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京都へ行く前に、先日の京都画像クイズNo.92の解説をアップします。個人的な能書きが長いので、興味のある方のみ読んでください。神護寺の硯石高尾橋から楼門へ向かう途中にあります。勅願の依頼に訪れた使いが、五月雨で橋が流され立ち往生した時、空海がこの石を硯にし、墨をつけた筆を対岸の額に投げたところ、金剛定寺と書けた伝承があります。ここから、書聖空海の事蹟が残る大内裏図出題当初は書繋がりから、大内裏門額への揮毫もしくは、応天門の伝
RAPT×読者対談〈第129弾〉動画の紹介記事。コメント欄の松浦氏グループつづき↓現在の日本を牛耳っている人たちのほぼ全員が、「嵯峨天皇」にゆかりのある人物ばかりです。つまり現在の日本では、「嵯峨天皇」の血を継いでいる人物、または深い関係のある人物が、この国のトップに就くことができる仕組みになっているのです。そもそもの話、日本の内閣は以下の「五七の桐」を紋章として使っていますが、この「五七の桐」を作ったのが「嵯峨天皇」なのです。副題が「麻生太郎と朝堂院大覚と嵯峨
本日も『藤原氏の本流は長男ではないことが多かった』企画をやります。今回で第4弾。藤原北家の祖・房前から数えて5代目(玄孫)にあたる良房(よしふさ)を取りあげます。良房は冬嗣の次男として生まれました。長兄は、長良(ながら)。802年生まれなので、良房(804年生まれ)とは2歳差。どちらも、母は藤原美津子(藤原南家・真作の娘)なので、同母兄弟にあたります。前回は脱線してしまいましたが、今回こそ、良房が兄を差し置いて藤原氏本流になっていったのは何故なのか…について、迫って
前回からの続き。「『藤原北家の本流は長男でないことが多かった』のやや深掘り」をやります。今回は藤原鎌足から数えて5代目にあたる藤原内麻呂から。前回も述べた通り、内麻呂は父・真楯の三男にあたります。母は阿倍帯麻呂の娘。帯麻呂は遣唐使として渡り、客死した阿倍仲麻呂の弟です。内麻呂は阿倍仲麻呂の姪の子だったんですねー(ちなみに、阿倍氏の系図はこちらをドウゾ→★)この血統の良さからか、異母兄2人が庶流となり、内麻呂が嫡子として藤原北家の本流になっていきます。藤原内
旅日記を書き終える前にお仕事の繁忙期に突入してしまったよ〜!写真だけでも貼り付けて記録に残すぞー!旅日記⑤(①奈良の天河神社)(②オーベルジュ・ド・ぷれざんす桜井)(③大神神社)(④丹生都比売神社とお宿「天の里」)2日目のディナー。個室のお席でのんびり。食材の説明からスタートです。鱧に・・キャビアに・・「熊野牛のシャトーブリアンです」ひゃ〜〜、、ザ・贅沢!
弘仁寺(こうにんじ)の創建年代は不詳であるが、弘仁六年(815年)に嵯峨天皇の勅願により創建されたとされており、また、大同二年(807年)虚空蔵山に流星が落ちるのを見た弘法大師が霊山として開基したとも伝えられている。当寺は1200年前の平安初期に創建された寺院である。中世の頃は、華厳宗(東大寺)の寺院として、多くの堂宇が立ち並ぶ修行道場であったようだ。戦国時代の元亀三年(1572年)の松永久秀の兵火で伽藍の大部分が焼失したが、江戸時代の寛永六年(1629年)に宋全によって再興された。
千葉県にある二宮神社に来ています狛犬さんのお出迎え赤いよだれかけがかわいいですね拝殿も大きいの彫刻も見事です鳳凰と龍ですね精巧だなぁ今にもこちらに来そうです弘仁年間(810年〜823年)の創建嵯峨天皇の御勅創によるものであると伝えられているそうです本殿は市指定文化財おぉ~
嵯峨源氏の系図によると、河原左大臣、源融の子供が河原姓を名乗ったことになっている(ただの号かもしれないが・・・)。因みに、「日本の苗字7000傑(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01053a.htm)によると、源適(源融の孫、源昇の子)が、「河原氏」の始祖としてあげられている。こちらの河原氏もあるのか・・・・・。単に、源融が河原院に住んだからか、それとも他に理由があるのか・・・・。しかし、以前にも書いたように、源融の母は、大原全子といい