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昭和初期頃まで使用されていた旧石州往還道は平良地区で群塚山、菊ケ迫山、御棒杖山の東尾根筋を通っていた。途中に茶屋があったことを複数の先人から聞いたことがある。旧石州往還道は中世から益田に通じる交通路で、足利義政から下賜され益田氏が所持していた「益田壺」を、桜尾城で毛利輝元が見て益田元祥に所望しており、この「益田壺」は益田氏城館から石州往還道を通って桜尾城に運ばれたのではなかろうか。
「関ヶ原の戦い」と言われますが、実は戦闘は東北から九州まで、全国各地で起きています。伊達政宗も上杉景勝も黒田如水も、それぞれの場所で(それぞれの思惑で)戦っています。毛利輝元だって、関ヶ原にこそ来なかったものの、毛利軍は西国方面で結構積極的に動いています。輝元が「天下を取りに来ていた」のは事実です。王将が無闇に前線に出るのはヘボ将棋です。毛利輝元が大坂城にどっしり構えて、全国の戦闘を指揮しようと考えていたとすれば、さほど理に合わないことではないでしょう。関ヶ原が「決戦場」になるというのは、
【問題】備中高松城の戦いの和議の証に羽柴方から人質に出された際、毛利輝元から気に入られてその姓を与えられたのは次のうち誰か?【選択肢】毛利高政毛利良勝毛利長秀毛利勝信【正解】毛利高政【解説】備中高松城攻めの最中に本能寺の変が起こったため、秀吉は森重政・高政兄弟を人質に出し和議を調えた。兄弟は輝元に気に入られ、毛利の姓を与えられた。
伊予の関ヶ原~刈屋畑の戦い~こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、松山市古三津の周辺で「伊予の関ヶ原」と呼ばれる合戦があったことを紹介します。伊予の関ヶ原合戦の史跡まずは、その合戦の史跡を探すために、松山市宮前公民館にやってきました。愛媛県松山市古三津1丁目26−48公民館の入口付近に、案内図を発見しました。宮前文化遺跡案内図です。案内図の拡大この周辺に、かつての合戦の史跡が数多く残っています。まずは、宮前公民館から南に約270m