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江上波夫は現代日本の直接のルーツは騎馬民族の征服王朝と主張したが、現在は多くの反論を受けて否定されている。扶余族を東北ユーラシアの騎馬民族と仮定して説を展開しているが、扶余族(高句麗、百済を含む民族、参考)は秦の末裔であり、原日本語を喋る日本人と同族(参考)とすると、江上波夫の説を正しく解釈出来る。最近のDNAの分析技術の進歩により、日本民族のほか朝鮮民族、漢民族、そして少数民族などの系統が明らかになりつつある結果であることを指摘したい。すなわち、秦の始皇帝が中国を統一するまで日本民族のルー
長江あたりから日本に渡来した稲作農耕民のルーツとして、旧分類のハプログループでO2であった(厳密には呉系弥生人がO2b、越系弥生人はO2aである)。これに対し、大野晋の日本語起源の一つとしてのタミル語を喋るタミル人も、旧分類ではハプログループO2であった。日本語の起源として、旧分類でハプログループD2をもつ人々(縄文人、斉系弥生人、秦氏)が主に喋った言葉を原日本語と考えている。この原日本語を同時期に共存してきた稲作農耕民も喋り、稲作用語を原日本語の中に残してきた。この稲作農耕民の一派がイン
日本の正史である日本書紀、古事記以外の古史古伝はことごとく否定されている。さらに、民俗学研究の一つのサンカ研究も否定されているらしい。確かに、裏付け資料も乏しく、揚げ足取り的な否定意見が大勢となっている。しかし、著者はかつてテレビで、三角寛の写真とは別に独立した記録映像に昭和30年代の荒川河川敷のサンカの生活を見た。さらに、当時の子供達が成人して現在の埼玉県の公営住宅に住む映像も見た。また、著者の埼玉県の知人が子供時代、サンカの実生活を見たことがあるようだ。著者の周辺でも、昭和30年代まで家船
三国志の中に魏志があり、この中の烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)があり、日本に関する最古の記述がある。この中に女王卑弥呼が治める邪馬台国があり日本を治めていたと書かれている。この邪馬台(ヤマタイ)国こそ、日本(大和、ヤマト)のことであった。すなわち、魏の使者にはヤマトの音が漢字の邪(ヤ)、馬(マ)、台(臺、タイ)と聞こえたのであろう。この漢字の音について、邪をヤと読むのは呉音または訓読み、馬をマと読むのは唐音または訓読み、台(臺)をタイと読むのは漢音、ダイなら呉音となる。ところで、唐音(唐
縄文時代の日ノ本(ヒノモト)の首都圏である東日本と弥生時代以来の日本(大和、ヤマト)の首都圏である西日本を結ぶ聖なるラインの真上に、浜松市の賀茂神社があり、江戸時代のこの地に生まれた賀茂真淵がいる。彼は古事記、日本書紀、万葉集をベースに日本を研究する国学に取り組み、日本語についても研究した。そして本居宣長へも影響した。賀茂真淵記念館と賀茂神社賀茂神社、静岡県浜松市中区東伊場1丁目17-1伊雑宮、三嶋大社、江島神社を結ぶ線上参考①日本語の基礎を作った男「賀茂真淵」2012.9.1(
日本語は他によく似た近縁の言語が無く、どの語族にも属していない孤立した言語であると言われている。wikiに日本語の起源について多くの説が紹介されているが、どの説もうまく説明していなく、互いの説を否定・矛盾し合って定説が無い。このような日本語について、旧石器時代以来の古い言語であると考える研究がある!また、日本語は2200年前に大挙してやって来た渡来人から始まっており、以前の言語は置き換えられたと考える研究もある。以上の2説は互いに矛盾している。しかし、共に正しい科学的な研究である。すなわち、互
九州に渡来して縄文人と同居し弥生時代を開始し、紀元前400年ころから吉野ヶ里に入植した人々はミャオ族の祖先でした!彼らは日本に稲作をもたらしました!彼らは魚、獣何でも蛋白源にしてお米を食べる。自給自足の稲作弥生人でした。和服の原点、呉服は彼らの衣装でした!彼らは、山陰地方に渡来するヤマト政権につながる斉系弥生人の祖先チャン族(Y-DNA遺伝子D2系)と生存をかけて争った歴史を持つ、Y-DNA遺伝子O2bを持った民と確信している(参考)。また、呉越同舟で知られたライバルの越人(O2a)は現在の
最新のゲノム分析によると、関西圏から四国圏に広がる京阪式アクセントとその亜種の方言話者が渡来人と考えられ、その他の地域の人々は縄文人の特徴を引き継いでいる。そして、弥生時代の弥生人は考古学的には縄文系と渡来系に分けられるが、ゲノム的には明確には区別できず、また、ある遺跡では共存していた。通婚が考えられ、現在の部落差別より近い関係にあったと想像出来る。すなわち、縄文人も渡来人もゲノム的には明らかな相違は無く、言語も方言レベルの相違しかない日本語を話していた可能性が大きい。関西圏は飛鳥時代から
①山口弁初級編ぶち意味:すごい、とても使用例:ぶちうまい!(とても美味しい!)下関では最近使われるようになった。~ちゃ、~っちゃ、~ちょる意味:~です、~ます使用例:どこいくんかっちゃ(どこへ行くのですか?)明日の集合場所しっちょる?(明日の集合場所知ってる?)ちょるる山口弁で「~ちょる」と言うところから名づけられたキャラクターです。~そ、~ほ意味:~だよ、~なの?(疑問文として使用する場合)使用例:なんしよるそ?(何しているの?)今遊びよるほ!(今遊んでる
神代文字の豊国文字そのものを直接見ていないが、・豊国文字(古体)はエジプトの象形文字に似ている・豊国文字(新体)はヘブライ文字に似ている・豊国文字(新体)はカタカナの起原・ヘブライ文字の一部がひらかなの起原と報告されている。豊国文字は古史古伝のウエツフミを記述する神代文字で(参考)、海人族安曇氏が使用した。漢字は秦の始皇帝が書体を統一した文字であり、宮下文書を徐福が書いたように、漢語と万葉仮名を使用したことを明らかにしている(参考)。漢民族が幅を効かせる前、東アジアに広がる同じ原日
渡来系氏族、秦氏は朝鮮半島の任那から渡来してきたことは、史実として認められているところであるが、ルーツは中国、朝鮮の何処かであろと通説では考えられていた。しかし、男性のY染色体のD2系統に着目すると日本人は元々、アジアを飛び越えて地中海、中東の人々に近い。縄文時代以前からユーラシア大陸の北のモンゴル経由、南回りで日本に渡来し、またはD系統以外の民族に駆逐され、中国大陸や朝鮮半島の他の民族と混血・定住することはほとんど無かった。弥生時代、O2b系統のY染色体を持った渡来系弥生人が西日本を中心に定
中国を経由して日本に入って来た仏教は大乗仏教であるが、お釈迦様の教えのとおりに悟りの境地に至る本来の仏教、すなわち小乗仏教とは異なり、キリスト教など他宗教の教えまで包含したものになっていると言う。例えば、大乗仏教で登場する大日如来とか阿弥陀如来とかはキリスト教の神様のような役割を持っている。遣唐使として入唐した空海は現地で大乗仏教の一つ真言密教を学んだが、当時、唐で流行っていた景教(ネストリウス派キリスト教)の教えをも同時に学んで帰国して、高野山の真言宗を開いたようだ。また、浄土教の本尊の
日本の縄文人と渡来人の違いは方言のアクセントの違いにしか過ぎなかった!(Wikiより)参考縄文人の痕跡を現代人に探るゲノム科学で迫る先史時代日経サイエンス(2023年12月24日、参考)かつて日本列島の縄文文化を支えた縄文人の遺伝子は今どこにあるのか。現在の日本人集団は、縄文人の子孫と大陸からの渡来人の混血で生まれた。東京大学の渡部裕介特任助教と大橋順教授らは、日本の現代人ゲノムから縄文人に由来するとみられる変異を特定した。ゲノム上に散らばる"縄文人由来変異"の保有率を手がかりに、
日本列島の旧石器時代から縄文時代の民、すなわち縄文人は東アジアの大陸にも居住したが、この民は漢字のルーツである甲骨文字を発明した殷民族であり、古代の日本語を喋っていた。この殷民族の末裔の行方については分かっていなかった。実は、春秋戦国時代に漢民族の国々と相争った秦と同族の国々の民であった。そして、後漢が滅んだ後、卑弥呼が朝貢した魏と、その後を継いだ西晋が殷民族の末裔の国であった。その後の殷民族の末裔の行く末について、Y-DNAハプログループDの男性とパートナーのほぼ全員が日本列島に渡来(帰化
最新報告「参考:①日本人のルーツ3集団小竹貝塚(富山)など6遺跡で人骨ゲノム解析」を見ると、日本人のルーツに三重構造モデルを提案し、従来の二種構造モデルを発展させている。しかしながら、「参考:②ゲノムが明かす日本人のルーツ」で明らかにされたように関西から四国の人が渡来系のゲノムを持ち、周辺の人々は縄文時代からの在来系のゲノムであったことと整合性が悪い。さらに、「参考:③-1と③-2稲作を伝えた渡来系弥生人は東南アジアから揚子江中下流域が起源」の結果が反映されていない。すなわち
中国大陸本土の漢民族の中で最も由緒あると言われている人々に客家人がいる。彼らのルーツは中原にあり、彼らの喋る客家語は漢字の漢音に近い発音であり、漢民族の先祖に当たると見られている。すなわち、中国の歴史区分で春秋戦国時代の戦乱で勝利して漢帝国を樹立したのが当時の漢民族である客家人であった。そして、この争いに敗れて日本列島に渡来したのが秦氏(秦人の末裔、縄文人と同族)であったことになる。春秋戦国時代の戦乱は寒冷化などの気候変動により減る食料を求めての殺し合いであった(参考)。最近の朝鮮半島やバル
日本には文字が無かったとされており、縄文土器にしろ弥生土器にしろ、模様か絵しか描かれていないと思い込んでいた!しかしながら、改めて土器を見ると文字らしき意味のありそうな文様や記号があった。どうも、縄文土器の派手派手しい文様には、実は意味が込められていたようだ。また、弥生土器にも神代文字と思しき記号が刻み込まれていた。ただし、土器に刻まれたものは文章と見るには文字数が少ないものであり、今のところ意味を汲み取ることは難しそうで、考古学者らは記号と見ている。それでも何らかの意味が必ずあり、記号と言
日本書紀は、本文以外に「一書曰く」として複数の異なる記述を併記しています。また蘇我氏が所有していた国記・天皇記を焼却されたが、国記はかろうじて回収されたとも日本書紀に書いてある。つまり、古事記・日本書紀が書かれる以前から、我が国には文字で書かれた歴史書が伝わっていたのである。そして、それらの文書を参照した歴史書は古事記・日本書紀以外にも有ったはずである。現在は失われた古い歴史書を参照した文書は、偽書とされる古史古伝の中にありそうだ。それも、記紀にも参照された共通の底本があるようだ。それなのに
北九州市八幡西区黒崎に縄文・弥生・古墳時代遺跡の記念碑があると教えてもらった。異なる時代の異なる文化の遺跡が同じ場所にあることになる。この辺りは、地元の縄文人も渡来してきた弥生人も古墳時代人も気性と価値観が同じで気が合って、争いなしに連続的に時代が変わって行ったことを証明している。実は地元の縄文人も渡来して来た弥生人や古墳時代人は同じ日本語を喋って会話できたのであった(参考)。同様に、下関市の川中地区が弥生時代から縄文時代の遺跡の宝庫であるが、縄文時代の遺物も出土している。例えば、伊倉本町