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2024年5月3日。前回は相馬藩山中(さんちゅう)郷の成立について見てみました。典拠が明示されていない今野美壽『相馬藩政史』上巻(相馬郷友会、1940年)なので、原資料を見つける必要がありますが、管見の限りでは今野家文書にあるかどうか、判然としないところです。さて、その相馬藩山中郷のうち、浪江町域の山中郷における在郷給人を見てみたいと思います。これについては『東北アジア研究センター報告23旧陸奥中村藩山中郷基本資料』(東北大学東北アジア研究センター、2016年)に原資料が掲載され
食べながら痩せて痩せて若返るパーフェクトダイエット運動なしで3食食べて10ヶ月で−11kg59歳なのに美しく痩せました自己紹介https://profile.ameba.jp/meこんばんはーダイエットカウンセラー浪江久枝です✨気温が上昇してきましまね!熱中症に注意する時期がやってきました!いつも手足冷たくて私冷え性なんですって方いませんか?冷えはダイエットの大敵なんです!常に手足が冷たい冷え性の方と冷え性なのに気づいていない方といます!
2021年5月26日。さて、浪江町権現堂、大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊前回のブログでは近世後期に開かれた明徳山常福寺について述べました。浪江宿の中心地に建立された常福寺の恵敬はもともと越後国出身で、移民招致に尽力した恵敬は130軒の新農家を招いた功績が評価されて、常福寺再建に至りました。では、相馬藩の移民政策とはどのようなものでしょうか。最初に先行研究を提示した上で、その具体相を述べたいと思います。相馬藩への移民について、古くは岩崎敏夫『本邦小祠の研究』(岩崎博
2024年4月27日。前回・前々回にわたって古書店でゲットした相馬藩の記録2冊について触れました。現在、内容を確認中ですので、追ってこのブログで紹介したいと思いますが、とりあえず、本日より再び浪江町の話に戻りたいと思います。なお、相馬藩士といえば、明治4年(1971)の廃藩置県に際して、藩が各村々から土地を買い上げて、それを藩士に与えて自活を推進した「家中土着」が行われたことはこちらのブログでも以前ご紹介しました。『調査日誌301日目-明治4年の「家中土着」-』2022年1月
2024年5月1日。前回・前々回のブログでは赤宇木村の小字について記しました。典拠としたのは、近世後期に作成されたと目される「村々調」(『東北アジア研究センター報告23旧陸奥中村藩山中郷基本資料』東北大学東北アジア研究センター、2016年)でして、これ以外に管見の限りでは史料が確認できません。たぶん、津島の今野家文書の中には関係する史料が遺されていると思われるのは、これについては引き続き探してみたいと思います。なお、赤宇木地区について、近代から現在に至るまでの歴史については
2024年4月30日。前回のブログでは近世後期に作成されたと目される「村々調」(『東北アジア研究センター報告23旧陸奥中村藩山中郷基本資料』東北大学東北アジア研究センター、2016年)から赤宇木村の小字について記しました。今回はその小字と現在の住宅地図に掲載された小字名を確認しつつ、読み方を見てみたいと思います。朱書きは住宅地図で確認できた地名です。・赤宇木(あこうぎ)・赤柴・登木戸・蒲谷地・東〈在家弐軒〉・井戸神井戸上(いどかみ)・小沼〈在家壱軒〉(こぬま
2024年5月2日。赤宇木記録誌編集委員会編『浪江町赤宇木の記録百年後の子孫たちへ』(赤宇木記録誌編集委員会、2024年)が刊行されたのを受けて、近世の赤宇木村について見てみました。赤宇木村のある山中(さんちゅう)郷について検証してみたいと思います。山中郷の成立は元禄10年(1697)。元禄9年から元禄の大検地がはじまっていますが、その過程で山中郷が行政区として設置されました。宇多郷から分割されたのは2ヶ村、北郷から分割されたのは3ヶ村、中郷から分割されたのは15ヶ村、標葉郷から分
NPO法人歴史資料継承機構じゃんぴんです。東洋美術学校保存修復科で修復していた古文書が、たいへん詳細な修復報告書とともに、茨城県太田新田村文書・福島県浪江町谷津田菊池家文書14点が返却されました。福島県浪江町谷津田菊池家文書については6月1日に開催されます「第9回浪江を語ろう!」で地域の方がたにご覧頂きたいと思います。「第9回浪江を語ろう!」『「第9回浪江を語ろう!」お知らせ』一般社団法人浪江町地域文化フォーラムです。以下のとおり、「第9回浪江を語ろう!」を開催致します。