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最近時々このブログを読まさせていただいていました。『愛ちゃんの番』という言葉に引っかかっていました。「おばさんに頼んだ」、とか何かおかしいな、と。その日はこの記事だけ読んでいたのですが、その後、お亡くなりになっていたのを知りました。ご冥福をお祈りします。コメント欄に同じようにご家族を亡くされた方の体験が書いてあって、世の中には大切なご家族に先立たれて辛い思いをしている方がたくさんいらっしゃることを知りました。きっと乗り越えられる。乗り越えずともいつか傷が癒える時が来る、癒える
心理カウンセラーの藤木ミホです。カウンセラーを目指す方は、講座などで訓練を積んでいくと思います。その講座の訓練以外にも、将来のカウンセリングの仕事を見据え、自主的に訓練に取り組まれる方も多くおられます。私は、そんな方々に、「探偵ナイトスクープ」というテレビ番組の視聴をおすすめしています。ただ視聴するだけの受け身な方法と思われるかもしれませんが、確実にカウンセリングの仕事に役立ってくれるのです。そのようなことから、当ブログでは、これまでにも探偵ナイトスクープからの学び
息子が亡くなってから3ヶ月になる。主人が、眠剤を飲むようになった。夜寝付けない、よく眠れない、という。子どもを亡くした夫婦は、この世の中にどのくらいいるのだろう。子どもを看取った夫婦は、どのくらいいるのだろう。息子は、1年は持たない、元気でいられるのはあと3か月程、と余命宣告を受けてから、4か月後に亡くなった。医学的な統計の正確さに今となっては驚くばかりだ。元気でいられる、と言われた3か月は、本当にふつうの生活だった。在学していた大学を癌治療のため2年間休学したのち、退学していた息
私も息子が気管挿管する、しない、という病状の時、亡くなったら息子のお葬式はどうしようとか、息子の障害年金のこととかを考えました。最悪のことへ自分なりに対処しようと身構えたんだと思います。今でもスローモーションでその時の様子を思い出します。しかし、息子を失うことを受け入れることはできないと瞬時に思い、そんな現実に向き合うこともできないと、それらの考えをシャットアウトしました。あの晩は、いろんなことを目まぐるしく考えて、混乱したし、茫然としました。息を呑む、とか、息が
警察官2人と家に戻ると、父の普段の過ごし方や趣味や昨夜の様子を聞かれました。警官は家の中の防犯や窓をチェックし、父が通院していた病院の診察カードを持って行きました。生前は〈変な人〉だった父が死んで〈変死体〉になり…父が運ばれた警察署に監察医が来て死因を調べるのですが、時間は読めず連絡を頂く事になりました。第一発見者である私がヤっていない事が証明されたら良い訳で父の死因に興味はありませんでした。母や猫達、生きている人優先で行こうと思いました。いつもと違う
母には、やはり知らせようと思いました。ほぼ毎日お見舞いに行っていたし、私の乳ガンは伝えていないので、手術と入院で3日間行かないと母が心配すると思いました。父を骨にした後の雑用を済ませていた事にして入院をバレないようにしようと思いました。母に父の死を知らせた直後、目を見開いて静かに驚いていました。やがて落ち着き、母は残念だったような事を言うので、私「お父さんがまた元気になってもどうせ性格悪いままじゃない」母「それもそうね」私「今まで十分尽くしてきたじゃない。お
夫が逝ってしまってもう5日も経ってる…。早すぎる。家に戻ってきた夫に、おはようと挨拶して、愛犬を膝に乗せて朝のお勤め。夕御飯は、夫の大好きな豆ご飯をお供えして、また愛犬と夜のお勤め。今日は一番搾りと梨もお供えした。息子たちも朝夕手を合わせている。今日1日何もしないでおこうと決めたのに、電話でできる手続きをしたり、施設に預かってもらっていた保険証関係を引き取りに行ったり、どうしても動いてしまう。息子たちに、休めて❗と怒られた。午後から横になって、ぐったりしてしまって
帰りの電車の中、携帯を見ると着信やメールの表示がありました。母が考えなしに大阪の伯父や神戸のお喋りコブラに連絡してしまい、心配した伯父とコブラが連絡をくれたのでした。私ひとりで父の火葬を済ませる事、参列も香典も要らない事を返信しました。心配して頂けるのは有り難いのですが、私の治療もあり、ややこしくなるのは避けたいです。冷静に考えて『母を信頼するのは少し難しくなってきたかな』と、思いました。…それならそれで、母をサポートすれば良い訳で。辺りはすっかり暗くなり
息子が亡くなって6か月。桜の咲く季節になった。わたしは相変わらず、息子の記憶に蓋をしている。息子のことを思い出さない日はない。目に入るものからすぐに息子のことが蘇る。でも、あの時は、と記憶に思いを込めていくと、苦しくなってしまう。急に涙が溢れる。日常の生活に戻るために、蓋をする。日に何回も蓋をする。こんなことをしていては、息子の記憶が無くなってしまうのでは、と心配になる。それはいやだ。でも、いまの私は心穏やかだ。もう1人の息子が、「人も死んだら、ただ、無にな
はじめまして。繊細の天才さん、くらげ(♀)です。自分で自分のこと、繊細の天才、と呼ぶのは小っ恥ずかしいのですが、恩人がそう形容してくれた事が嬉しかったので、『くらげのアイデンティティなのね』と温かい目で見ていただけると嬉しいです。先日書いたこちらの記事で、『ローランドショーにハマってずっと見てる自分に虚しさを感じる、そんな日もあるさ』資格試験のために勉強しなきゃなんですけど、ずっとローランドショー見てます。よいちょーヘタレメンタルですぐ疲れちゃうそんな自分の癒しは今までジャニーズ
自死した母は、治療を頑張って生きている人達から反感を買うだろう。何故なのか、苦しみから逃れたかった…すべてどうでもよくなった…本当のところは、母にしかわからない。だから、答えも永遠にわからない。こうしていたら、あーしていたら、死ななかったのかもしれないと、母の周りの人間は、家族も含め苦しんでいる。子どもや、沢山の孫達の成長を見たいと思っていたはずなのに。究極に自分勝手な行動をしたと、母を責めてしまう時もある。喪中ハガキが届くこの時期、母の喪中ハガキを作ったのを思
父の看とりは私と母でした。最後を迎えたのは県病院の内科病棟で、建物も新しく見晴らしのいい個室だった。ギリギリまで家にいて、もう入院した方が…と言われて2ヶ月がんばった。敬老の日は、お寿司が食べたいとリクエストされて、お寿司やさんでテイクアウト。美味しいと喜んでくれた。それから1ヶ月ももたず、逝った。そろそろ危ないと病院から連絡が入り、私と母は寝ずの番で病室に泊まった。父はもう意識がなくなり、ただ機械的に呼吸をしていた。その呼吸がパタッと止まり、お別れの時が来た。
救急車はY病院に到着しました。院長らしき年配の男性医師が少し眠たそうに診察室に現れ、診察台に横たわる父を確認し、死亡診断書が出ました。医師の見守る中ではなく、自宅で亡くなった場合法律上、変死体となります。暫くして、警官が2人きて、父は警察で死因や事件性を確認する為に運ばれて行きました。父を救急車に乗せる時、救急隊は、私に家の掃除をさせなかったようにしたのはこの為だったと分かりました。父が運ばれた後、私は診察室に1人になりました。2日後の乳房全摘と、母に父の事を
家に着いて、やるべき事を書き出しました。喪服や小物を出して、乳ガンの入院&手術の用意も進めます。私より早く喪主を経験したお友達のアドバイスもありお金をかけないよう棺の花は持参にしました。翌日の朝一で、顔見知りの花屋にお願いしました。私「どうせ直ぐ燃やしちゃうので開いたお花でお願いします」。母に会いに行くと、母は昨日の夕食中、突然、気を失い食事が喉に詰まりかけた報告がありました。何か一瞬の隙を突かれた気がしました。それ以後、母の食事はドロドロしたものに変わりまし
斎場に向かう途中、お願いしていた花を花屋で受け取りました。花屋「丁度いいのがあったから、お花、多めにしましたよ」と、大きな紙袋を渡して下さいました。父方の親戚に連絡すると日程の調整が始まるし、私の術後の体調が読めないので連絡せず、事後報告にしました。火葬の炉のゴーという音は人生の果てを表しているようでした。炉の扉が閉まり『あぁ終わったんだな』と思いました。父にはもう10年早く亡くなって頂き、母を自由にさせて上げたかったです。人生を楽しんでいる母の笑顔を見たかっ
午後3時前に警察署に来るよう連絡がありました。お電話を頂いた時「何か持って行く物はありますか?印鑑は必要ですか?」と聞くと警官「印鑑は要らないです」と言ったのに、警察署に着くと、少年マンガに出てきそうな大きな体をした警察官が謝りながら警官「すみません。ハンコ要るそうです」。この日、監察医は3件の依頼があり、都内を飛び回っていたそうです。これまた少年マンガに出て来そうなほっそりしたキャラの強い監察医で静かな口調で説明が始まりました。父の背中から特殊な針を刺すと心臓の
母と兄が一緒に2人で決めていなくなる。を経験して。美しくかっこよく生きることをやめました♡これまでは仕事柄こうあるべき。が強くてとくにネガティヴなわたしを控えていたのですが病気に、なってたくさんの患者さんたちの人生を垣間見てそこにかかわる医師や看護師や検査技師の皆さんのアドバイスによって生きるとは死と紙一重であり命ある限り真実に沿ってあるがままの有り様で生きることが生きる真実なのだと気づけました✨私の母と兄は突然2人で生きることをやめると決めて2人