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茶室について書きたいことは山ほどありますが、一寸方向転換した話題を。東京の茶の湯が京都に比べて、どうもかなわないという感じは、茶室だけでなく、他にもあります。その一つが家元の存在です。何しろ京都には、三千家と藪内流という最も古い伝統を誇る家元が鎮座しています。どうしても京都はお膝元で、東京は出先、出張所という感じです。勿論、東京にも家元は存在しています。でも、三千家や藪内家が、四百年近い昔から、一度も動かず、今の場所に居を構え、長い伝統を誇っているのに対し、東京の家元は流祖から
ということでお年始に家元宅へ。今年コーヒー二杯の次に飲んだものはビールでした。そして初めて食べたものは数の子。この日、たくさんの数の子を食べました。数の子が大好物なんだと知った一日でした。松永流では例年の「松永会」演奏会の話題に加え、六月に長崎での「おさらい会」の話を。色々話しあっている間に家元が漠然と思ったことなどが形になっていきます。そうやって松永は進んで行ってます。お年始に来てくださった喜三郎さん、勝三郎さんなどが加わると長唄界の話しとなります。興味深い話もたくさ
京都の華道の家元「池坊」で、門下生たちが上達を願って花を生ける、新春恒例の「初生け式」が行われました。室町時代から続くとされる「池坊」の「初生け式」には、全国各地から800人余りの門下生が参加し、はじめに若手の34人が華道発祥の地とされる京都市中京区の六角堂を参拝しました。このあと、門下生たちは隣にある道場に移動し、バラや南天などを思い思いに生けていきました。そして、次期家元の池坊専好さんが作品を見てまわり、花がきれいに見える向きや空間の使い方などについてアドバイスしました。
【僧侶としての経歴】江戸時代に囲碁の家元筆頭であった本因坊の初代・本因坊算砂は、もともと京都の顕本法華宗本山・寂光寺の二代目住職であり、元の名は本行院日海と言った。『本因坊』とは日海が寝泊まりしていた寂光寺の塔頭の名称で、本因坊算砂と名乗ったのは、江戸幕府成立後、江戸へ出向くようになってからである。碁打ちとして頭角を現す前の算砂の半生は不明な点が多いが、永禄2年(1559)に京都の舞楽宗家・加納與助の子として生まれ、幼名は與三郎。8歳の時に叔父で法華宗の高僧の久遠院日淵の門に入り日
そういえば、お師匠様から聞いたのですが、今年、わたくし東京支部の2脇で成績一等賞だったとのことそして3年連続の年間優秀賞これって、家元賞貰えるんだっけ兎にも角にも、お師匠様わたくし頑張りました〜でへ
「石州流盆石(せきしゅうりゅうぼんせき)の世界」第二回展「盆石」とは黒漆塗りのお盆に、自然石や砂を用いて風景を表現する伝統芸術。約千年の歴史を持つ盆石の諸流のひとつ、五百年の伝統を誇る「石州流盆石」の作品展をギャラリービブリオにて本日まで開催します。八世家元・淺井涛子氏と社中(直弟子)による盆石作品の展示と「席打ち」(その場で作品を作る)の披露も。「地元国立のみなさんに、ぜひこの伝統芸術を身近に感じていただければ」と語る八世家元・淺井涛子先生は国立在住です。来年は、有楽町の
算碩の墓(寂光寺)※妙法の左下算碩日傳慶長17年(1612)に江戸幕府は、有力な碁打衆、将棋衆8人に俸禄を与えている。それまでは碁会が開催される都度日当を支給していたのであろうが、それを扶持という形に置き換えたようである。俸禄の内訳は次の通りである。五拾石五人扶持本因坊五拾石五人扶持利賢五拾石五人扶持宗桂五拾石道碩弐拾石春知弐拾石仙重三拾石六蔵(安井算哲)弐拾石算碩俸禄を与えられた碁打ちの中に算碩という人
これまで表千家の家元の花押を整理してきたので、これからは裏千家の番裏千家の家元を4期に仕訳したとして、その3期は、6代から11代まで六閑斎最々斎又玄斎(一燈)不見斎認得斎玄々斎(精中)ということで、この6代の家元の書付・花押を整理すると、裏千家の場合、花押は各代でかなり違っていて、見間違うということは少ない。似ているものとしては、6代六閑斎の花押である、これと8代又玄斎(一燈)の花押6代六閑斎の花押の花押としては結構よく見かけるもので、蓋の部
昨日、夕方にクラス分けテスト終わりました。お疲れさん会を焼肉屋さんでやったのですが、娘の様子がイマイチ問題・解答用紙(コピー)・解答解説を頂けたみたいで、帰宅後⭕️つけ国語はまぁまぁだったのですが、算数はどうした⁈という結果でした。クラス分けテストの結果は、なんと!初回授業日に発表されますちょっと遅いなーと思いつつ、まっいっかそれよりも、娘の解答用紙をみて、私のタスク検知機能が発動し、楽しくなってきています。私が。何の勉強を組み込むかな〜次の対策を考えるのが好き
この日は、1人で。一条流がんこ総本家分家四谷荒木町@四谷三丁目純正上品(塩)1100円味玉100円青唐辛子100円私がもっとも好きな系統であるがんこ系。こちらは、創始者である一条安雪家元の引退を機に、2020年4月から一緒にやっていたお弟子さんの後藤氏(元がんこ目黒店(既食・閉店)店主)が引き継いだお店。2022年4月のオープンです。ちなみに、トウキョウラーメンオブザイヤーでは、名店塩部門10位、MIX部門5位、百名店にも選出されています。2年前に、濁ったスープの100
表千家の家元を4期に仕訳したとして、その4期は、12代から15代まで惺斎即中斎而妙斎猶有斎ということで、この4代の家元の書付・花押を整理すると、宮帯出版社の茶道実用手帳には家元の情報がまとめられているが、上記一覧は、書付・花押のなかで使用頻度の多いものだけ。表千家の家元のなかで、4期の家元は、使う花押が比較的決まっているようで、先ほどの茶道実用手帳にある花押をすべて覚える必要はない。多く使われているものを挙げると、惺斎は、田
先日、ご挨拶にいらして下さいました!啓子さんです。おうちのご事情で一年近くお稽古に通えずにいらっしゃいましたが、落ち着かれたとのことでご丁寧にごあいさつにいらして下さいました。初めてお会いした時に、目がとても綺麗なお方だなぁと思ったのですが、一年ぶりにお会いして、うるうるした大きな目を拝見して同じ様に思いました。椿の帯に紅い衿もと、バック写を撮らなかったのが残念でしたが、お髪には紅い椿のかんざしを挿していらっしゃいました。冬はお洋服もお着物も暗めの
林家の六世林門利門入は五世林因長門入の門下で、元の名は岡田門利。常陸国出身で甥に井上春達因碩がいる。元文元年(1736)に因長門入の跡目になり御城碁へ出仕。寛保3年(1743)には名人碁所就位願いを出した因長門入が断念に追い込まれ隠居したため、家督を継いで六世林門入となる。しかし門利門入は当主となって3年後の延享3年1月29日(1746年3月20日)に亡くなり、跡は16歳の実子、転入が継いでいる。
TOP│小唄・端唄|小嶋勇鶴オフィシャルサイト端唄小嶋流家元小嶋勇鶴のオフィシャルサイトです。小唄、端唄、三味線の演奏やお稽古を行っています。出演依頼、お稽古ご予約はこちらのサイトからお願いします。kojimaryu.com本日1本目のYouTubeは、三味線楽譜です。「梅は咲いたか」の楽譜をアップしました。弾きやすい曲ですので、是非チャレンジしてみてくださいね!!↓YouTubeチャンネル登録お願いします!TOP│小唄・端唄|小嶋勇鶴オフィシャルサイト端唄小嶋流家元小嶋勇
中澤弘幸さんも昨夜は、たまたまこんな座談会に呼んで頂き参加しました。(↑写真は前回で僕はいません)ちなみに、中澤弘幸さんとはこんな方。もう、凄すぎてよく分かりません。近年の活動は、まるで大河ドラマを見ているかのよう。老人と孫老人と孫というタイトルへの想いは、大抵の昔話とは「昔々あるところにお爺さんとお婆さんと」と、老人と孫が主役で、お父さんお母さんは全然出て来ない、何故か?遺伝子とは隔世遺伝という言葉もある通り、孫に受け継がれていく。親子とはすぐに揉めたり仲が悪くなっ
福崎町高岡応聖寺様でいけばな光風流をお稽古している生徒です。12月で光風流いけばなを退会する生徒です。今日でブログも最後の日と決めました。家元先生のブログも一緒にUPしていました。たくさんの「いいね」ありがとうございました。私のブログはお別れです。今日はお友達の車で林田町のお店に食事に行きました。お風呂の「ゆたりん」で湯に入ってきました。幸せな一日を過ごしました。お家元のブログです。内藤正風のブログHOME内藤正風のブログ内藤正風▼・内藤正風のお奨めいけばなの家元が
【本日から営業開始!】年末年始も仕事をしていたんで、僕にはあんまり関係ないんですが、今日から営業を始めました!そして、やっと届きました!フリース素材の作務衣!今年は半纏の販売を強化する為、毎日、半纏を着ているんですが半纏に作務衣だけだと寒いんですよね。なので、ニッカポッカを着る様にしたんですが、Tシャツ屋を辞めて現場仕事に転職したと噂をされてしまい、悩んだ末にみつけたフリース素材の作務衣!暖かいのでインナーダウンを着る事なく、Tシャツに1枚でもOKです!やっぱり家元を名乗るなら
久田流(両替町久田)の話をと思いながら、つい高倉久田(表千家脇宗匠)の話になってしまいましたが、このニ家はどちらも半床庵の庵号を名乗っていて、紛らわしいのです。さて、久田家5代で、両替町に住んだ厚比斎宗玄の跡は、何故かずっと養子を続けながら、幕末を迎えます。10代家元の時、元治元年(1864)の兵火で、両替町の家を焼失し、維新の混乱による茶の湯衰退期も重なり、11代宗有は、大阪、東京と居を移し、12代宗円は各地を流転し三重県四日市で客死したといいます。若かった13代宗栄は東京に移り、戦
福崎町高岡応聖寺様でいけばな光風流をお稽古している生徒です。12月31日大晦日の日です。私のいけばな光風流をお稽古していた最後の日となりました。光風流を退会するのでブログはほんとに最後の日となりました。いけばなの思い出はいっぱいあります。楽しかったこと。苦しかったこと。優しかった講師先生のこと。いけばなと家元先生副家元先生とお花の勉強したこと。ブログのお友達がたくさん出来たこと光風流ブログも長年に高齢ですが頑張りました。今日で最後の日退会します。お家元のブログです。内藤正風のブロ
表千家の家元を4期に仕訳したとして、その3期は、6代から11代まで覚々斎如心斎啐啄斎了々斎吸江斎碌々斎私はふざけて、「中シックス」と読んでるが、それはともかくということで、この6代の家元の書付・花押を整理すると、宮帯出版社の茶道実用手帳には家元の情報がまとめられていて、書付・花押も一覧できるように記載されているが、その結果、情報量が多すぎて覚えられない。上記一覧は、書付・花押のなかで使用頻度の多いものだけにした。少し補足す
茶道具を求めようとするとき買い方としては、予算よりもまず使い方というか使うsituation(シチュエーション)が重要簡単にいえば、自分で使うのか、誰かお客様にお出しするのかお客様は、お茶をなさっている方なのか目上のお偉い方なのか仕事上の関係があるのかそれとも、単なる友達、ご近所の方なのかそれによって、全く違ってくる。私も、最初は、予算重視というか、兎に角、ある程度使える道具を安く揃えることだけを考えて、買っていた。ところが、いざお客様にお茶を差し上
こんにちは☀今日は、15時までお花屋さんで働いてました🌼すっごく可愛いラナンキュラスが入荷していて、テンション上がりました😌先日の池坊の花展の様子をレポしますね😇1日目は、次期家元のご巡視があり、わたしの作品について簡単に講評して頂きましたわたしの作品は未来・花のブースに展示されました正面から右斜め前から左斜め前から胡蝶蘭の花言葉は「幸せが飛んでくる🦢」なので、未来に幸せが飛んでくることを願って、胡蝶蘭をメインのお花に選びました🌝花器は写真は濃い紫に見えますが、実際はもっと透
本日も文中、敬称は略で失礼を。今後は一々お断りはしません。江戸千家は7代蓮々斎が江戸(東京)に戻り池之端に居を構えた頃は、正直、知名度は低かったと思います。明治大正の茶道界では、浜町さんと呼ばれた川上宗順、石塚宗通、大久保北隠、式守蝸牛、辻宗謙など、不白系の茶人が活躍しています。宗順は馬越化生や益田兄弟など多くの数寄者を教え、宗通は岡倉天心との交流が有名です。北隠や蝸牛は今に続く東京茶道会を立ち上げたメンバーで数寄者との交流も深く、宗謙は正木直彦(東京美術学校長・帝国美術院長)の師で有名で
京都の花街で、新年を迎えた芸妓や舞妓が芸の習得と上達を誓う「始業式」が行われました。花街の1つ、京都市東山区の「祇園甲部」の歌舞練場で行われた始業式には、黒紋付きの正装で正月用の稲穂のかんざしをつけた芸妓や舞妓およそ80人が集まりました。芸妓や舞妓たちははじめに全員で「祇園の伝統を誇りとし、心の修養に努め、伎芸の習得に励みましょう」などと誓いのことばを述べました。記事以下↓https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250107/k100
今回ご紹介するのは、『藤間爽子(さわこ)』さんです。この投稿をInstagramで見る藤間爽子(藤間紫)(@fujimasawako_official)がシェアした投稿藤間爽子さんは女優さんだけではなく、舞踊家としても活躍。三代目『藤間紫(ふじまむらさき)』として日本舞踊紫派藤間流の家元も務めるスゴイお方なのです。そのうえ笑顔もとっても素敵な藤間爽子さん。私は藤間爽子さんの魅力