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さてさて…………………【後朱雀天皇圓乗寺陵】【後冷泉天皇圓乗寺陵】【後三条天皇圓乗寺陵】の参拝を済ませたココロ。再び【後朱雀天皇皇后禎子(ていし)内親王圓乗寺東陵】に戻ると、その奥に次なる目的地である「天皇陵」への入口があるきちんと整備された石段の参道があるあれっ以外と参道が長いなあ『宮』宮内庁の意味かなあれっまだまだ登ります………………ハアハアちなみに誰一人として、人は居ない。薄く見える目的地の石標やっと見えてきたぞーーーーーーっもう少しださすがに
天皇家に限らず古代日本が大陸と密接に関係してることなんて、ごくごく当たり前のことです。今更「なんか余計なことが分かったら困る」なんてことはありません。逆に「天皇家は大陸とは何のかかわりもない」と言い張る人間がいたら、そいつのほうがどうかしてますよ。だって、すべての日本人の先祖は全員、大陸のどっかから渡ってきたんですよ。遅いか早いかだけで。そういうことじゃあないんです。天皇陵ってのは信仰の対象物であって、考古学的な研究対象ではないんです。あなたは、神社の御神体を放射線検査にかけて「神様な
第94代後二條天皇北白河陵即位西暦1301年退位西暦1308年皇位年数7年鎌倉時代の天皇陛下やけど、幕府中心尚且つ院政真っ只中なんで、よく解らん御陵印所在地それにしても、京都大学農学部の東側にあるこの御陵。竹村玉翠園と吉田チキンの向かいにあるのに、余りにこぢんまりし過ぎてて、今までその存在すら気付いてなかった
第68代後一條天皇菩提樹院陵即位西暦1016年退位西暦1036年皇位年数20年御陵印所在地平安神宮でお馴染み『岡崎エリア』のすぐ北側で、周辺には、黒谷さん(金戒光明寺)、真如堂、そして陽成天皇陵がある。
実は今やっている朝ドラ「虎に翼」見てなくて・・・でも評判めっちゃいいじゃないですかなのでNHK+で初回から15回分、今なら見れるんです、見ました、一気に15話確かになんかスカッとする!ヒロインの伊藤沙莉がいい!この子、「ひよっこ」の米屋の娘の時からなんかサバサバしてよかったのよね!他にも気になる共演者がいっぱいで面白かった~うん、毎日は大変なのでNHK+で追っかけながら見ることにしますそれと「光る君へ」毎週終わりの次回予告が上手いんだわ、気になって今週の内容吹っ飛ぶ
百舌鳥古墳群の大仙陵古墳を第16代天皇の仁徳天皇陵と比定したのに続いて、ニサンザイ古墳を第17代履中天皇陵、田出井山古墳を第18代反正天皇陵と比定しました。次に、第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御陵についてみていきたいと思います。改めて古墳の築造年代と歴代天皇の崩御年を掲載します(図表1)。■図表1古墳築造年と歴代天皇の崩御年(筆者の見解による)允恭天皇は私が倭の五王の「興」だと考える天皇です。履中天皇(りちゅうてんのう)・反正天皇(はんぜいてんのう)の同母弟と
さてさて………………【龍安寺(りょうあんじ)】京都府京都市右京区龍安寺御陵下町13有名な【石庭】を見ることも【龍安寺】に入山した目的であったが、ココロにはまだ他に大切な目的があった。それは、【庫裡】の横をすり抜けていくような場所にあった………………前回、受付まで来た際に個人タクシーのドライバーさんに『天皇陵は【龍安寺】に入山しないと参拝出来ないですか』って質問したが………『う〜ん、ちょっと分からないです💦』って答えだった『皇陵墳墓の参拝以外通行禁止龍安寺宮内庁』さっきまで、多
さてさて…………………【大豊神社御旅所】【大豊神社】を出発した我々は、次なる目的地へと向かう………………昨年春は、【大豊神社】から再び『哲学の道』を歩いて引き返したので、ここからはココロ初めての場所が続く。この日の目的地のひとつも案内にあるここからは初めて歩く『哲学の道』桜が咲いた時の美しい風景を思い出すしかし、静寂な雰囲気もまた良いおっ次の目的地が見えてきたぞーーーーっ到着したのは………………【冷泉天皇櫻本陵】京都府京都市左京区鹿ヶ谷法然院町宮内庁上の形式は円丘。
さてさて…………………【まるか食堂】にて、至福のランチタイムをとって元気モリモリのココロは、次の目的地へと向かって歩いた…………………【開田城跡の土塁】歩いていると、史跡に出会う【八条ヶ池】この【八条ヶ池】の向こうに【長岡天満宮】が鎮座する。『天下分け目の天王山⑪〜長岡天満宮〜』さてさて…………天下分け目の【天王山】を出発した我々は、次の目的地に到着した…………到着したのは…………【長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)】京都府長岡京市天…ameblo.jp【長岡天満宮】のココロ過去
緊急事態宣言が出て、今月のツアーは中止に。今日は日本で最初のコロナ感染者が見つかってから一年だそう。ここまで生活が変わるとは、ここまで長引くとは…誰も想像もできなかったな…まだまだ先は見えないけれど、希望を胸に、春のツアーの企画を立てています。今春、訪問したいスポットのひとつが嵯峨天皇陵大覚寺の北西の山に位置しています。なんとなくの場所は知っていましたが、訪問したことはなく、10年間、ざっくりとあの辺りの山の中でやり過ごしていました…ごめんなさいでも昨春〜夏にかけ
折角京都に来たのだから、京都の面白い地名を巡ってみます。地下鉄の御陵駅近く、山科区にある「日ノ岡ホッパラ町」へ。掲示物で隠れちゃってますが、ローマ字で「Hoppara-cho」と書かれているのは見えます。ホッパラ町の近くにある九条山(くじょうやま)には刑場があって、そこで斬首刑となった罪人の遺体を原っぱに埋めるために土を掘ったことから「掘原町」という名前がつき、それが「ホッパラ町」に変化したそうです。続いて、そこからJRをくぐって南東に行ったとこにある「御陵血洗町(みささぎち
第74代鳥羽天皇(とばてんのう)御陵名:安樂壽院陵(あんらくじゅいんのみささぎ)御父:堀河天皇御母:贈皇太后苡子陵形:方形堂所在地:京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町白河上皇が造営を始めた鳥羽離宮は、鳥羽上皇に引継がれて壮大な離宮として完成し、後白河院政期に至るまで政治の舞台となった。鳥羽離宮の東側には、鳥羽東殿と称される安樂壽院は、保延三年(
2023年11月の国宝を巡る旅、3日目の25日は奈良市内の天皇陵を巡りました。写真は正倉院前から望む紅葉の東大寺大仏殿です。朝、奈良市内の宿を出て近鉄奈良駅近くでレンタサイクルを借りて向かったのは、約5km西にある第11代垂仁天皇陵。垂仁天皇は、実存の可能性が認められる最初の天皇である第10代崇神天皇の子で、父君の崩御後、即位されました陵の濠は、ため池のように大きく、周囲の田園風景と一体化していました。次に向かったのは、1.5km西にある第20代安康天皇陵。安康天皇は、仁徳天皇
2018年6月に龍安寺と一条天皇陵を訪れた時の記事になります。一つ前の記事で仁和寺に行ったときのことを書いていますが、仁和寺を出た後龍安寺にも立ち寄ったのでした。嵐電の御室仁和寺駅の二つ隣が竜安寺駅なのですが、電車に乗らなくても歩いて行ける距離なので体力がある方は良ければ二つのお寺を徒歩で回ってみてください。そんなに難しい道じゃないですし。禅苑の名刺、大雲山龍安寺。その創建は宝徳二年(一四五〇)、足利将軍の管領職にあった細川勝元が、徳大寺公の山荘を譲り受け、妙心寺第五世の義天玄承(詔)禅
安徳天皇御陵墓西市御陵墓(参考地・宮内庁)(にしいちごりょうぼ)第81代安徳天皇(あんとく)所在地:山口県下関市豊田町詳しくは安徳天皇で検索~本当はここ、安徳天皇の御陵墓に行く予定は全く無かったのです。(存在すら知らなかった)前に紹介した元乃隅神社に向かっている途中に助手席から、何気に左側をボーと見ていたら”安徳・・陵・・”みたいのが見えたような・・??でも”下関の赤間神社のところのはず・?あの、耳なし芳一の~”と思いながらも瞬時に脳
11月30日、休日は京都の<imgwidth="16"height="16"class="emoji"style="aspect-ratio:16/16;"alt="車"src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/125.gif"><img
第76代近衛天皇(このえてんのう)御陵名:安樂壽院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)御父:鳥羽天皇御母:皇后得子陵形:多宝塔所在地:京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町鳥羽法皇が離宮内に、墓所として設定した場所で、この三重塔は、鳥羽天皇の皇后美福門院(得子)の墓所として用意されたが、美福門院は遺骸をここに葬られることを拒否し、高野山に埋葬
京都の東福寺にある月輪陵墓監区事務所にて御陵印を頂いてきました🎵綺麗に整備されたところでした✨月輪陵墓監区事務所中にいる人に声を掛けたら御陵印を出してもらえます。御陵印は自分でペタペタと押していきます。月輪陵墓監区事務所では以下の天皇陵の御陵印が頂けます。御陵印を押すのは意外と力が要ります💦いるるは御陵印を押すのが下手くそなので失敗しても押し直しが出来るように無地のルーズリーフにペタペタ押しています。月輪陵墓監区事務所御陵巡りって地味な
第72代白河天皇(しらかわてんのう)御陵名:成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)御父:後三條天皇御母:贈皇太后茂子陵形:方丘所在地:京都府京都市伏見区竹田菩提院町白河天皇は、自身の墓所として鳥羽離宮の泉殿内に三重塔を建て、塔の下に遺骨が埋葬されたそうだが、現在は塔を失っており、33m四方の方丘墳墓となっている。白河天皇成菩提院陵の拝所御陵内の鳥
天武天皇・持統天皇陵檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)40代天武天皇(てんむ)41代持統天皇(じとう)所在地:奈良県高市郡明日香村大字野口「古事記」は天武天皇が日本の神話や古代史を後世に伝える為に、太安万侶(おおのやすまろ)を中心に編纂を命じ、稗田阿礼(ひえだのあれ)と共に始まりました。しかし天武天皇の崩御により、一度中断しましたが、元明天皇(げんめいてんのう)が再開を命じて712年に献上したそうです。なので、言いだしっぺ・の夫婦でもあ