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昨日の続きです150年前の本日は、明治元年11月5日。この日、旧幕軍は松前城を落としました。歳様は守衛新選組他を率い、城の背後から侵入し突破口を開きました。五日暁天に乗して松前を襲ふ。回天艦、蟠竜艦開帆す。然るに暴風蟠竜艦後れ独り回天艦而已吉岡峠の沖に来り砲を放つ。(中略)総督陸軍隊守衛新選組を率て城裏に廻り梯子を以て石橋を登り城中へ潜み入。敵軍未た不知。(島田魁日記)我軍是を防いで直に進て五日松前城を襲に、敵城中より大砲小砲打出す、是を見るより大手搦手より
松前に来たからには、やはり訪れないとね永倉新八居住地跡明治4年、新八っちゃん33才の時、藩医・杉村介庵(松柏)娘・よねさんと結婚し松前に居住。明治6年、長男義太郎さんが生まれ、小樽へ移ることになります。記念撮影さて、そろそろ箱館に戻りつつの史跡巡り。萩茶(砂)里古戦場跡(尻内町)この少し手前が一ノ渡古戦場跡があったはず松前進軍の時に、この辺で彰義隊と額兵隊の先陣争いがありましたよねぇ~(その時の記事はこちら☆)歩道橋の下を覗き
無事にSさまと合流して(笑)、町をブラっとしながらご案内してくれたのは…桜井小膳邸跡松前藩医です。松前奉行・人見勝太郎さんが宿舎としていて、歳様も泊まっていたともいわれています松前奉行所址(現・松前町役場)法源寺山門旧津軽藩将卒二百八十七名之碑法幢寺松前家の菩提寺です。裏手に松前藩主墓所があります。十七世・十三代藩主松前崇広十八世・十四代藩主徳広十二世側室松前文子先日ご紹介の新
1,新選組の少年隊士さて、人物帖の今回は新選組隊士・市村鉄之助です。新選組を題材にした創作で、それが後期(鳥羽伏見以降)であれば、まず登場して来るのが鉄之助です。市村鉄之助は安政元年(1854)、二度目の黒船来航の年に美濃大垣藩士の市村半右衛門の三男として生まれます。理由は不明のようなのですが、幼少期に父の半右衛門が大垣藩から追放の処分を受けます。市村家は縁者を頼って近江国の国友村に移り住みます。戦国時代には鉄砲産地として名を馳せたところです。ここで鉄之助は少年時代を過ごします
昨日の続きでございます松前落城後我ただちに入城し我兵隊を厳命して略奪をいましめ、わずかに番兵を残して各隊皆城外に舎営せしむ。(中略)我、二、三の隊士と共に殿中を巡視したるに奥深き所の仏間に藩主の家族侍女等老少の婦人七、八名ここにあり。みな首をたれて暗泣す。我これを慰安し松前家の菩提寺に移し、町役人に命じて諸事斡旋せしめ厚く待遇す。あとで婦人の希望に従ひ藩主の所在地弘前へ渡航せしめたり。婦人等みな我が厚意の措置を感謝して別れを告げたり。どこかで聞いたようなエピソードだと思
昨日、よみうりカルチャー横浜の講座にご参加の皆さま、誠にありがとうございましたm(__)m色々とお話したいことがあり過ぎて…そして開始時間間際になって、姿を見せられた権先生いらっしゃると思っていなかったので、逆に上がってしまったそして今週末はいよいよ布田道歩きでございます。ご一緒してくださいます田中さまと、いつもサポートして下さっています下山さまとの打ち合わせもバッチリ地図の資料だけでも凄いですよっまだ数名の余裕がございます。もしご参加をご検討の方がいらっしゃいましたら
①よりさて、昨日回天と蟠龍が箱館沖に廻ったと書きましたが、乗船してきた海軍が上陸し、運上書(税関)や弁天台場に日章旗を掲揚しました。二十六日、吾軍四面より五稜郭に迫るに、もはや知府事、諸官員尽く脱す。即時に箱館砲台及運上所等に旗章を掲げ戊兵を備う。(蝦夷之夢)榎本釜次郎は鷲の木に在り〈戦地報告の騎兵は昼夜奔走す〉二十五日我軍勝を得て倍進むを聞き、回天、蟠龍二隻をして函館へ廻せり。翌二十六日両船港内へ乗入しに一歩遅く、清水谷始遁走の後にして又抗するものなし。
明日、よみうりカルチャー主催の「布田道歩き」が、お天気大丈夫そうなので予定通り開催されます今回のレジュメは私と田中さまが作成しましたが、地図の資料だけでも半端ないです近い将来歩けなくなるかもしれない危機のある道です。数名の余裕があるそうなので本日まで受け付けしますご希望の方はこちら☆まで。さて、記事は幕末が続きますよ~150年前の本日は、明治元年11月1日。この日から新選組は、一本木の関門守備と市中見廻りを開始しました。同十一月朔日より一本木関門沖ノ口運上
本日から金融機関は、3日までお休みですいよいよ(やっと?)年の瀬という気になってきましたさて本題は、昨日の続きです150年前の本日は、明治元年11月16日。この日、榎本海軍・土方軍ともに江差に集結したのですが・・・昨日書いたように、前夜からの暴風で開陽が暗礁に乗り上げました一昨日に箱館を出港した開陽ですが、松前に立ち寄っております。その時に榎本さんは上陸。松前城を守る遊撃隊の人見さんと会見しました。この時榎本総裁開陽艦に乗り大風雪を侵して夜中忽然松前に来
本日は冬至ですね。柚子湯に入り、かぼちゃ(南京)など、「ん」のつくものを食べると良いといいます。皆さまはさて、リアルタイム?の幕末に戻ります150年前の本日は、明治元年11月9日。この日新選組は、松平定敬・小笠原長行・板倉勝静の三公より、防寒着を賜りましたまた榎本さんは兵士たちに、報奨金を与えております。是より先九日、我君公に及唐津公、松山公、鷲ノ木より函館に至り山口屋本陣と為しつ、我等新選組役を勤る者に胴服赤フラン子ルを賜る。兵隊へは紫鵞絨のチョッキを賜る。是
昨日はブログ6周年に、お祝い・励ましのコメント・メッセ・ライン等々、誠にありがとうございましたっm(__)m日々勉強、日々精進の心がけで頑張りたいと思っております。さて、先日来ずっと延び延びにしてきてしまった、「野村さんと春日さんの先陣争い」の件でございます。ちょっと日にちはさかのぼって、歳様たちが五稜郭に入る日の事。野村利三郎さんと春日左衛門さんが抜刀し、あわや、という事件がありました(五稜郭入城の記事はこちら☆)而して兵を出さんとするとき、新選組野村理
昨日の続きです150年前の本日は、明治元年10月28日。この日、歳様は渋谷さんらの出頭に立ち合いました。十月廿八日、余及ひ安田は井口、高橋、斎藤の三氏を従ひ第十字、五稜郭に至る。松平太郎、玄関正面に在り、土方歳三、右側に陪席をし、兵隊二行、左右に正列す。太郎曰く、昨日、土方迄陳述せられたる処の事情は余、深く関心せり。依て福山へ通行苦しからず。尤も有川村に於て、土方より懇々御談しの次第も有之に付、今夕同村に待受らるへしと。(戊辰十月賊将ト応接ノ始末)昨日の書簡
①よりさて、指示とおり歳様の宿舎である有川村の種田家に、渋谷さんたちが訪れたようです。夫より余は高橋孫六を従ひ、土方の旅宿種田方に至るに、徳右衛門主人は台所に在て縛に就き居り、見るも亦気の毒にてありし。歳三は余を奥坐敷に伴へ、従容語て曰く、我徒、今般鷲木村へ上陸せしは。素より戦事を好むに非す。(戊辰十月賊将ト応接ノ始末)この種田家というのは、当主の篤左衛門さんが幕府から原野十万坪の開墾を命じられて成功した人だそうです。慶応元年の長州征伐時には、次男名義
幕末続きです150年前の本日は、明治2年4月10日。この日歳様は、市渡より二股に向い、箱館軍は台場山などに胸壁を築きました。翌十日、二俣〈地名。市渡村距る三里〉に至。騎兵、官軍すでに稲倉石の険〈騎兵司の報告及び斥候。稲倉石は地名。二俣距る五里〉に寄するを報ず。是に於き、軍二俣に駐む。(中略)昼夜督役せしかば二日にして成る。(函館戦記)二股口には陸軍副都督土方歳三、衝鋒隊〈二小隊。指図頭取〉、伝習歩兵隊〈一小隊。指図役頭取中根量三〉を将ひて出張し〈十日〉、下二股を
昨日の続きです150年前の本日は、明治2年4月12日。この日から翌日にかけて木古内にて戦いがあり、箱館軍は勝利しました十二日、官軍上の国より木古内の間道を進み来て、暁霧深きに乗じ我が此口を抑ゆる胸壁の番兵の怠りしを斬て突然我陣営に迫る。我が兵一時紛乱せしが速に隊伍を整え山沢に兵を分ち、撤兵に開て奮戦し終に元の木古内の山塞に進み込みたり。(説夢録)此時五稜郭より陸軍督大鳥圭介・歩兵頭本多幸七郎来る。因て午後より大鳥・本多、再び額兵隊〈二小隊〉を先鋒とし彰義隊〈二
「五稜郭の他にも、実は四稜郭もある」ということはご存知でしょうか??四稜郭とは・・・1869年の箱館戦争に際し、旧幕府軍が五稜郭の北東約3kmの高台に築いた西洋式の土塁で、蝶が羽を広げたような形状の星形要塞。建設を指揮したのは大鳥圭介、あるいはブリュネ大尉と言われており、建設には旧幕府兵卒200人と近隣住民100人が徴用され、昼夜兼行で数日のうちに完成させたと伝わっています。しかし、堡塁(敵の攻撃を防ぐために石、土砂、コンクリートなどで構築された陣地のこと)としては脆弱で