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山道から、鞍馬寺西門を抜けると、貴船川(きぶねがわ)沿いの参道へでます。鞍馬が男性的な火の場所だとすると、貴船は女性的な水の場所です。ここまでくれば、貴船(きふね)神社はすぐそこです。夏場には、川面に畳を設えて食事するという川床(かわどこ)があらわれます。川は「きぶね」なのに、神社を「きふね」よぶのは、水を祀る神社であり、境内には神水も湧くことから、「濁らない」に掛けて濁音がないといいます。いまだにお正月の記事を書いていますここをくぐると
●厄神明王/両頭愛染明王(やくじんみょうおう/りょうづあいぜんみょうおう)(※画像は文化遺産オンラインより)(奈良国立博物館所蔵「両頭愛染明王像」)二体の愛染明王を合わせた、または愛染明王と不動明王を合わせた明王とされ、経典に記録なく口伝でのみ伝承された尊。嵯峨天皇41歳の厄年の折にその夢見に現れたとされ、それを弘法大師(空海)に祈願を依頼したのが始まりという。『羅誐記』に曰く、「その像一身両頭にして、左面は瞋りて赤く、右面は慈にして白く、遍身白く叉は赤くし
小野篁については、本当に話題が尽きない様で、以前にも紹介しましたが「無悪善」の読み方から始まる逸話の別バージョンがありました、しかし今回の内容は寧ろ逸話ではなく「実話」では無かったかと思われる内容ですので、逆に話としては広まっていなかったと思われるものです。出典:『十訓抄全注訳』河村全二/注訳新典社1994.5「嵯峨帝の御時、無悪善と書きたる落書有けり野相公(やしやうこう)によませらるるに、「さがなくばよし」とよめり。悪はさがといふよみの有ゆゑ、みかどの御けしきあしくして、
法華経お釈迦様の滅後、その教えを聞いた弟子達によって口伝という方法で伝えられ、後にそれが経文となりそして日本へと伝えられました。その中でも特に諸経の王と言われたのが、法華経です。ブッダが晩年、インドの霊鷲山で説かれて以来、アジア中に仏教が伝えられました。先日、嵯峨源氏を調べていると嵯峨天皇は826年(天長3)桓武天皇のための供養の際、法華経によって供養が行われ、その時の経は嵯峨天皇の手跡だったということが書かれていました。ちょうどその時代は、日本仏教の大勢を
奥さんが着物教室から貰ってきた美術館のパンフレット。華やかな表紙に、「障壁画100面、一挙公開」とあった。絵画好きには堪らない。撮影OKともある。(これは行くしかない)ということで、東京国立博物館に行ってきました。トーハクは5年ぶり。大覚寺展の会場は敷地奥の平成館。手前の表慶館では、50周年の節目でハローキティ展を開催。多くの女性や子供ファンで賑わっていました。寒空の下だけど、熱気ムンムン。ところで大覚寺は、皇室ゆかりのお寺で、来年、開創1150年を迎えるそうです。流石に京都、歴史
前回からの続き。「『藤原北家の本流は長男でないことが多かった』のやや深掘り」をやります。今回は藤原鎌足から数えて5代目にあたる藤原内麻呂から。前回も述べた通り、内麻呂は父・真楯の三男にあたります。母は阿倍帯麻呂の娘。帯麻呂は遣唐使として渡り、客死した阿倍仲麻呂の弟です。内麻呂は阿倍仲麻呂の姪の子だったんですねー(ちなみに、阿倍氏の系図はこちらをドウゾ→★)この血統の良さからか、異母兄2人が庶流となり、内麻呂が嫡子として藤原北家の本流になっていきます。藤原内
…「斎王」は皇女或いは王女によって奉仕されて来たが、その初代・賀茂斎王(伊勢斎王に倣ったもの)である嵯峨天皇第8皇女は誰か?「有智子(ウチコ)内親王」である。嵯峨天皇が、都を平城に戻そうとする画策が有る事に対し、それを阻止する祈願の為、我が娘を賀茂の神に捧げるべく4歳で「斎王」となり、20年以上を紫野の斎院で精進潔斎して暮らした。豊かな文才に恵まれた皇女としても知られる。