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https://youtu.be/N1zOkp3Yw1I?si=i09tXOGdw3qk_qd6【ひろゆき】徳川埋蔵金のありか教えましょうか。なぜ見つからないのか、ひろゆきがはっきり言います。一攫千金【切り抜きひろゆき切り抜き論破ひろゆきの部屋ガーシーchジャニーズ】日本各地にある「埋蔵金伝説」。徳川埋蔵金のありかを教えてくださいの質問に、ひろゆきの答えとは。財宝を掘り出せば一攫千金も夢ではないが。ご視聴ありがとうございます。テーマ別にひろゆきさんの切り抜き動画を「フルテ
4月10日(金)日を改めて大覚寺。桜は遠目に見ると綺麗ですが…。近くで見ると散り始めで、葉っぱが出ていました。枝垂れ桜は満開。お堂の桜も期待できそう。コバノミツバツツジとの濃淡が綺麗です。手前に解読不能な歌碑。その向かいに嵯峨天皇の歌碑。これも達筆すぎて読めません。奥に華はな供養塔。花の命に感謝を込めて、金剛華菩薩を祀っているそう。嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部を、天皇崩御の後の貞観18年(876)寺に改め、大
4月6日(土)大覚寺大沢池訪問記の続きです。天神島から見た景色。ちょうど大沢池を半周した所でしょうか。対岸に「望雲亭ぼううんてい」という茶室が見えます。ここの桜、水辺から遠いのが残念。まだ蕾が目立ちます。天神社の祭神は菅原道真(845~903)。道真公は、大覚寺創建にあたり清和天皇の上奏文を起草し、仏法の興隆と衆生済度のため僧俗二人の別当べっとうを置くように進言。自身も大覚寺の俗別当(俗人の身分のまま寺院を統括する責任者)を務めました。天神
【4月13日】京都市右京区にある真言宗大覚寺派本山大覚寺門跡さんへ。嵯峨天皇奉献華道祭の招待ハガキを頂いたので行って来ました。
4月6日(土)2件目は大覚寺。午後3時に到着したので、大沢池おおさわのいけエリアに絞りました。ピンクに染まる遊歩道。桜の木の下は人盛りです。私も皆と同じように立ち止まり、満開の桜を撮りました。大沢池は嵯峨天皇が弘仁こうにん年間(810~824)に造営した離宮「嵯峨院」の苑池えんちの一部で、現在も大覚寺境内に属しています。中国の洞庭湖どうていこになぞらえて「庭湖ていこ」ともいい、作庭当時は泉・滝・名石等の美を極めた池泉舟遊式庭園でした。ここは津崎つ
2024年4月10日11時京都市右京区北嵯峨京都の桜2日目-2大覚寺大沢池あまり観光客はいなかった。外国人ではドイツ語を話す5名位の若者がいたくらい。金閣寺みたいな光る寺があれば賑わうかもしれないがここは嵯峨天皇が離宮を設け唐の洞庭湖を模し人口の庭池を造った華道発祥の風流な地でもある。今は「観月の夕べ」で一般人が舟に乗り観月を楽しむことができる。舟つき場遊歩道を一周するあまり一か所に長居せず次の目的地の仁和寺の遅咲きの御室桜を見に行く。
泉涌寺に詣でた後は、目的の一つである西国三十三所の今熊観音寺へ〜泉涌寺山内にございますこちらが西国三十三所札所の今熊観音寺の入口正面に見えるのは寺号標と鳥居橋境内案内図講堂子まもり大師ぼけ封じ観音と大師堂石仏観音堂真言宗泉涌寺派寺院の今熊観音寺は、新那智山観音寺と号します総本山泉涌寺の塔頭寺院で、今熊野の通称で知られています観音寺は、平安時代初期の825年頃、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創後白河上皇は熊野三山の熱心な信者であったが、熊野の地は遠く参詣出来ない為永
大阪梅田にある兎我野町と聞けば、その付近を歩いたことがある人は、多くを語らず、だんまりしてしまうちょっとディープな歓楽街です。この場所、1300年ほど前には、弘法大師様が訪れて、当時あった森の中で異香を放つ霊木から地蔵菩薩と毘沙門天を刻ざみ草庵を結ばれたという超パワースポットです。更に、嵯峨天皇がその草庵の話を聞き、行幸され、ご自身の念持仏である千手観音菩薩を下賜された事にちなみ、その後、源融公が太融寺を創建されたという。。すっごい歴史深い土地であります。しかも創建時の太融寺の広さは、八丁四
今日は京都の大覚寺へ嵯峨御流の華道祭に行ってきました。道中から桜が花吹雪になってきれいでした。お教室の先輩と一緒に回りました。展示されているのは全国、世界中の嵯峨御流の司所ごとの作品。ズラーっと並んでいて圧巻です。御所車にお花を満載したのもあって、華やかでした。先生方の作品はsnsで写真を出してはいけないみたいなので、大覚寺の中庭の苔や枝垂れ桜、青紅葉を撮ってきました。先輩と大沢の池を歩きながら、嵯峨天皇が見られた景色を眺めます。ちょっと失礼を承知で言うと、嵯峨天皇はお花の大先
おはようございます。昨日、今年の葵祭の斎王代が発表されました。葵祭の第66代斎王代は京都市中京区在住の会社員松浦璋子さん(22)に決まりました。松浦さんは壬生寺(中京区)の貫主である松浦俊昭氏の長女で、祖父は同寺の長老・俊海氏。葵祭での十二単のお姿が楽しみです。昨年の斎王代https://news.yahoo.co.jp/articles/74a4451fd0b8cb0c59b6e38eda6a16a2f74a1de3*********************************
仁明天皇は叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位した。当初、淳和天皇の皇子・恒貞親王を皇嗣に立てたが、父嵯峨天皇の崩御まもなく恒貞親王は廃せられ、代わりに仁明天皇の皇子・道康親王(文徳天皇)が立太子した(承和の変)。これは父の意思が除かれ、自らの意思が反映されたもので、道康親王の伯父・藤原良房の思いでもある。藤原良房はこの頃から次第に権勢を強め、道康親王に娘・明子(アキラケイコ)を入内させ、第55代文徳天皇が即位すると、その年に産れた第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を皇
奈良時代から平安時代初期にかけて、藤原氏の系譜を辿ってきたが、ここで視点を皇族へ振ってみたい。本来であれば、起点を合わせたいが、天武系の第48代称徳天皇から天智系の第49代光仁天皇へ至るには系譜の揺り戻しがきついため、平安時代成立をもって、即ち第50代桓武天皇を起点に始めることにする。白壁王(後の光仁天皇)の第一皇子(山部王)で生母は百済系渡来人氏族の出身・高野新笠。山部王は皇族としてではなく、官僚としての出世が望まれ、大学頭や侍従に任じられたが、称徳天皇の崩御により父白壁
※この記事は妖怪談義です。鳥山石燕の妖怪画を読み解きます。今日は妖怪談義です。当ブログでいつも取り上げる鳥山石燕の妖怪画には、一見して妖怪の正体がわかりにくいものがありますが、その中には歴史的な伝承が含まれていたりもします。京極夏彦氏の小説に出てきた「鉄鼠(てつそ)」がそうですし、この「経凛々(きょうりんり)」なんかもその一つですね。詞書には「尊ふとき経文のかゝるありさまは、呪詛諸毒薬のかえつてその人に帰せし守敏僧都のよみ捨てられし経文にやと、夢ごゝろにおもひぬ」とあります
いろいろ書いてみた😆✌️空海『風信帖』『礼器碑』嵯峨天皇『李嶠雑詠残巻』欧陽詢『皇甫誕碑』王羲之『集字聖教序』『張遷碑』褚遂良『枯樹賦』『石鼓文』これにて、『臨書集Ⅴ(半切細字編)』〜無駄こそ人生の花〜おしまいです😆✌️次は何やろうかなぁ~~。半紙二文字ぐらいかなぁ~~~
「光る君へ」で道長から送られた和歌に、まひろが漢詩で答えるというやりとりが描かれていました。漢詩は男子のものという当時の常識をひっくり返すストーリーでした。文学ジャンルを越境することでジェンダーを越境してみせたわけですね。さてその常識はいかほどのものだったのでしょうか。岩波文庫に小島憲之選「王朝漢詩選」(1987年)というアンソロジーがあります。7~⒓世紀に創られた3000首以上の漢詩から170首を選んだものですが、巻末の作者小伝で数えると75名のうち3名が女性でした。
嵯峨天皇は光源氏のモデルとされる源融の父「源氏物語」では光源氏は晩年に出家しこの嵯峨院で数年過ごした
昨日、今日と冷たい寒い日が続いていますが皆さんお元気でしょうか昨日はお彼岸のお中日だったので、我が家では、ご先祖様におはぎを作ってお供えしました。暑さ寒さも彼岸までとは言われていますが、これから温かくなって行くのでしょうか?桜の蕾みもふくらみ、今か今かと自分の出番を待っている様です。桜と言えば、日本各地に桜の名所がありますが、地主神社にはちよっと珍しい桜があるようです。世界文化遺産と重要文化財|縁結び祈願京都地主神社(jishuji
説明板No.25朱雀院跡は、平安時代寝殿造りの代表的な宮殿。はじめ嵯峨天皇の離宮の一つ、のち宇多天皇が後院として使用、その後朱雀天皇も譲位後ここを御所として使用していましたが、950年(天暦4年)に焼失しています。この説明板があるのは、京都市中京区壬生花井町にある日本写真印刷中央研究所の敷地内。四条通りに面したフェンスの一部に透明な板があり、そこから覗く形になっています。また「朱雀院跡」と刻まれた石標もあります。<京都市による朱雀院跡の説明(石標の説明)>朱雀院は平安京左京三条・四条間の
NHKのあさイチで「篠栗の母」と紹介された祖聖大寺坊守(そしょうだいじぼうもり)真誠です。昨日、下界へ下ると八木山バイパス入口付近は桜が咲いていた。その流れで隣町へ行くと桜は一輪も咲いておらずビックリ‼️当山、桜春ですねー日本人は桜が咲くと心がウキウキ、毎年恒例の花見を楽しむものですね。この花見、日本で初めて花見をしたのは嵯峨天皇とネットに書かれていました。お大師さまと嵯峨天皇、国家安泰人々の平穏を願い、共に同じ志を持って平安の世を築かれました。お花見は平安の世をあらわしている
藤原仲麻呂の乱で左遷された豊成が右大臣に復帰し、息子継縄(ツグタダ)も急速に昇進した。桓武天皇が即位すると、同じ南家の従兄弟・藤原是公と共に重用され、是公の死去により太政官の筆頭の地位に就いた。継縄の妻が百済系渡来氏族出身(百済王氏)であったため、同じく百済系渡来氏族出身とされる高野新笠を母とする桓武天皇からの信頼が厚かった。百済王(クダラノコニキシ)明信を母とする乙叡(タカトシ)も桓武天皇の身近に仕え、急速に昇進した。第51代平城天皇の即位で中納言に昇進するも、その
橘諸兄(モロエ)は、天然痘の流行によりいっきに太政官の主管に躍り出る。なお、弟佐為(サイ)は天然痘のため死去。諸兄政権では、遣唐使での渡唐経験がある吉備真備、玄昉や藤原氏以外の氏族を抜擢したことで、藤原氏の反感が募る。孝謙天皇(女帝)が即位すると、光明皇后の威光を背景に藤原仲麻呂(武智麻呂次男)が台頭し、子息奈良麻呂の謀反容疑もあって辞職した。奈良麻呂は諸兄の没後間もなく、藤原仲麻呂を滅ぼし天皇廃立を企てたが、密告により露見、未遂に終わった。世に言う、橘奈良麻呂の乱。以後、
24.03/10sun.07:25-20:15(西梅田発着)金倉寺76番から西に県道25号線、左折して南南東に右向こう、JR土讃線に並行していて善通寺駅を手前、右折五岳山、近づいて左折駐車場に向かい、左折前回、東院伽藍南大門まえに下車今回、駐車場から西院誕生院から東院へ往々にして駐車場から(山門見ずに)本堂へ…出来れば、山門から本堂へ参りたい南大門から右に、五重塔正面、本堂本尊薬師如来に納経東側に、釈迦堂や赤門南大門の大クス五社明神の大クス佐伯善通
こんにちは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ今日も前回に引き続き、『藤原薬子』の物語の続きです安殿親王はもともと病弱で精神的にもろいところがあり、年上で美貌の薬子に頼りがいを感じ、精神的にますます薬子に依存し、彼女にとらわれていきました薬子も親王に寵愛され、宮中の華やかな生活を経験すると元の生活が平凡に感じられるようになり、出世したい薬子の兄、仲成と思惑が一致して、なんとか親王のもとに戻る機会をうかがっていたのですそしてついに806年、二人を引き離した桓武天皇が亡くなり、安
2024年3月7日間もなく2年になる京都生活(仕事です)。その2年、京都からよく眺めていた【伏見桃山城】こちらから眺めているだけで、実際に行った事はまだないっ…………ってな訳で。この日は【伏見桃山城】を目指してココロはひとり歩く事としたひとり京都勉強会シリーズ、略して『京勉会』はこの2年で回数を重ね、今回が22回目となるしかしもちろんすんなり【伏見桃山城】へ行くわけではないココロが降り立ったのは、京阪電車「藤森駅」まずは、ひとつめの目的地を目指しててくてく歩き始めた……………
光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子・源融の邸宅跡光源氏の邸宅「六条院」のモデルのひとつといわれる。
こんばんは・・(^_-)-☆今日の奈良は二度寝から目覚めると7℃と寒いが夜に入って、またあさのきおんに?。生ごみを出して帰るも玄関の迎えがありませんでした。マリア猫は、なぜかこの頃は押し入れで寝ているようですね?だけど、私が布団から出て呼ぶと私の布団の上で眠ります。夜のえさを食べて、押し入れでまた眠り始めました。注射の薬が効いる間はいいが、やっぱり効果が切切れると痛みが?・・一昨日の午後に注射を打つのではなくて点滴でした?薬を変えて、少し効いている
(画像はsankei.comより)嵯峨天皇は弘法大師のお勧めによって、疫病退散祈願のため、自ら『般若心経』を書写されました。その霊験により、たちどころに多くの民衆が救われたと弘法大師がお書きになられた『般若心経秘鍵』にしるされています。以来、歴代天皇の写経が、嵯峨天皇ゆかりの寺・大覚寺へ奉納され、心経信仰は全国へ広まりました。心経信仰の象徴である嵯峨天皇のお写経は勅封心経として大覚寺心経殿にお祀りされており、大覚寺が『心経写経の本山』と呼ばれる由縁となっています。大覚寺HPより平安時代に
旧嵯峨御所・大覚寺。平安時代に嵯峨天皇の離宮として建立されました。光源氏のモデルともいわれている源融(嵯峨天皇の皇子)も、ここで時を過ごしたのでしょうか。日本最古の林泉式庭園は、桜の時期も綺麗春の京都、源氏物語をテーマにお散歩しませんか。
昨日は失業保険の認定日でした。梅田に行ってハローワークで申請して帰り道はウォーキング。キタの繁華街、阪急東通り商店街を抜けて北上すると、網敷天神社があります。この辺りはワタクシが女子大生なぞをしていた頃よくウロウロしていた場所なのでこちらの神社があったことはかなり前から知っていました。この近くでバイトもしていたため一時毎日近くまで来ていましたがお詣りしたこと、なかったかも・・・(いつものパターン)と言う事で出会ってから30数年かかりまし
前回のブログでも記載した通り三筆「嵯峨天皇、空海、橘逸勢」に関する先生のお話をチノポス・書道史に沿って御衣黄の覚書から、記します。*詳細が気になった方は著書やYoutubeを探して拝見してくださいね。因みに、題の日付は学んだ日です。よろしければ、お付き合いくださいませ。参照youtube「超速!日本文化史の流れ~書道史~」「竹内の書いて覚える~書道史篇~」・橘逸勢と空海の出逢い二人は、同じ遣唐使船に乗っていた。共通の趣味(書道)を持っていた為、馬