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前回からの続き。「『藤原北家の本流は長男でないことが多かった』のやや深掘り」をやります。今回は藤原鎌足から数えて5代目にあたる藤原内麻呂から。前回も述べた通り、内麻呂は父・真楯の三男にあたります。母は阿倍帯麻呂の娘。帯麻呂は遣唐使として渡り、客死した阿倍仲麻呂の弟です。内麻呂は阿倍仲麻呂の姪の子だったんですねー(ちなみに、阿倍氏の系図はこちらをドウゾ→★)この血統の良さからか、異母兄2人が庶流となり、内麻呂が嫡子として藤原北家の本流になっていきます。藤原内
【4月13日】京都市右京区にある真言宗大覚寺派本山大覚寺門跡さんへ。嵯峨天皇奉献華道祭の招待ハガキを頂いたので行って来ました。
本日も『藤原氏の本流は長男ではないことが多かった』企画をやります。今回で第4弾。藤原北家の祖・房前から数えて5代目(玄孫)にあたる良房(よしふさ)を取りあげます。良房は冬嗣の次男として生まれました。長兄は、長良(ながら)。802年生まれなので、良房(804年生まれ)とは2歳差。どちらも、母は藤原美津子(藤原南家・真作の娘)なので、同母兄弟にあたります。前回は脱線してしまいましたが、今回こそ、良房が兄を差し置いて藤原氏本流になっていったのは何故なのか…について、迫って
千葉県にある二宮神社に来ています狛犬さんのお出迎え赤いよだれかけがかわいいですね拝殿も大きいの彫刻も見事です鳳凰と龍ですね精巧だなぁ今にもこちらに来そうです弘仁年間(810年〜823年)の創建嵯峨天皇の御勅創によるものであると伝えられているそうです本殿は市指定文化財おぉ~
どうもみなさん、元気に行きますよっせーの!こんにちはーっ・・・実はちょっと恥ずかしい(笑)えー今日は、ややこしいのを見分けますちょっと覚えておくと、役に立ちます。打倒・引っかけ問題です!勘解由使と検非違使の見分け方。呪文です「桓かげさけび!」簡単です。桓かげ桓武天皇勘解由使さけび嵯峨天皇検非違使これだけ!?って思われるかもしれませんが、意外と使うこの呪文
弘仁寺(こうにんじ)の創建年代は不詳であるが、弘仁六年(815年)に嵯峨天皇の勅願により創建されたとされており、また、大同二年(807年)虚空蔵山に流星が落ちるのを見た弘法大師が霊山として開基したとも伝えられている。当寺は1200年前の平安初期に創建された寺院である。中世の頃は、華厳宗(東大寺)の寺院として、多くの堂宇が立ち並ぶ修行道場であったようだ。戦国時代の元亀三年(1572年)の松永久秀の兵火で伽藍の大部分が焼失したが、江戸時代の寛永六年(1629年)に宋全によって再興された。
4月6日(土)大覚寺大沢池訪問記の続きです。天神島から見た景色。ちょうど大沢池を半周した所でしょうか。対岸に「望雲亭ぼううんてい」という茶室が見えます。ここの桜、水辺から遠いのが残念。まだ蕾が目立ちます。天神社の祭神は菅原道真(845~903)。道真公は、大覚寺創建にあたり清和天皇の上奏文を起草し、仏法の興隆と衆生済度のため僧俗二人の別当べっとうを置くように進言。自身も大覚寺の俗別当(俗人の身分のまま寺院を統括する責任者)を務めました。天神
4月6日(土)2件目は大覚寺。午後3時に到着したので、大沢池おおさわのいけエリアに絞りました。ピンクに染まる遊歩道。桜の木の下は人盛りです。私も皆と同じように立ち止まり、満開の桜を撮りました。大沢池は嵯峨天皇が弘仁こうにん年間(810~824)に造営した離宮「嵯峨院」の苑池えんちの一部で、現在も大覚寺境内に属しています。中国の洞庭湖どうていこになぞらえて「庭湖ていこ」ともいい、作庭当時は泉・滝・名石等の美を極めた池泉舟遊式庭園でした。ここは津崎つ