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今回、武甕雷神を考察しますがかなりぶっ飛んだこと書きますが気にしないで下さい!これからする考察のベースは縄文日高見国と弥生物部氏です。縄文時代にクナトの一族が渡来し、三内丸山で日本海ルートの出雲族と太平洋ルートの日高見国に分かれたと書いてきました。日高見国は岩手県北上から富士山🗻周辺までとも言われる広大な縄文連合国でした。太平洋側も元はクナトの一族なので龍🐉蛇信仰、ミシャクジ信仰、アラハバキ信仰で、後に出雲と同じく大国主、少名彦を信仰しました。東北太平洋側にも出雲系神社が多い理由です。
たぶん今回で終わると思うんですが…💦微妙『高天原は日高見国にあり序章』今回の常陸国神社巡りで自分の考察がある程度まとまりました。先に書きますが古事記などの古典を否定するのではなく実際はこんな古代史だったんじゃない??と考察してる…ameblo.jp『高天原は日高見国にあり徐福渡来編』前回は縄文時代の古代史を少し考察しました。『高天原は日高見国にあり序章』今回の常陸国神社巡りで自分の考察がある程度まとまりました。先に書きますが古事記などの…ameblo.jp『高天原は日高見国にあり
令和6年3月7日木曜日、晴れ時々曇り。今日は四天王寺と愛染堂勝鬘院。四天王寺といえば物部氏vs蘇我氏と習う。物部とは俗にいう天使たちのことで神の帝国軍の1大隊(ストームトルーパー)だ。が…蘇我とは読んで字の如く「蘇りし我は(馬や戸の子)」だ。この蘇我軍の最後尾で戦況を見ていたとされるのがもう一人の「厩戸王」こと聖徳太子。死んで蘇る馬屋から生まれた子はイエスキリストだが、なぜ2人居るのか、あるいは同一人物か_はどうでもいい。物部軍も蘇我軍もどちらも巨人たちで元は十数万年前までは同僚だっ
『土佐国風土記』4物部と"神武東征”川崎一水石上神宮はもとは物部氏の神社ではあったが、物部氏に勝った蘇我氏の神社でもある。そして天皇家の武器庫でもある。その創建は崇神天皇の時代にである崇神天皇七年である。ここには物部の神である「布留の神」が祀られる。そしてのちに述べるが蘇我氏が物部氏を破り、政権を取って以降は「フツの御霊」も祀られるようになったという。「フツの御霊」を祀るのは蘇我氏である。「フツ」は布津主の「布津」でもあり、「芾」でもあった。
祈りの山旅次回行事予定のお知らせ(当会は会員制などではなく、どなた様でもご参加自由、入会金なども不要です)参拝行事の一覧をこちらにまとめております↓『参拝行事残席情報です』参拝行事残席状況のお知らせです。詳細、お申し込み方法などはリンク先のブログ記事をご参照下さい。(文中敬称略にて失礼します)3月18日(月)混迷の時代を生き抜く…ameblo.jp詳細、お申し込み方法などはリンク先のブログ記事をご参照下さい。━━━━━━━━━━━━━━━━━━(文中敬称略にて失礼します)5月25
この神紋が後からヒントになったのだ〜⭐️【ふる】この音霊、言霊にずっと鷲づかみにされてる🦅星よ導きたまえ⭐️ついたちの甕星の御守り夜の世界を支配する強い霊力ついたち、、朔日、、星、月の夜の霊力をこめる⭐️🌙大甕神社社務所で伺ったヒントワタシの知識不足のために質問の仕方、言葉が適当でなかったのだ「境界石にはっているお札」ワタシ😃「星神・甕星香香背男は、物部に封じられているのですか??」社務所のマダム🐸「物部は封じていませんよ」「封じているとい
『土佐国風土記』3物部と神武東征川崎一水物部川は「物部」と名がつけられているように物部氏に由来する。古事記の話では神武東征といわれるものがあったことになっている。その時代は日本書紀では紀元前660年とされるが、実際には紀元後の西暦50年代であったといわれる。しかしそのときに行われた「神武東征」は神武天皇によるものではなかったといわれる。後に初代神武天皇カムヤマトイワレヒコと呼ばれ、ハツクニシロシメススメラミコトと呼ばれる狭野命が、その兄た