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今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その7)として、壬申の乱編をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの「⑥壬申の乱(672年)と、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)」のお話しとなります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇として即位(668年)⑤中臣鎌足
【前書き】前回は、豊璋(ほうしょう)と翹岐(ぎょうき)が、軍事の実権を主に担っていた蘇我入鹿を惨殺し、「乙巳の変」という軍事クーデターを起すことで、大和政権の実権を握ったところまでお話ししました。これからその続きをお話ししていきたいと思います。645年、乙巳の変の後に、第36代孝徳天皇が即位します。それ以降、以下のような出来事が起こります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(655年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)③斉明天皇の死(661年)④「白村江
新羅善神堂(しんらぜんじんどう):滋賀県大津市園城寺町摩多羅神、赤山明神、新羅明神、牛頭天王、宇賀神…記紀や風土記には出てこない神々だ。その名すらご存じない方も多いだろう。それもその筈、古代日本には存在せず、多くは中世以降に渡来し、日本で変容を重ねた神々なのだ。先行研究はいくつかあったにせよ、中世神話の研究者、山本ひろ子氏が二十年前にその著書「異神」で光をあてるまで、これらの神々は歴史の画期の狭間に埋もれており、目を凝らしても僕たちの視界に入ってこなかったのである。およそ人が振り向かない物事に
まず第1回目は、「関所」について考えてみたいと思います。関所は、一般的な辞書には「交通の要所や国境に設けて、通行人や通過物を検査し、また、脱出や他からの侵入に備えた所。」と記載されています。ですが日本の長い歴史を見ると、関所の使い方も時代によって様々であることがわかります。【古代における関所の使い方】~軍事的・治安維持的機能~<重大事が発生した時、関所を封じて交通を遮断し、防衛の施設として設けられた>「固関(こげん)」という防衛古代律令制において、天皇の病状悪
今、NHKで『虎に翼』がやっている。わりと面白いので毎回見ているが気になるのはタイトルの『虎に翼』。調べたらこれは中国の韓非子(かんぴし)という人の言葉で、強いものの上にさらに強さが加わる、という意味の言葉だそうだ。虎に翼──さらに調べたら『日本書紀』にこんな記述があった。**********壬午に吉野宮に入りたまふ。時に左大臣蘇賀赤兄臣、右大臣中臣金連、および大納言蘇賀果安臣ら送りたてまつる。菟道より返る。或曰「虎に翼をつけて放てり」といふ。この
672年、壬申の乱(じんしんのらん)が発生した。➊壬申の乱の直接的原因大海人皇子(おおあまのみこ)(天智天皇(てんじてんのう)の弟、吉野側(よしのがわ))と、大友皇子(おおとものみこ)(天智天皇の子、近江朝廷側(おうみちょうていがわ))のあいだで生じた皇位(こうい)(大王位(おおきみのくらい))継承(けいしょう)問題。➋壬申の乱の結果と影響吉野に逃れていた大海人皇子側は、美濃(みの)を拠点とし、東国(とうごく)で徴発(ちょうはつ)された兵の協力を得て勝利を収めた。乱後、
三栖神社御旅所(みすじんじゃおたびしょ)は三栖神社の御旅所であるが、創建年代は不詳で、神社は金井戸神社(かないどじんじゃ)と呼ばれているそうだ。天武天皇元年(672年)に起こった壬申の乱の際に、大海人皇子が大津へ向かう途中に、三栖の地を通った時に、村人たちが篝火を焚いて夜道を照らしたと伝えられている。これが、「炬火祭(たいまつまつり)」として、毎年、三栖神社の秋季祭礼の「神幸祭」に行われている。「炬火祭」は京都市登録無形民俗文化財に指定されている。御祭神:天武天皇所在地
本日は、改めて「防人(さきもり)」について考えてみたいと思います。防人については、日本史の考え方29「なぜ古代の農民たちは逃げるのか②」でも少し触れました。高等学校で使用している教科書には、実に興味深い記述があります。「防人には東国の兵士が当てられ、3年間大宰府に属した。」ここで重要なのは、なぜ防人は東国出身の兵士なのか❓ということです。この問いは、授業でしっかり扱っておくべきだと思います😊先ず、東国について説明します