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こんにちは、スタッフの渋ドルです。4月13日の土曜日に、福島浜通りの夜の森の桜を見に行きました。地元のイベントがその前週の6・7日に行われ、震災前年の2010年以来14年ぶりとの事。当日はイベントはなかったですが、周囲の駐車場にはキッチンカーがあつまり、地元福島の方でにぎわっていました。単なる桜見物で終わらないのが、WASABIです。キッチンカーのやきそばを食した後、桜並木の道端にベンチがあったので、そこで桜のスケッチを。要所要所で、某アドバイザの的確なアドバイスが入り、
2024年4月21日。旧北幾世橋村内の祠について、引き続き、見てみたいと思います。『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)を翻刻して確認してみます。今回は三宮と八幡宮と天満宮などの祠官(神職)であった鎌田和泉正について翻刻します。----------------------------------------鎌田和泉正居町裏、三宮・市幸・葉山三社〈見前〉、稲荷〈在辻〉祠官、且守妙見社、受寄三宮社田一石四斗、世系不詳、正徳頃三宮
2024年4月20日。旧北幾世橋村内の祠について、引き続き、見てみたいと思います。『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)を翻刻して確認してみます。今回は三宮と八幡宮と天満宮の別当である神宮寺について翻刻します。----------------------------------------舩見山無量壽院神宮寺旧在北原、後移渋井、今合于大聖寺、大聖寺一臈寺也、寺田四石三斗〈明暦中有勝胤公印、貞享中四石一斗九升二合四勺〈両泉田内〉
今日の米沢晴れ13℃今日の散歩3152歩お散歩途中春先恒例の道路清掃が行われたいました道路の端にジャリ砂などたまりますからねお祭り前にきれいにしたようですさて土曜日曜は5年ぶりくらいかな毎年行っていた同級生高校時代剣道部の仲間で旅行21歳の頃からしてるので30年以上続いていましたがコロナの影響で中断してました米沢から友人のワゴン車に5人乗り出発高速を使い福島県相馬方面へそこからR6を南下道の駅なみえで休憩お
2024年4月4日。昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ています。浪江町川添地区の正西寺の標葉氏墓地群です。前回、前々回のブログでは釘本衛雄宛鈴木松五郎書状を翻刻してみました。ではこの釘本衛雄が何者か、見てみたいと思います。最初の資料は東京日日新聞による『新代議士名鑑東日時局情報第二輯別冊附録』です。真ん中が釘本ですが、県会議長や福島新聞社長を務めて、衆議院議員に当選しています。衆議院議員となったのは第20回衆議院議員選挙であり、これは昭和12年(193
2021年5月24日。さて、浪江町権現堂、大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回のブログでは戊辰戦争に巻き込まれた浪江宿について触れました。戊辰戦争の際、高瀬村葵の茎にて福岡藩(筑前藩)黒田家家中と相馬藩は戦いましたが、筑前藩で亡くなった方々の墓は権現堂字町場の明徳山常福寺にあります。今回はその福岡藩(筑前藩)黒田家家中の墓標と大字高瀬字丈六にある墓標を見た上で、福岡藩(筑前藩)の戊辰戦争の動向を検証してみたいと思います。現在の浪江町域で確認できる福岡藩(筑前藩)黒田
4月13日土曜日はももクロの外周やかん大作戦に行って来た❗外周は何度か行ってるがあくまでも、ももクロメインだったが今回は外周メイン🤔ももクロは卒業したからね❗当初はあまり気にしてなかったが、亀岡と近い事もあり、ブレイク、しゃちが出るから行かねばなるまい😃ちなみに、浪江女子はあーりんがメンバーにいるのね🎵それで人気あるんだ❗知らなかったブレイクちゃんを見たあと、しゃちです✨撮可曲(ピザ🍕です❗️)があったのでYouTubeあげとく🎵https://youtube.com/w
2022年3月20日。浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊前回は京染新聞社編『日本京染呉服染色業者名鑑』第1輯(京都京染新聞社、1926)に掲載された大正年間の浪江町の呉服業(呉服商)について検証してみました。かなり多くの呉服業(呉服商)が確認できました。具体的な取り引きの様相、流通圏、経営まで分かると良いのですが、現段階では資料的制約のため、これ以上のことまで分析できません😥大正・昭和初期の浪江の商工業において、あるいは浪江町を含む周辺村落(まだ昭和の大合併前なので現
2024年4月22日。ここのところ旧北幾世橋村内の祠について『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)から検証していました。そこで三宮と八幡宮と天満宮などの祠官(神職)であった鎌田和泉正について検証してみましたが、鎌田氏が住していた町裏(おそらく現在の大字北幾世橋字町後)の隣、現在の内匠町にお堂があったかと思います。東日本大震災の供養碑がある辻のところです。この堂がなんだったかなーっと思い、住宅地図で確認したところ愛宕堂であることが確認で
全国の都道府県を出します。福島県「為替貯金取扱局所記号番号簿」大正7年簿、記号が、飛記号(局名・無記入含む)を、調査しています。局名・記号を、ご存じの方、是非報告を!!確認は、二重丸貯金記号印郵便貯金通帳貯金書類検印簿郵便局と不明貯金記号【記号】【局名】横に並んでいても、其の記号ではありません。下記の並びは、仮に並べてあるだけです。局数(印数)の記事で再調査必要仮局名です。福島県明治時代貯金
2022年6月19日。『大字誌浪江町権現堂』前近代編執筆中の西村慎太郎です😄『大字誌浪江町権現堂』前近代編ですが、現在は第1章の「高野宿・浪江宿と権現堂の名前」を書き終えましたので、今回は「高野宿」という名前について書きます。『奥相志』に「もともと高野町と称した。寛政年間(一七八九~一八〇一)に浪江町と改めた」と記されているように、浪江宿は「高野」と称されていました。そもそも、権現堂村の中には請戸村と内陸(室原村など)の地域をつなぐ東西に延びる道と南北に延びる「陸前浜街道」が交錯