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ご訪問ありがとうございます。今回から「倭の五王」について考えていこうということですが、これまでみてきた通り、「日本書紀」の紀年はズレまくっていて、「神功皇后紀」の120年のをどう回収するかなどは、どなたも考えられたこともなく、また応神・仁徳同一人物説に立つと、天皇の数があまりにも少ない、ということになり、今まで言われているほど天皇の系譜が信用できるのか、甚だ心もとなくなってきます。ですから今回は「倭の五王」を中国や朝鮮半島の国々の史料から考えて、安易な比定をせずに話を進めたいと思いま
【飛鳥時代】20白村江の戦い百済復興のため唐・新羅連合軍と激突【日本史】白村江の戦いから始まる朝鮮の侵略史①今日は、白村江の戦いについてのお話しです。白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に、朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本と百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の戦争です。唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済の遺臣である、鬼室福信(きしつふくしん)から救援要請を受けた倭の斉明天皇は、出征を決断しま
ソソノ(召西奴)は実在した?史実とドラマの違いとは?ソソノ(召西奴)は実在した?史実とドラマの違いとは?召西奴(ソソノ)は本当に実在したのか?『三国史記』異伝にだけ名が残る王母を手がかりに、温祚の出自二説と百済・高句麗の扶余系系譜を整理しつつ、ドラマ『朱蒙』『近肖古王』で膨らませられたソソノ像との違いを分かりやすく解説します。korea.sseikatsu.net朱蒙朱蒙「朱蒙」の記事一覧です。korea.sseikatsu.net高句麗高句麗「高句麗」の記事一覧です。ko
ご訪問ありがとうございます。今回は倭王武の上表文を通して、当時の東アジアの状況下で、倭国が何を目指し歩んでいたのかを見ていこうと思います。478年、武王は前年に遣使を行った兄の興の跡を受けて、宋に遣使をします。兄の急死を受けての事でした。倭国は邪馬台国の頃から、朝鮮半島の最南部に支配圏を広げていました。ですから高句麗が百済を一時的にせよ、滅ぼしたことは、そういった支配圏の安全保障もありますし、中国大陸への通交も遮断される恐れが十分にあったのです。興の遣使も15年ぶりに行われたというの
奈良博の「超国宝」展金澤成保奈良国立博物館、「奈良博」が開催している国宝展を訪れた。「奈良博」は、国立では2番目に古い博物館で、今年が130年目を迎える記念の年に当たり、また大阪万国博覧会も開催されたことから、今までにない規模と内容の本格的な国宝展であった(以下、奈良国立博物館編集図録「超国宝」等を参照)。展示された国宝は112件、重要文化財は16件を含み143件に及んでいる。テーマは「超国宝ー祈りのかがやきー」で、国宝を歴史と文化を代表する国民の宝として広く知らしめるばかりでな
ご訪問ありがとうございます。今回は吉備の話なのですが、吉備というと古代は今の岡山県、広島県東部を中心にした大地域でした。のちに律令制の時代に備前・備中・備後・美作ミマサカと分かれますが、さすがに4分割された地域は東北以外はありません。広いというより強大であったからのようです。古代の吉備地域8月。官者トネリ吉備弓削部虛空キビノユゲベノオオゾラが緊急の用事で家に帰った。吉備下道臣前津屋キビノシモツミチノオミサキツヤ或本に云わく国造吉備臣山キビノオミヤマが、虚空を留めて使用