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村重さんが判明したので、吟味開始。先ずはその村重さん。生命最多敵1体物ダメ2.50最大装填味方一人毎攻+50%(最大+300%)攻撃後最大装填味方装填全消費……なんだ、これは?たまげたなぁ……。いや、凄いね。+300%だよ、バフとは別に。非常に強力なボスアタッカーと言えよう。アクセス解析によると当ブログは閲覧者の95%近くが成人男性……つまり、元男の子。だから小学生男子感覚で記すけどさぁ……良いよなぁ、こういうの!味方の力を集約して放つ究極の一撃。ヒーローもので中盤頃
全国お城の「石・石垣シリーズ」は、『「石」の使われ方』において「刻印石」が見られるお城をお届けしています。今回は「中編」として「近畿」のお城で見られる「刻印石」です。私が今回掲載するお城以外にも「刻印石」が見られる石があると思いますが、思いついたお城のモノを掲載しました。「刻印石」というのは、近世になって石垣を積上げる際に、請け負った場所(エリア)を示す為の目印として石の表面に彫った印を言います。特に、江戸時代に入り、「徳川家康」が命じた「天下普請」による築城において、1つのお
【問題】池田輝政の子・池田忠継は、大坂冬の陣では幕府方と豊臣方、どちらに属して戦ったか?【選択肢】幕府方豊臣方【正解】幕府方【解説】池田忠継は輝政の子として、慶長4年(1599)に生まれた。十代の時に訪れた大坂冬の陣に幕府方として参戦したが帰国後に発病し、翌年死去した。享年17。
※和意谷池田家墓所「一のお山」池田輝政公の墓・・・巨大な亀趺(きふ)の上に巨大な櫛型墓が載っています墓の正面には法名ではなく、「参議正三位源輝政」と生前の官位名と本姓(池田氏は源氏を名乗っています)が刻まれています池田輝政公の墓3️⃣戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から
12/23(土)に城友と訪城した最後のお城(3城目)は「山崎陣屋」(兵庫県宍粟市山崎町)です。「篠ノ丸(ささのまる)城」から下山して駐車場から車に乗り、坂道を下ったすぐの所にあります。私達は、「山崎市立図書館」近くに車を置いくと、もうそこは「内堀」跡を綺麗に舗装した道になっていました。「内堀跡」碑↓「内堀」跡↓「山崎陣屋」の資料が「図書館」で貰えないかと入館して伺うと、「ブラやまさき」というガイドブックと「山崎歴史郷土館」の資料をいただきましたので、その後の遺構巡りに凄く役立