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先日訪ねた「三鷹市吉村昭書斎」では、展示の年表から吉村が学生時代に重篤な肺病によって肋骨5本を切除するような大手術を受けた…てなことを知るところとなりましたですが、作品の中に医師を取り上げたものがいくつかあるのは、そうした経緯があってのことであるのかなとも。先に映画で見た『雪の花』の主人公も種痘の普及に邁進する蘭方医・笠原良策でしたし。でなことで、書斎を訪ねて以来、吉村昭作品の何かしらを久しぶりに読んでいるかいねと思っていたときに、「こんなんもあったか」と手に取ったのが『夜明けの雷鳴』であ
外国の地で無くなった方のお墓が横浜市石川町駅の丘、山の手と呼ばれる所にある。横浜の観光地にもなっているが、ここに眠る外国人は徳川幕府から明治初期に訪日した人およびその子孫立ちである。外人墓地を散策すると歴史的に功績のあった人、または記念碑がある。これだけでも日本の近代化技術や文化に貢献した外国人が多いことを知る。遠い親戚に「青い目のおばさんが」居ると母から聞いていたが、その人物を調べている中で、祖母の姻戚関係があるお墓が二つもあることが分かった。一人はフランス人、もう一人はイギ
2日目、なんとかお腹も立ち直りました。朝食はビュッフェです。なんと❗️ビュッフェにスパークリングワインが❗️飲んじゃうよねまずはサラダとワイン。続いてお刺身、いくら、とびっこ。このあとレンコンの串揚げやだし巻き卵なども食べたけど写真なし。最後、少しのご飯でいくら丼にしました。デザートにエッグタルトとカポチャのケーキ。この生クリームがとっても美味しかった。昨夜、お腹壊したとは思えないような食欲。北海道のビュッフェを満喫しました。この旅行のメインは五稜郭です。そのために本を
函館市に御鎮座する、亀田八幡宮に御挨拶させていただきました。元は函館市民の僕ですが、初めての御挨拶です。湯の川に実家がある僕は、土地勘がなくて、どうやって行こうかと、迷っていたのですが、グーグルマップでみると、桜咲く五稜郭公園から、徒歩30分と分かり、電車+徒歩で決まりです(笑)鳥居に違和感を感じて、一ノ鳥居と、されているのでしょうが・・・これは四ノ鳥居と、教えてくれます。でも、ここで一礼して入ります。五ノ鳥居の手前に、手水舎です。僕はたい
本日は5月18日……ということは、新田義貞の鎌倉攻めが始まった日ですね(133年)そして!箱館戦争が終結した日です(1869年)ということは、『猫絵の姫君ー戊辰太平記ー』的には避けて通れない記念日ではないですか。……本当なら第7章舞台の土方歳三戦死の5月11日なんだろうけど、それはそれとして。『猫絵の姫君ー戊辰太平記ー』(郁朋社)絶賛発売中です。本作は箱館戦争で実質的に終わるのですが、実は当初は箱館ではなく、山口の「奇兵隊騒動」がラストの案もありました。昇一郎が箱館
こんにちは北海道レンタカー付フリープランでの個人ツアーの初日は、大阪から北海道・函館への移動と日本100名城の名城をひとつ訪問する計画でした。訪問する名城は、江戸時代末期に国内初の西洋式城郭で星形をした五稜郭を紹介します。五稜郭には、函館空港から道道から国道278号を経由して道道1132号、全長約9kmで五稜郭へ・・・。▼五稜郭周辺マップ(ネット上のマップ抜粋参照)≪五稜郭≫五稜郭は、徳川幕府の命を受
再び路面電車に乗って、向かったのは土方歳三最期の地。箱館戦争といえば、五稜郭と榎本武揚、土方歳三が有名です…と言うか、私はそのくらいしか知りません。榎本武揚は箱館戦争で死ぬことなく、明治でも活躍しましたが、土方歳三は箱館戦争で亡くなりました。その亡くなった場所が函館駅の近くにあるというので、行ってみました。路面電車は「新川町」で下りて歩きました。チョー有名な土方歳三ですが、享年35歳!若い!!
五稜郭って特徴的な形をしていますが、当然のことながら上から見ないとよくわかりません。下から…と言うか、地上から見ると、堀がありその向こうに石垣あって、お城のような感じ。お城ほど高い石垣でもなければ、天守閣ほか、建物は見えません(ありません)が。最初に、五稜郭半月堡という五角形の外側の部分に行きました。ここ↓正面に五稜郭(五角形部分)の入口が見えます。五稜郭タワーそして五稜郭(五角形部分)へ五稜郭は戊辰戦争(箱館戦争)で有名ですけど、本当は
函館空港で、はこだてスペシャルチケットを購入。函館観光にお得なチケットです。はこだてスペシャルチケット|お得なチケット・便利なサービス|はこぶら市電の1日乗車券+人気施設で使えるポイント券11枚のセットwww.hakobura.jp空港からJR函館駅までバスで移動し、この日宿泊するホテルに荷物を預けました。まずは五稜郭へ。路面電車で五稜郭に向かいました。五稜郭公園前で下車し、そこから徒歩五稜郭タワーが見えてきました。函館の名物と言
さぁ春の函館散歩へ出かけますよ期間限定の場所もあるのでまずはこちらから旧相馬家住宅が13日まで無料公開されています一度は見てみたかったので行ってきましたさぁ、住宅の中に入ります写真撮影も住宅の中全て案内しますよ💁♂️写真がかなり多いのでこの後は文書ありません本当はまだまだ写真撮ったけど多くなりすぎたので載せるのやめました昨日の函館公園の桜まだまだですね🤣
函館の西部地区にある坂の中でも屈指の長くて急な坂道のひとつ、幸坂。歩いて上ってくると、とんでもなく大変です。先日、旧ロシア領事館を見にいった勢いで、少し歩き回ってみました。突き当たりにあるのが山上(やまのうえ)大神宮。明治35年にこの地に移転してきたようで、幕末には、旧幕府軍について函館に来た桑名藩主、松平定敬の御座所になったことでも知られます。桑名出身の私としては、「うちの殿がお世話になりまして……」と深謝を。さて、山上大神宮の一段下の船見公園で休憩……と思った
石川啄木居宅跡阿部たつを氏(啄木研究家・医師)らが昭和三十六年に出した『函館と啄木』に啄木の住んでいた家の場所を「函館公園の方から来て金光教会の先き元三村医院(院長死亡後閉院)の横の汐見町に出る露地を入り石段を上り左に曲がって左側の最後の家のあたり」と説明しているここは現在青柳町十五番である三村医院というのは今はないが近所に永住している人に聞くとすぐわかる啄木は明治四十年(一九〇七年)五月五日函館に来て松岡蕗堂の仮宅(今の青柳小学校上辺)に世話になり七月七
五稜郭内の大砲②明治二年(一八六九年)五月十一日の箱館海戦で幕艦蟠竜の砲弾を火薬庫荷受け七重浜で沈没した官艦朝陽(約四〇〇㌧)の艦載砲であるこの年の四月五日朝陽艦が箱館戦争に遅れて品川を出帆の際艦長中牟田倉之助の要請で積み込まれた砲架回転式最新鋭の砲と考えられ砲身が長いので命中精度もよかった昭和七年二月七重浜埋め立て工事中に発見され亀田八幡宮に奉納された終戦と同時に武器であるためGHQの追及をおそれ土中に埋没されたままになっていたが三十三年七月一日皇太子の
五稜郭内の大砲①武田斐三郎は外国船の侵略があっても砲弾の届かない位置として五稜郭を選定したといわれるが欧米の火器の進歩は目覚ましく滑腔丸弾丸発射の胴胞からライフル後込め式大砲へと移行し箱館戦争では官艦の砲弾が七重浜沖から遠慮なく五稜郭内に飛来したこの大砲は弁天台場を側面から援護する築島台場(現在の豊川町付近)備えつけの鋳鉄砲だが鋳物の成分が悪いためか肉厚で巣穴を埋めた跡があちこちにある明治二年(一八六九年)五月の戦いで砲尾を破損使用不能となったため脱走軍はそ
目次基本情報御由緒御朱印境内案内参拝を終えて地図基本情報神社名:亀田八幡宮御祭神:誉田別命社格等:郷社鎮座地:北海道函館市八幡町3-2最寄駅:五稜郭駅・五稜郭公園前停留所駐車場:境内右手、八幡通沿いにスペースあり御朱印受付時間:8時30分~17時00分公式サイト:ー御由緒明徳元年越前国敦賀郡気比神宮より、八幡大神の御分霊を同国笠原右源太が当地に奉遷。その後河野加賀守森幸が、右源太の孫左衛門をして本殿造営をしたが、松前藩祖信広との戦乱の為祭祀営繕不能となる。
今日2月27日は新選組の日らしい。◎「新選組の日」とされる日は、主に2つあります。2月27日・1863年(文久3年)のこの日、新選組の原点ともいえる「浪士組」が結成されたことに由来します。江戸幕府が京都で浪士を収集し、徳川家茂将軍の命令によって組織化された歴史的な出来事です。3月13日・1863年(文久3年)3月13日に、浪士組の芹沢鴨、近藤勇らが京都守護職を務めていた会津藩預かりとなり、京都に残り「壬生浪士組」を名乗ったことに由来します。・この壬生浪士組が、後の新選組とな
函館・函館どつく前('03.5.11)十字街から箱館ハイカラ號に乗り、終点・函館どつく前到着。(ゲーム路銀-\10,270-\220=-\10,490)外国人墓地へと向かう。レトロ路面電車で金森赤レンガ倉庫群へ(函館)現役時には乗れなかった青函連絡船・摩周丸に乗る(函館)石川啄木など多くの歌人ゆかりの立待岬(函館)碧血碑の碑文を読んで共感した理由(函館)天下の号外屋翁のようになりたい(函館)啄木の墓がある街から、啄木の歌碑がある駅へ(函館)途中、立派な山門の
明治維新は学校で学ぶ。その切っ掛けとなった禁門の変などの一連の歴史的事実は学ぶ。箱館戦争は戊辰戦争の一部と紹介されるている。徳川幕府が崩壊して明治政府が出来て、幕府の武士は行き場がなくなった。榎本武揚はこの武士を蝦夷(北海道)に行き場を求め、蝦夷共和国を立国を目指した。この戦争には最新式鋼鉄の軍艦が使用された。幕府軍には開陽丸などの軍艦を有していた。明治政府の接収に反して、函館まで逃走した。開陽丸は悪天候のために座礁して戦力を失った。官軍の軍艦による砲撃は幕府軍を敗退に導いた。
函館・谷地頭(やちがしら)('03.5.11)立待岬の奥の山道から脇道に入ると、箱館戦争で亡くなった幕府軍の人々をまつる「碧血碑」(へっけつひ)があった。幕府軍の生き残りである、大鳥圭介、榎本武揚が建立した。レトロ路面電車で金森赤レンガ倉庫群へ(函館)現役時には乗れなかった青函連絡船・摩周丸に乗る(函館)石川啄木など多くの歌人ゆかりの立待岬(函館)碧血碑の碑文を読んで共感した理由(函館)天下の号外屋翁のようになりたい(函館)啄木の墓がある街から、啄木の歌碑がある駅へ(
13日の金曜日…日付は悪いですがww久々、横浜の、昔通っていたお店へ、行って参りました~(。・ω・)ノ゙(写真はネットから)もう~マスター、今年で81歳なんだね~ホント、頑張ってますよ(´・ω・`)(アタクシは、61歳で辞めちゃったけどww)働いているお姉さんも、アタクシより3つ上の64
明後日は「新選組史再考35」のオンライン講座ですテーマは「会津藩からの応援家臣&近藤勇書簡」そして15日(日)は、「日野新選組同好会公開例会」講演。テーマは「新選組の探り方」です。ご参加の皆さま、宜しくお願いいたしますさて本題。8月の「飛鳥Ⅱ」のクルーズから、函館ツアーへの続きです初回はこちら『函館ツアー1大沼国定公園』明後日の8日(日)は「新選組史再考35」の対面講座ですテーマは「会津藩からの応援家臣&近藤勇書簡」ご参加の皆さま、宜しくお願い
函館開陽亭すすきの南5条2号店(開陽亭すすきの2号店)https://www.kaiyoutei.co.jp/https://tabelog.com/hokkaido/A0101/A010103/1028627/すすきの交差点の少し西にあります。10月3日に訪問。海鮮のお店を検索すると、函館開陽亭がHitした。すすきのに開陽亭は5店舗ほどあるが、ここが宿泊地点から近かったこともあり行ってみる。なお、都内にも1店舗、函館には本店(本店はなぜか休業中)もあります。
・・・・・・・っということで、3日目は市内散歩。市電1日乗車券600円で動ける範囲内で散策します。因みに3回乗れば元が取れます。先ず紅葉が残っていると言われた函館公園。函館山の麓です。(正面にロープウェイの山頂が見えます。)流石に紅葉はオシマイ。半月早ければもっと綺麗だったでしょう。園内にある市立博物館。本館はこの裏手。青函連絡船の沈没事故(洞爺丸台風)とか、大火とか色々資料が展示されていますが、やはり箱館戦争ですね。
女優の杏が面白いと言っていたので、読んでみた。幕末のことがとてもよくわかる面白い小説であった。榎本武揚のイメージがとても膨らんだ。箱館戦争の首謀者にもかかわらず、処刑されなかった経緯もよく理解できた。トム・クルーズが『ラスト・サムライ』で演じたジュール・ブリュネの人物像も然り(フランス人ではなく、アメリカ人となっている)。これは小説として読めばよいと思うが、お柳のような女性の通詞がいた可能性が否定できないことは、巻末の「文庫のためのあとがき」でわかった。いたと思う。アラミスは三銃士に出てく
おばんですきょうは22.4度まで上がりました風もあまりなく過ごしやすい日でしたここはチャリンコ移動OK範囲ですが雨降り予報軟弱おぢさん軽自動車移動でした亀田八幡宮旧社殿です文久三年一八六三年の建物です箱館戦争降伏式之地と彫ってあります明治二年一八六九年五月十七日榎本武揚らはここに参って降伏の誓約をした場所亀田八幡宮旧社殿その内部です懸魚(げぎょ)と呼ばれる彫り物龍の彫り物まあねかつては「亀田の森」と云われるほど木が多か
2024年4月12日公開、アニメ映画「名探偵コナン100万ドルの五稜星(みちしるべ)」。ストーリーは、函館市にある財閥の収蔵庫に保管されている、新選組副長土方歳三所縁の脇差二振りを盗むと怪盗キッドから予告状が届いた。コナン聖地巡礼も加わり、五稜郭タワー展望台の2024年GW中の来場者は昨年のGW(4月29日~5月7日)比49.7%増の6万8962人。1853年(嘉永6年)にアメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航し、翌年に日米和親条約が結ばれ、箱館、下田が開港された。
記憶がある内に残しておかないと…。北海道だし、きっと寒いだろうと思いきや意外にも暖かく…いや暑かった函館に到着。一日目は日本で空港からいちばん近いとされている湯の川温泉へ。一日目だけ温泉ホテルに宿泊。15分ほど歩くと足湯や神社があって地碑を読むと箱館戦争時に旧幕府軍の傷を癒したとあります。露天から見える海の景色も素晴らしくまずは一日目は終了。翌日は函館市内で箱館戦争の歴史を巡りました。
8月10日、松前町にある「松前城」へ行きました。1854(安政元)年に築城された、日本最後にして最北の日本式城郭です。「三の丸」から見た「三本松土居」と「搦手二ノ門」。駐車場から馬坂を上り、復元された三の丸に入りました。三の丸に縮小模型展示があります。海に面して7つの台場があり、海防を意識して作られていることが分かります。搦手二ノ門越しの天守。ここから有料エリア「松前城資料館」になります。復元された「天守」に入ります。
トップページ都道府県別索引へ三の丸の北東の端っこから降りてきたので、ここからは西に進んで、大手から戻ってみるか。まずは南へ回り込んで大手の方を遠望するが、内堀はだいぶ埋められ大手の土橋もどこにあったか分からなくなっていた💦それでも、後補のコンクリ階段の両側あたりから西に伸びる石垣は、現存のようだ。これが車道沿いに横たわってる😮駐車場まで登ってきた車道が、どうやら埋められた堀の上を通っているらしい。そして、反対側にゴチャゴチャとした石垣。これは台場居小屋の跡らしい。
星形をした西洋式城郭の「五稜郭」跡。現在は「五稜郭公園」として一般開放されています。五稜郭は、箱館開港後の警備、蝦夷地防衛などを目的に造られた城郭です。幕末から明治維新にかけて箱館戦争と呼ばれる国内戦の舞台にもなっています。一の橋を渡り、城郭から独立した土塁(半月堡)にある「武者返し」。敵兵が石垣を登るのを防ぐ構造になっています。二の橋を渡ると郭内に入ります。五稜郭を設計した武田斐三郎の功績を讃えた「武田斐三郎先生顕彰碑」。なで