。。。旦那:「大丈夫だから。。。」運転しながら優しく声を掛けてくれるが、私は落ち着かない。。。そんな私の右手をギュッと握ってくれた。。。何かあると私を安心させる為いつも右手を握ってくれる。。。ーーーーーーーーーーーーーー⚫︎⚫︎⚫︎病院に到着夜中の救急外来の受付へ旦那が手続きを済ませ、3階の産婦人科へ。。。3階へ向かうエレベーターを待っていると救急処置室から子供の泣き声が聞こえた。。。Mar
男の子の赤ちゃんが寝ている。ふっくらとしたほっぺをぷにぷにと指で触る。そこで、目が覚めた。夢だった。そして思う。よんちゃん、死んじゃったんだ…あの赤ちゃんは誰だったのかな。よんちゃんじゃない気がする。毎朝、起きる度によんちゃんがいないことを確かめ、苦しくなります。よんちゃんが亡くなって以降、清々しい目覚めをしたことはない。次女はまだ2歳になったばかりで、抱っこが大好きです。お腹の傷や血腫もだいぶ治まったので、ちゃんと抱っこができるようになってきました。次女を抱え、この子の
死産した日の病院に行ってからの話です。ほんの1週間前に病院の産科がある2階に初めて見学に行った…(切迫早産で安静指示が出ていたので病院の見学や母親学級に参加出来ておらず、1週間前に特別に病室などを検診の時に見学させてもっていた)朝7時半頃に到着して行った2階はまだ薄暗いベッドに寝ると看護師さんが心音を探してくれる…「…」「赤ちゃん逆子ちゃんかなぁ?もっと下かな〜?」私はわかっていた…止まってるって。「先生にエコーで診てもおっか〜?その方が早いね◡̈⃝」そう言われ内診室に移動する。
夜、寝る頃には「少しずつ、前向きになれたかもしれない。」と思い、眠りにつきます。でも、朝目覚めると、胸が苦しくて苦しくて。東側の窓に差し込む、朝の優しい木漏れ日を見ても悲しくて。あの日から、清々しい朝など無い。どうにか起きて、夫と子ども達を送り出し、散らかった部屋を片づけ、洗濯をし、よんちゃんの事を考える日々を送っています。あれから1か月が過ぎたから、もう特に予定もなく。最近は、チラホラ「出産おめでとうございます!」とか書かれたハガキやプレゼントが届きます。妊娠中に、プレママプレゼ
今年度の春、私が異動した先のメンバーは、殆どが初めましての方ばかりでした。もちろん、私が死産を経験したことなど知りません。私の勤務先は、毎年、年度初めに幹部の方々との面接があり、今後のキャリア等について相談する機会があります。そこで私は、その面接の際に、現在、妊娠を希望していることを伝えることにしました。私は、妊娠をすると、悪阻が重くなる体質です。安定期まで隠し通すことは不可能です。それにもし、また妊娠をすることができたら、きっと今まで以上に制約の多い妊娠期間を送らざる負えないことが
第二子の娘が産まれた日から入院していた2日間色んな助産師さんや院長先生師長さん第一子と第二子取り上げてくれた先生がなん度も会いにきてくれたついに私の涙腺が崩壊して泣き出した際にはたくさん泣いていいんだよ!!!辛かったよね大変だったね無理しなくていいんだよぽんださんは十分に頑張ったよー頑張り過ぎたよーって言ってくれて産まれた娘を綺麗な赤ちゃんと褒めてくれて命名用紙も書いてくれた臍の緒もくれて手形足形もとってくれて可愛い天パも少しだけ切って残してくれた棺もお花も用