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うっちーこと宇都宮芳綱です天下鯖の本城主で極選くじが引けるので、久々に娘に引かせてみましたしかし、引かせ始めた頃は幼稚園位だったのに、今は高校3年生のJKですから、時の経つのは早いですねさて、極選くじを引かせた結果はグッジョブ♪('-^*)/娘よ、良くやったなにせ影城主で自分が引いた時はこれでしたからグフッ!><さて、続けて天神くじを本影で引かせてみましたまずは影城主です続い
ロードバイク四国旅行四日目の令和元年11月6日(水)、宿泊させていただいた大崎上島のT本君の新居を後にした私とS井君は、ロードバイクで大崎上島の明石港に向かいました。◇とびしま海道前日は、大崎上島の木江港(天満港)から大崎上島の東側の海岸沿いを走る広島県道65号を走って、大崎上島の北端をぐるっと回って西側の海岸沿いに出て、白水フェリー乗り場の先にあるT本家に向かったのですが、11月6日(水)は、大崎上島の西側の海岸沿いを南下して、広島県道358号に入って、大崎上島の真ん中を突っ切って
只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」
お城大好き遠くに堀を挟んで石垣が見えます表御門を過ぎると左手に護国神社の大きな鳥居が見えてきます護国神社を通り過ぎると待望の広島城が見えてきますきれいなお城輪郭式平城は複連結式望楼型5重の天守構造1589年に毛利輝元により築城されています原爆の投下により消失したものの1958年以降に再建されました城の周りを探索してたら汗だくになりバス停に向かいます5分くらい待ってバスが到着他にもいきたいところがあったけどこの暑さでギブアップバスのエアコンが心地よくて一周20分
広島まちなか散策…歩兵第11連隊跡「連隊」は数千人で構成される部隊編成単位です当時は地域ごとの徴兵を基盤とした…「郷土部隊」としての側面も強かった11連隊は広島を根拠地として明治初めに創設された日清/日露をはじめほぼすべての戦争の最前線で従軍した精鋭部隊のひとつでした広島城の内堀の東側に本拠地がありました正門の石柱が残っています*地域性を示す例大阪には第8連隊が置かれましたが職人や商人出身者が多かった「またも負けたか八連隊…」という俗謡が知られている(昔の事
毛利輝元公により、1592年に創建された広島城天守は、原爆により倒壊されました。1958年に外観復元されましたが、今年の3月に閉城され、木造での最短復元は2049年のようです。私の個人的な意見としては、予算のない平和都市で、大金をかけて、20年以上もお城の工事するより、耐震補強で済ませる方が良かったと思います。お城を創建した毛利輝元公の銅像が、誰も注目されない場所にひっそり立っています。県外の銅像とかは駅前に立派な物がありますし、誰も知らない毛利輝元公より、父親の毛利隆元公、吉川元春公、
今日も引き続き合戦イベント前回の「九州の役」に関連する告知です。いつもなら一番最初に発表している肝心のイベントスケジュール、遅くなりましたが以下にお知らせします。【開戦日時】2026年09月04日(金)11:00【参戦期限】2026年09月10日(木)11:00【終戦日時】2026年09月14日(月)11:00今回はいずれの日も11:00が刻限となっています。お忘れなきようお願いします!続いて両軍の部隊長をもう発表してしまいます!以下のような陣容であります!
『羽田発岡山行JAL231便(B737-800,JA333J)8/22(金)』定番化している、8月下旬の四国or山陽or山陰旅行🧳✈️この日8/22(金)も羽田空港にやって参りました。朝食も鉄板のこちら💞😋「うますぎて申し訳ないス!…ameblo.jp岡山空港(↑)には、昨年同様岡山のKSさんと高松のSSさんが迎えに来てくださいました。KSさんのクルマで先ず向かったのは🚗💨備中高松城跡🏯私基本TVは見ない人なので、不勉強でしたが、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」でも話題の歴史的
モノの見方や伝えられ方の話なんだけど関ヶ原の戦いは、本当に**「徳川家康vs石田三成」**だったのだろうか。実際、西軍の総大将は石田三成ではなく、五大老の毛利輝元だった。秀吉の死後、幼い秀頼を支えるために存在した五大老・五奉行。関ヶ原は単なる家康と三成の戦争ではなく、豊臣政権内部の主導権争いとして見る方が実態に近い。そこで一つ疑問が残る。豊臣側は、本当に1600年に戦う必要があったのか。当時、秀頼はまだ7歳。一方の家康は57歳前後。時間が経てば秀頼は成長する。1605年には元服
射)毛利輝元:三つ星の後継者射)小早川隆景:三矢結束・略射)真田信幸:信濃の獅子薬)初:臨機応変の敏薬)村松殿:温顔の慧女射)加藤嘉明:沈着の大器薬)荒木だし:玉環の再来薬)島津貴久:三国守護の勲射)島津義久:大吉の勝戦薬)陽泰院:藤波の美目©コーエーテクモゲームス
吉川広家。関ヶ原の戦いのキーマンの一人です。西軍の総大将に祭り上げられた毛利を救った男でとあります。一方で毛利家中では微妙な立場に立たされました。まずは経歴から。祖父は毛利元就。一代で中国地方に覇権を打ち立てた稀代の英雄です。父は吉川元春。元就の二男として生まれた剛毅果断の武将です。広家はこの元春の三男に生まれます。長兄元長が早死にし、次兄元次は家臣の繁沢家を継いでいたため、広家は三男ながら吉川を継ぎます。関ヶ原の戦いでは毛利は動かない、戦場には出ないと家康に約束して、領地も
2026.5.5.先日、広島へ見に行ったNEWマンホールです(設置されたばかりです)それと、新しく出来た毛利輝元の銅像今回の広島巡りは、この2つが一番の目的でした(2番目は、前回投稿のNEW元就像でした)銅像が出来て、1年が経ってしまいましたが!やっと見に行く事が出来ましためちゃ!カッコいいね~もう一つマンホールこちらは、設置場所が車に踏まれる所で、既に傷んできています
うっちーこと宇都宮芳綱ですまた更新が滞ってしまいましたまず鍛錬チャレンジですがグフッ!><そろそろ成功して欲しいさて、全鯖で10回位極選くじを引きました通常の天や極以外を紹介しますと、布武鯖の影城主でグッジョブ♪('-^*)/23鯖の影城主でグッジョブ♪('-^*)/次回の育成イベの時でもランクアップしますLV10→TR1(13回目に成功)TR1→TR2(32回目に成功)T
こんばんは。「豊臣兄弟!」24話です。↓こちらの続き『豊臣兄弟!24話軍師官兵衛』こんばんは。24話となります。↓前回のお話はこちら『豊臣兄弟!23話「さらば、半兵衛」』こんばんは。今回は23話です。今回は菅田将輝さんの魅力が十分すぎるほ…ameblo.jp秀吉は、織田信忠に有岡城攻めへの力添えのことでお礼を言いました。その場には、他の織田の家来たちも数人いました。そのようなことを言いにわざわざ来たのか?と、信忠は言います。これで、別所の方はこちらにつくだろうと秀吉は言いま
今夜の豊臣兄弟です。豊臣秀吉と小一郎は、毛利との戦いで、備中、高松城に行き、水攻めをやっておりました。(今の岡山県です。)明智光秀は、信長の甥の織田信澄に会いました。信澄は、長年、父を殺した信長を殺したかったと言いました。20年も恨んでいました。信澄は、母には、散々、信長をいずれ殺すように言われていました。母は亡くなりました。黒田官兵衛です。毛利家外交僧の安国寺恵けいに会い、織田信長と毛利輝元の和睦を勧めていました。安国寺恵けいです。織田信長は、徳川家康を招いて食事会を催して
令和8年度「城下町広島の歴史講座」が始まりました。令和8年7月11日(土)~11月14日(土)、毎月1回、計5回…広島市東区役所5階講堂にて(広島市文化財団二葉公民館・二葉の里歴史の散歩道ボランティアガイドの会)…今回も会場いっぱいの受講者で熱気を帯びており、地元歴史の関心の高さが伺われます。受講参加への選考の競争率も高かったようです。早めに参加し、いつも通り最前列で受講しました。後列から皆さんの後姿(頭)を見ながらの聴講は苦手です。
本日、夕方、NHKの「サルでもわかる」という番組を見てしまいました。なんで信長様は討たれてしまったの?天正10年6月2日。信長は京都本能寺で明智軍に攻められ自害する。なぜ、信長が京都に?中国地方の大大名・毛利氏と戦う豊臣兄弟から援軍の要請があって向かっていた。兄弟は戦いを優位に進めついに敵の総大将・毛利輝元を引っ張り出した。信長は光秀に大軍を率いて一足先に向かうよう命令。自身はわずかな
医学天正記て何だと思ったら、戦国時代の武将達のカルテのようなものみたいだな、戦国時代の織田信長や豊臣秀吉や徳川家康のカルテがどんなものだったのか楽しみだな、風邪のようなカルテもあるみたいだから、歴史で見てきた武将達も風邪だったとか聞くとちょっと親近感が湧くな😊、ちょうど今大河ドラマで出てきてる毛利輝元は下痢や血便の症状があったみたいだ、足も悪くて歩くのもままならないままだったらしい、そしてそんなに豊臣秀吉は朝鮮攻めをしていたみたいだな、確か加藤清正も朝鮮で病気になっていたと言っていたから、朝鮮に
https://ncode.syosetu.com/n7250mf/33継ぐ者源義経〜鬼の弟〜[源頼朝戦記続編]https://ncode.syosetu.com/n7250mf/長宗我部の臣従により、毛利の四国侵攻は、かろうじて食い止めた――そう思った矢先、九州の大友・島津の連合が、四国へ攻め入った。義経は、援軍の支度を、急いでいた。挿絵1:ハイライト源義経「なに!」使者は、義経の立腹に汗をにじませながらも、言葉を継いだ。使者「信長様ご自身が総大将であ
【問題】大坂の陣に際して、毛利輝元の命で豊臣方として大坂城に入った内藤元盛が使った偽名は、次のうちどれか?【選択肢】安田平助溝口天延森本安屯佐野道可【正解】佐野道可【解説】大坂の陣で、毛利輝元は家臣の内藤元盛を佐野道可と名乗らせて、兵と軍資金を持たせて大坂に入城させた。大坂落城後、元盛は輝元の密命を白状することなく自害した。
先日、秀吉の天下取りの7つの謎、という番組がありましたね。(続きです。)備中高松城秀吉VS毛利輝元。本能寺の変(6/2未明)のことを雑賀衆が先に毛利に知らせてしまったら、秀吉は京都に戻れない。秀吉が知ったのは6/3の夜。そのおかげで4日には和睦。中国大返しが可能になった。毛利が知ったのは6/5。当時の移動手段は馬か徒歩。使者のルート様々な説が……。近年わかった説がこれ
さてさて…竹中半兵衛から軍師の任務を引き継いだ黒田官兵衛は…その無双なる軍略と切れ者ぶりを存分に発揮‼️秀長共々、秀吉の天下統一に多大なる貢献を果たしました🆕織田政権と同じく、豊臣政権の軍事における基軸は西への拡大戦略でした‼️本能寺の変直前には中国経略に加えて新たに四国経略が開始されようとしていました🆕中国の雄である毛利氏との戦いは…序盤では、将軍義昭を擁することになった毛利が播磨・摂津国内の反信長陣営を支援することで優位に立っていましたが…その後、織田方(秀吉)の執拗な調略に
おはようございます、たけちです。2026年・令和8年6月27日土曜日みなさん、いかがお過ごしになりますか?今週は雨、降りまくりましたね。たけちの住んでいる筑後市近郊も結構な雨が降りました。前に書いたと思いますが、これは梅雨ではなく、災害ですよ😱空梅雨と思わせておいて、ドカ降りもうねぇ、これは控え目にいっても最悪です。畑の作物にも人間含めた心身の健康にも良くないです。きっと、梅雨が明けると凄まじい暑さが襲ってくるのでしょう。はぁ、いつから日本の夏はこんな風になったの
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第23回、「さらば半兵衛」の感想です。(続きです。)それからしばらくして半兵衛は三木城を攻める秀吉の陣におりました。半兵衛:「して戦況は?」と秀吉に聞く。病床に伏していても戦況が気になる。秀吉:「三木城に兵糧を入れようとする敵方とぶつかったが我らが優勢じゃ。」半兵衛:「そんなはずはありますまい…。」半兵衛:「毛利の支援を受けた敵を相手にそうやすやすと戦果を挙げられるとは思いませぬ。戦場に出と
『毛利輝元』(もうりてるもと)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人。ここでクイズです。関ヶ原の戦いは、東軍と西軍との争いでした。東軍の総大将は、徳川家康。では、西軍の総大将は誰でしょう?石田三成そんな答えが返ってきそうです。しかし、石田三成ではないから、クイズを出しています。答えは、毛利輝元。誰?毛利輝元って?わかった!三本の矢で有
大河ドラマ「豊臣兄弟」も中盤。先日来の播磨国の攻防は見ごたえがあった。戦国時代は知っているようで知らないことが多い自分だが隣県の織田方と毛利方の争いは知っている場所も多く、武将たちの思惑もリアルに伝わってくる。織田氏の中国攻めが始まったのが1577年、秀吉軍による第一次因幡攻めが1580年。いよいよ鳥取城の包囲も描かれるか。そして本能寺の変は1582年。時代は大きなうねりを迎えていた。私の住む町にある八橋城も戦国時代に攻防が行われた地である。詳しくは省くが、城主も行松氏→吉田氏
光成準治「毛利輝元・吉川広家・安国寺恵瓊の関係と関ヶ原の戦い」渡邊大門『戦国の俗説を覆す』所収関ケ原の戦いにおいて、毛利方は西軍についていた。毛利輝元に至っては、西軍の大将であった。しかし、輝元は大坂城を動かず。関ケ原に臨場した吉川も動かず。吉川が動かなかったため、安国寺は身動きがとれなかった。なお、吉川は、東軍に寝返る動きを活発に行っていた。結果、毛利氏は領地削減。吉川は主家の領地削減にあい、当初の目的を果たせず。安国寺に至っては斬首・・・。誰も得をしなか
6月15日月曜日大河ドラマ「豊臣兄弟」主要登場人物毛利輝元(濱正悟)毛利輝元「毛利輝元」は、中国地方を制覇した「毛利元就」の長男「毛利隆元」(もうりたかもと)の跡取り息子として、1553年(天文22年)、安芸国(あきのくに:現在の広島県)にある吉田郡山城(よしだこうりやまじょう)で誕生しました。幼名は、「幸鶴丸」(こうつるまる)。幼少時代の逸話は、ほとんど残っておらず不明ですが、幸せという字と、千年生きると言われる縁起の良い鶴の名前を付けられてい
おはようございます。気温は21,7℃、天気は曇りです。関ヶ原の戦いで、領地を減らされた大名、今日は毛利家です。もともと毛利家は中国地方を治める大大名。さらに藩主の毛利輝元は立場上は西軍の総大将。本人は大阪城に居ましたが、戦場には一族のを送っています。ただし吉川広家が内通していたため兵を動かすことができませんでした。そして戦後、本拠地(広島)に戻り、徳川家の判断にゆだねることになりました。最初は本領維持だったそうですが、何かと難癖をつける家康ですので、防長の2国
備中松山城を後にし、続いて城下町を歩きます。石火矢町ふるさと村の駐車場。土塀で囲まれているなんとも風情ある駐車場。門こちらにも門街道側から武家屋敷旧折井家天保年間(1831年〜1845年)築、折井家は200石ほどの藩の馬回り役を勤めた家だそうです。他も見て周ってから入ろうかと思ったんですが結局入らなかったんですよねぇ…武家屋敷通り本町通り池上邸享保年間(1716年~1736年)築の小間物屋、替商、高瀬舟の船主、醤油製造で財をなした豪商の