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前日に引き続き寝ているだけですが水を飲んでもいいとOKが出たので早速看護師さんが氷入りの冷たいお水を用意してくれて、ストローで飲みました水道のお水がこんなに美味しいと感じたのはこれが初めてかもしれません。大量の痛み止めを使っている事や、術後で体が本能的に睡眠を要求していた事もありますが、寝ても寝ても眠い。薄らと目を開けてみるもすぐに閉じてしまう。寝ているところ誰かが私の名前を呼び起こそうとします…誰かと思ったらICU担当のリハビリの方でした。早速起きてみましょう!と言わ
12月24日家の前に止めた車の中で、私は旦那と話をしていました。私が旦那のがんを知るきっかけとなった前日の動画の話をし、先日の病院での血液検査の結果もこの目で確認した事などを話終えると、旦那が深く息を吐いてから「そっか・・・そこまで知ってるなら・・・ごめん。がんになった。そして余命宣告もされた・・・春までもたない・・・。」やっと旦那の口から本当の事が聞く事ができましたが、がん・・・と思ってはいたものの、まさか余命宣告までされているとは思わず、予想していなかった告白に動揺を
このブログは開設当初はがんと闘う旦那の闘病記として始めましたが、昨年8月、旦那は52歳で人生の幕引きをし、現在はリアルタイムではなく、過去に遡って闘病記を書いています。私が地域包括センターを訪れた理由。旦那がいなくなった後の義母の生活を相談する為。それともう一つ。義母の認知機能についてでした。義母の年齢はこの時81才。定年で60才で仕事を辞めてからはたまにご近所さんやお友達の所へおしゃべりに行ったりする程度で外で活動することは殆どありませんでした。定年直後は
10月の入院予定では原発巣の大腸がんと肝臓の左葉部分切除の手術予定だった。ところが入院中、大腸をきれいにする為に飲んだ下剤が効きすぎて、閉塞寸前の腸管が激しい蠕動運動を起こした為に激痛に襲われ、痛み止めの点滴をしてもらい2時間悶絶する…という事があった。ストーマについては当初はマーキングは一応するけど恐らくつかない方向で…と聞いていた。がっ、この不測の事態が起きた事や術後は次の手術の為にまた抗がん剤治療を少しやらなければならない事、そして術後の縫合不全を防止する為大腸に
4月19日予定通り消化器内科の病棟に入院しました。この日はこれまでに受けた検査の結果を踏まえて確定診断の話になる為家族同席という事になっていたので妹にお願いして病院まで来てもらう事になっていた。私ががんになってステージ的にも進んでいる事を真っ先に話したのは市内にいる妹だった。妹は2つ違い。だけど性格は全く正反対で周りをよく見ていて気遣いはできるけど話す言葉に冷たさを感じる独身。50歳を過ぎて更年期になりその神経質な性格に拍車がかかり鬱のような症状や不安障害に悩まさ
8月8日数時間から数日と宣告された旦那の余命。会社に電話がかかってきて急変を知らされたあの日から私は自宅と病院を往復する日々を送っていました。旦那の様子も心拍や脈拍も落ち着き、おしっこもそこそこ出ていて、安定していたと思います。時折目を覚まし、少しの会話ならできる事もありました。旦那の顔を拭いたり、口を開けて寝るので、乾燥防止のお口のケアを数回するのが私の日課になっていました。これはしてもらっている旦那も気持ちがよさそうな顔をするので、私の楽しみの1つでもありました。急変
大腸がんを自らの画像で確信した日から2日後、基幹病院での診察の予約が取れたとの事で診察に必要なデータと紹介状を受取りに行ってきた。基幹病院での診察は4月5日。当日は消化器内科でこれから主治医となる若き医師との対面に始まった。30代中頃でテンションは低め…というのが第一印象だった。私が割とテンション高めなので尚更そう感じるのかもしれない。この日は検査などはなく、紹介先の病院からのデータにあったCDROMの画像を見ながら今後の予定を話した。4月6、7日で造影CTとレントゲン
年の瀬が近くなるにつれ酷い寝汗やら微熱が続きましたがご馳走を前に娘っちと新年を迎えました。食べられると思っていた量が食べられず胃の痛みが続き、ピロリ菌検査は陰性だったけどひょっとしたら胃がん・・・そんな思いもよぎっていました。不安な気持ちもありお正月休みの間に胃腸科の病院に行ってみました。問診や触診で胃腸炎と診断され、去年胃カメラや大腸内視鏡検査でポリープを切除した事を話すと「じゃ大腸がんの心配はないね」と言われ私も内心「だよね!」と思いつつ薬を処方してもらい家に
8月6日私は朝、起きてから携帯を開き、旦那からメールがきていないか確認した。前日の様子が気になり、起きたら見るはず・・・と思いメールを送っていました。が、返信はなし。ずっと眠っているんだ・・・そう思い、仕事へ向かいました。お昼休みも終わり、午後からの仕事に取り組んでいたところ、外線で私に連絡が入り、名前が呼ばれました。嫌な予感が咄嗟に頭の中をよぎりました。「私に外線?誰だろう・・・きっと病院だ。」そんな事を考えながら電話に出ると、やっぱり病院からで、病棟の看護師さんからでし
このブログは開設当初はがんと闘う旦那の闘病記として始めましたが、昨年8月、旦那は52歳で人生の幕引きをし、現在はリアルタイムではなく、過去に遡って闘病記を書いています。昨日から酸素を送るようになり、鼻マスク、口マスク、袋付きのマスクと酸素が一番効率よく取り込めるようマスクを色々と変えてもらったり、酸素濃度もMAXまで上げてもらったり・・・色々としてきたけど、もう何をやっても落ち着いた呼吸をする事はできなくなってしまいました。荒い息遣いから肩で息をするように変わ
皮膚科通いも2ヶ月目になろうかとしていた頃、軟膏をせっせと刷り込んでいた旦那の皮膚に異変が・・・白斑のようにまだらに白っぽくなっていることに気づいた私は「病院変えた方がいいって!だってこんなに治らない日光湿疹なんて見たことないし、腕が白くまだら模様になってるよ。」「湿疹がこんなに長く続くのも変だし、絶対変だよ。」「そうだな。」と自分の腕をポリポリしながらそう言いましたが、病院を変える事はなく、通院じたいをやめてしまったのでした。そのうち、痒みやまだら模様は消えてなくなりま
ポートの設置が終わり、体調に変化がなければ4月26日に退院の予定になった。入院から丁度1週間。退院前日4月25日消化器内科の外来に呼ばれた。お呼ばれするとよくない話ではなかろうかとつい勘繰ってしまう😓話は初診の時に検査に出していた遺伝子検査の結果と今後のお話だった。遺伝子検査の結果によっては使える薬の幅が広がり希望が持てるようになる事もある…けど遺伝子変異の内容によってはそれだけで不安な要素を持ち合わせているものもあるのでなんとも言えないが、・RAS・BRAF
16日の手術は無事に終えました朝9時から始まった手術は夜19時に終わり約10時間の手術になりました知らない間にたくさんの方に見て頂けたようでありがとうございました。コメントなどのお返事は後程ゆっくりと書かせて頂こうと思いますのでお待ちくださいね今回の手術は原発巣の大腸と転移先の肝臓の腫瘍の切除が目的の手術になります。当初は大腸と肝臓を1回で切除する事になっていましたが体への負担が大きいため、入院後の手術の説明で2回に分けて切除する事になり、今回は左葉
8月6日病院から急変の連絡を受けてから、とても慌ただしく時間が過ぎていった。娘を自宅に送り届け、病室に戻ると、昨日会っていた友人が旦那の側にいて、連絡してから急いで旭川まで来てくれて、ずーっと旦那の顔を見ていた。昨日の事を振り返り、お互いの昨日の行動の後悔の話をした。先生からされたこのタイミングで自宅へ帰る事ができた事、会いたいと思う人に会えた事、がんの進行が早く、いつこうなってもおかしくない状態だった事など、私の口から話す事でお互いの後悔が後悔でなくなればいい・・・そん
3人で呼ばれ診察室に入ると主治医と医療秘書が待っていた。早速先日行った検査の結果を聞く事になる。・S状結腸に腫瘍→スコープが通ったのでステント手術は行わず早めに抗がん剤を導入して腫瘍縮小を目指す・細胞の検査で癌細胞・S状結腸癌、リンパ節転移、多発肝転移ステージ4遠隔転移により手術不可無治療であれば余命期間は8ヶ月治療をして24ヶ月〜30ヶ月基本的な方針として・腫瘍により腸閉塞などの症状を起こさなければ手術はまず適応にならない状況・全身投与の抗がん剤を治療を行
12月29日世の中、年の瀬も押し迫り、年越しの準備に忙しい時期です。私の仕事も例年通りこの日から正月休みに入っていました。旦那の方は本来はこの日が仕事納めになるのですが、診察の予約が入っている為、1日早くお休みに入りました。朝、仕事のある娘を旦那が車で職場まで送って行き、予約時間の9時30分に間に合うように家を出ました。運転をしていたのは私で、旦那は助手席に乗り込みました。クリスマスに旦那からがんの事を打ち明けられて、何が変わったのか・・・。いつもと変わらぬ様子で仕事に出か
とても久しぶりの投稿になります旦那ががんで亡くなってからもう5年が経ちました必死で生きて来ました元義母や元義弟夫婦との裁判にもなった長い争いごとや立て続けに起きた車の事故など本当に色々な事がありました旦那が亡くなってからというものいいことなんて何にもなくて負の連鎖ばかりそれでも時間が過ぎ娘っちとの穏やかな日々を暮らせるまでになっていました旦那ががんで亡くなった事もあり私自身がんなどの病気にはとても敏感になっていました去年受けた大腸内視鏡検査ではが
退院してお家に帰ってきました!やっぱり家が1番☝️家に入り座った時からそう感じる瞬間とてもホッとしましたなので今はとても寛いでいます😉10月31日に退院を目指してたけどストマがただれて伸びてしまいいったいいつ退院できるのかな…そう思いながら過ごしていましたがなんとかただれた部分も皮が張ってきて治りかかってきたので装具を決めて、次回の交換でストマの周囲を確認してなんでもなければ退院!ということになりめでたく退院になりました。3週間の入院で看護師さんには本当によくして
看護師さんに押されて車椅子で診察室に行くと神妙な面持ちで先生が待っていました。「大丈夫ですか?実は検査の方ですががんらしきものがあって奥まで通らなかったので中止しています。」それを聞いてあの眉間にシワが寄るような痛みはスコープを奥まで通そうとしていた痛みだったのだと思いました。続けて先生が「追加でもう少し検査をしたいのですがいいですか?」こう言われたので2つ返事でお願いしました。そして注腸検査とCTを撮りました。検査が終わり検査着から着替えて結果が出るのを不安な気持ちで待
大腸がんが見つかり8ヶ月経った。最初の大腸内視鏡検査で見た画像から肝転移ありの大腸がん。ステージも4が確実になり、基幹病院を紹介され確定診断を聞いた。がんと言われた当初色々な事を考えた。亡くなった旦那に胃がんが見つかった時、治療の恩恵もあまり受けられずに延命の為の闘病を亡くなるまでの間ずっと側で見てきた。黄疸や腹水が溜まり始め、できる治療がなくなり終末期に入ってからというもの私が知っている旦那はあっという間に痩せ細り変わりゆく姿をただ側で見守る事しかできなかった。旦那
前日、話がつかないまま翌日のクリスマスを迎える事になりました。この日は12月24日クリスマスイヴ。旦那との話し合いが物別れに終わり、心の中に悶々とした気持ちを抱えながら迎えたイヴ。朝から掃除などの家事を一通り終え、娘を予約していた美容室へ連れていきました。伸び放題になった髪を、いつも担当してくれている美容師さんに髪型の説明をして、娘を待っている間私は旦那にメールを送りました。「美容室終ったら、一緒にケーキ取りに行かない?」「いいよ。」美容室が終ったら連絡するから、支
12月29日主治医となる先生は私達を真っ直ぐに見つめ、画像を見ながら丁寧に症状の説明をしてくれました。がんの事を旦那に打ち明けてもらってから、ネットで下調べはしていたものの、そこは素人。旦那の状況やこれからの治療などはどうなっていくのかは全くわかりません。私は先生に今の状況を聞きました。「今の状態ってどんな感じなんでしょう?」「今はというか、これからは何もしなければ色々な症状が出始めると思います。」「手術とかは無理なんでしょうか?」「肝臓に遠隔転移という形なので手術はで
1月4~5日定山渓で行われた新年会から旦那が帰ってきました。紙袋にたくさんのお土産を持って!大好きなお酒を1滴も飲まずに新年会に参加したのは初めての事で、周りの方が心配していたらしいが、いちおう胃潰瘍という事でみんなには説明し、難を逃れたらしい。1月6日新年会翌日は土曜日だが、この日から仕事初めでいつものように深夜12時に起きて、1時過ぎに仕事へ出かけて行きました。会社には胃潰瘍になったという事にして、1月9日から入院する事になった事を伝え、休みも有給を使って休む予定でいました。
確定診断を至って普通に聞き終えて3人で診察室を後にして、待合室にある椅子に腰掛けた。重たい空気はなく、一緒にいた看護師さんが一番安堵していたかもしれない。他愛ない話しをして和やかな雰囲気だったところに妹がまた例の話をし出した。「あんたにとっては聞きたくない話かもしれないけどさぁ、何回も言うけど片付けとかちゃんとしておいてよ!大変なのはあたしなんだからね。」たった今、主治医から話を聞き終えたばかりの病院でしかも看護師さんも一緒にいる中でそんな話をし始めた事に腹が立った。「また
このブログは開設当初はがんと闘う旦那の闘病記として始めましたが、昨年8月、旦那は52歳で人生の幕引きをし、現在はリアルタイムではなく、過去に遡って闘病記を書いています。8月12日お盆ということもあり、院内のデイルームはお見舞いにきた人でとてもにぎやかでした。旦那の付き添いで病室にいると病室のドアがノックされました。看護師さんが「お見舞いの方がいらっしゃってるんですが・・・」「ん?お見舞い?」旦那の会社関係の方や友人には病室の番号を知らせてあるので看護師を通
このブログは開設当初はがんと闘う旦那の闘病記として始めましたが、昨年8月、旦那は52歳で人生の幕引きをし、現在はリアルタイムではなく、過去に遡って闘病記を書いています。時系列で読めるようにタイトルに番号をふらせていただきました。番号のついていない記事はまだそこまで辿り着いていない記事になります。追いついたら順次番号をふっていこうと思います。旦那と一緒に義母と話をすべく義実家へ出向いていました。ギャーギャー泣きわめく義母の声に蓋をするかのように旦那が話したら・・
このブログは開設当初はがんと闘う旦那の闘病記として始めましたが、昨年8月、旦那は52歳で人生の幕引きをし、現在はリアルタイムではなく、過去に遡って闘病記を書いています。亡くなり遺体となった旦那を義妹と義母が到着するまでの間ボーッとしながら見つめていました。娘も私の側から離れません。亡くなってから15分位経った頃2人が病室に戻ってきました。私はベッドから離れ、荷物がまとめてある場所に娘と共に異動し、義母と義妹が旦那とお別れをしやすいよう邪魔にならない所でその様子
10月16日手術当日朝から手術着に着替えてICUへ持って行く荷物の確認と術後はICUに入る為、一旦病室を空けなければならないので病室の荷物の荷造りをして病棟内にあるロッカーに3日間預ける事にした。8時半頃、看護師さんと手術室に向かった。手術室は全部で11個ある。その1つに手術室担当の看護師さんと一緒に入り手術台に横になった。麻酔科の方が色々説明しながら硬膜外にカテーテルを導入し、そして麻酔が効いた後に首の静脈からもカテーテルを通す事などの説明を受けた。気づ
手術を受ける為に10月12日入院しました手術は16日の月曜日で朝から始まります12日からの入院でまずはまだ聞けていなかった消化管外科の先生のお話を聞きました今回は低位前方切除術という術式で腹腔鏡での手術になりますそしてもしかすると一時的な人工肛門の設置が必要になるかもしれない…3カ月くらいらしい💦えっ!結腸だから人工肛門の可能性は低いだろうと思っていたのですが消化器内科ではS状結腸癌と診断されていたのに消化器外科では直腸癌の診断がついていて診断場所が違
8月5日この日は前日の疲労が残り、起きる気配すらありませんでした。途中、心配になり何度か寝室を覗きに行った位深い眠りについていました。9時頃薬を飲ませる為に1度起こしましたが、手を引っ張らないと起き上がる事ができない程でした。10時半頃、私の携帯にLINEで連絡が入りました。旭川へはもう着いているので、旦那の支度ができたら連絡してほしいという事と、いつまででも待つのでゆっくりでいいよ。という事が書かれていました。この言葉に甘え、もう少しだけ寝かせてあげよう!と支度をするまで時