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[大和国高市郡]牟佐坐神社■表記身狭村主青(ムサノスグリアオ)*身狭青…「村主(すぐり)」は姓*氏は続紀や「日本紀略」、「新撰姓氏録」などで「牟佐」と表記される■概要5世紀後半頃に活躍した官吏。生没年不詳。渡来系帰化人であり、東漢氏(ヤマトノアヤウジ)の配下。呉国からの渡来人とされます。◎「新撰姓氏録」には「左京諸藩漢牟佐村主出自呉孫権男高也」とあります。「呉孫権男高」とは呉国を建国した皇帝孫権のこと。◎同じく東漢氏配下であり、史部(朝廷の書記官)であった檜隈民使
天武天皇の時代の西暦670年代に吉備大宰に任じられた石川王(いしかわのおおきみ)を祀る、旧・備後国芦田郡上有地にある国司神社を訪れました。写真①国司神社の鳥居写真②参道写真③拝殿写真④拝殿の内部、正面に石川王の顕彰碑の額がある。写真⑤拝殿の全景写真⑥、右より幣殿と本殿を見る、祭神は、大国主神、国高依彦神と石川王写真⑦、左より幣殿と本殿写真⑧、拝殿前の境内からの眺め写真⑨、石川王顕彰之碑
三栖神社御旅所(みすじんじゃおたびしょ)は三栖神社の御旅所であるが、創建年代は不詳で、神社は金井戸神社(かないどじんじゃ)と呼ばれているそうだ。天武天皇元年(672年)に起こった壬申の乱の際に、大海人皇子が大津へ向かう途中に、三栖の地を通った時に、村人たちが篝火を焚いて夜道を照らしたと伝えられている。これが、「炬火祭(たいまつまつり)」として、毎年、三栖神社の秋季祭礼の「神幸祭」に行われている。「炬火祭」は京都市登録無形民俗文化財に指定されている。御祭神:天武天皇所在地
本日は、改めて「防人(さきもり)」について考えてみたいと思います。防人については、日本史の考え方29「なぜ古代の農民たちは逃げるのか②」でも少し触れました。高等学校で使用している教科書には、実に興味深い記述があります。「防人には東国の兵士が当てられ、3年間大宰府に属した。」ここで重要なのは、なぜ防人は東国出身の兵士なのか❓ということです。この問いは、授業でしっかり扱っておくべきだと思います😊先ず、東国について説明します
新羅善神堂(しんらぜんじんどう):滋賀県大津市園城寺町摩多羅神、赤山明神、新羅明神、牛頭天王、宇賀神…記紀や風土記には出てこない神々だ。その名すらご存じない方も多いだろう。それもその筈、古代日本には存在せず、多くは中世以降に渡来し、日本で変容を重ねた神々なのだ。先行研究はいくつかあったにせよ、中世神話の研究者、山本ひろ子氏が二十年前にその著書「異神」で光をあてるまで、これらの神々は歴史の画期の狭間に埋もれており、目を凝らしても僕たちの視界に入ってこなかったのである。およそ人が振り向かない物事に