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今、NHKで『虎に翼』がやっている。わりと面白いので毎回見ているが気になるのはタイトルの『虎に翼』。調べたらこれは中国の韓非子(かんぴし)という人の言葉で、強いものの上にさらに強さが加わる、という意味の言葉だそうだ。虎に翼──さらに調べたら『日本書紀』にこんな記述があった。**********壬午に吉野宮に入りたまふ。時に左大臣蘇賀赤兄臣、右大臣中臣金連、および大納言蘇賀果安臣ら送りたてまつる。菟道より返る。或曰「虎に翼をつけて放てり」といふ。この
【中古】天武天皇隠された正体暴かれた日本書紀のトリック/関裕二/ベストセラーズ[ハードカバー]【メール便送料無料】【あす楽対応】楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}歴史の教科書では、兄天智天皇、弟天武天皇と習いましたが、成人した頃には、天武天皇の方が天智天皇より年上であるという学説?の本を目にしていました。この本はどうしてそういう解釈が生まれたのかを解きほぐしています。日本史上クーデターとして名高い「壬申の乱」叔父による甥の追い落としであり、甥
持統天皇の幼名は、鵜野讃良というらしい読み方は二つあって「うののさらら」か「うののささら」なのだそうだ645年の大化の改新の年に生まれて父である天智天皇の弟、天武天皇の后となりそのあと皇位を引き継いだと、Wikipediaには書いてあるNHKドラマ「光る君へ」は、大河ドラマの舞台としては2番目に古い時代である。西暦1000年前後だ。それより古いのは、平将門を主人公とした「風と雲と虹と」のはず。これが900年代の前半。歴史好きの妹が「壬申の乱」(672年)こ
松尾大社では山吹の花が見頃を迎えています。境内はあたり一面、黄色〜オレンジの花で埋め尽くされています。楼門をくぐり抜けてすぐの石橋から。水辺に映る山吹も綺麗です。今月のことば『無事安穏』「咲きこぼれる」という表現はまさにこれに尽きますね。山吹の立ち茂みたる岩清水汲みに行かめど道の知らなく万葉集に残る、高市皇子(たけちのみこ)の歌です。お互いに惹かれ合っていた十市皇女(とおちのひめみこ)は、天武天皇と額田王(ぬかたのおおきみ)の娘。ふたりは異母兄妹にあたります。高市の母
本日は農業委員会の会議でした。農地最適化推進委員連絡会。通常は推進委員さんの会議には農業委員さんは出ないのですが、年度初の会議という事で一同に介します。まぁ今後大変そうな案件を抱える事になりそうな農政ですが、それよりおったまげたのは自分の席に着座したら眼の前にあったこの本・・・なんじゃこりゃ!興味があったので、とりあえず目次を斜め読み。眠くなりました。ってか経営基盤強化促進法ってこんな本になっていたんだ!中身もとりあえず斜め読みしてみましたが、さっぱり頭に入って来ません。東野圭吾さんの本なら、一
大河ドラマの戦国時代もの。特に参謀をフィーチャーしたドラマが好き。あとはドラマになってるか分からないけど、「壬申の乱」とか見たいな。昔「日本書紀」読んでて思ったから。
こんばんは‥(^_-)-☆今日の奈良は雨の前か曇って19℃と少し暖かいです。今日は20℃まで上がりましたね。マリア猫は呼ぶと今朝も枕元に来ず2mほど離れて窓際で座っています。呼ぶと寄ってきて擦ると手を引っ掻かれ痛くて手を離すと2mほど離れて櫓こたつの上に?・・私が一階に降りると一緒に降りてきて、餌だけ食べてすぐに二階か外かは分かりませんが逃げ出しますね?・・今日から腕の痛みも消えたが今度は腰が痛くなり散歩が難しいです?・・奈良まほろばソムリエ奈良
第39代弘文天皇長等山前陵即位西暦672年退位西暦672年皇位年数0年(約7か月)天智天皇の第一皇子だが、即位したかは定かではなく、大友皇子と表記されることが多い。壬申の乱で後の天武天皇に敗れ、皇位期間約7か月で自害された。御陵印所在地皇子山という地名の由来になってるけど、御陵は大津市役所の裏手で、参拝口がちょっと判り難い
本日も動画から始めます。高野誠鮮和尚がナサから持ってきた宇宙に関する展示物から。いつかは行きたい羽咋の宇宙館宇宙人はヤバイ!#01住職が案内する実物の宇宙船【能登半島・北陸応援企画】この動画は、住職高野誠鮮さんがコスモアイル羽咋の展示室を案内する動画です。先日配信した3人のトーク「宇宙人はいる!1-2-3」の前に収録したものです(2024.3.20)実物の宇宙船やロケットを見に「宇宙科学博物館コスモアイル羽咋」に行こう!!石川県羽咋市鶴多町免田25番地TEL:0767-22-9
しばらく愛知県の古墳が続いたので、今日は2月29日に訪れた千葉県袖ケ浦市の古墳をアップします。↑上奈良輪古墳、東側から「ちば情報マップ」によると6×3メートル、円墳。場所はこちら:35.435672,139.969401↑おふごの森ちょうけん塚(長見塚)についての石碑以前はこの古墳が旧奈良輪村と旧蔵波村との境界線になっていたようです。↑南側から当方のブログで何度も登場している壬申の乱で敗北した大友皇子。その大友皇子の子ども、福王丸が壬申の乱後、この
「虎に翼をつけて」~古代最大の戦い「壬申の乱」の始まり~天智10(671)年10月17日。ときの天智天皇は病床にあった。激しい痛みと苦しみに、わが余命がわずかであることを悟られたのだろうか。弟で皇太子の大海人皇子を呼び寄せ、皇位を授けようとおっしゃったのだった。しかし、皇子は首をたてに振らなかった。「私はもともと病気がちで、こんな体ではとうてい国家を保つことができません」。そして、天皇の息子である大友皇子を皇太子とするよう提案するのだった。「私は本日出家し、陛下のために功徳を修めた
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その7)として、壬申の乱編をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの「⑥壬申の乱(672年)と、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)」のお話しとなります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇として即位(668年)⑤中臣鎌足
【壬申の乱から平城京遷都まで】壬申の乱で、大海人皇子が天智天皇が営んだ近江朝廷を滅ぼして天武天皇となり、飛鳥に浄御原朝廷を築いたが、天武天皇の崩御後持統天皇が即位し、藤原鎌足の息子不比等を参謀として藤原京を設営し、元明天皇の時代に平城京に遷都した、という流れが正史に記されたことである。【不改常典と天智天皇】元明天皇は即位の宣命の中で、即位の正当性の根拠として天智天皇が制定した「不改常典」をもちだし、先帝(所生の文武天皇)の指名によって即位したことを述べている。持統天皇も元
産土神社鑑定士・開運カウンセラーの星野まりなです行ってきました〜〜〜!!3ヶ月前から楽しみにしていた、奈良は、古事記巡礼の旅💓私が昨年から習っておりました「やまとことば神話」の絵本を学び、お伝えするやまとことば語り部協会の主催する古事記巡礼の旅「古事記を巡る旅」ツアーへの参加して参りました。私も実は昨年、言本師となりまして、先月は戸越八幡神社にて古事記奉納の儀に参加させていただき、想像を超える、素晴らしい体験をさせていただきました。そして
愛子さまが皇太子になるべき100の理由No.40言わずと知れたスーパー女帝、それが第41代持統天皇です。今日は、彼女の功績を改めて振り返るとともに、天皇の血筋として脈々とDNAを受け継いでいる愛子さまとの共通点を最後に述べたいと思います。実力と権威、知性も持つ持統天皇645年生まれの鸕野讃良(うののさらら:のちの持統天皇)は、653年、13歳で大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁ぎます。大海人皇子の生まれ年は不明とあるのですが、一説には630年生まれともいわ
はい!奈央です。今回は番外編でーす。古代における我が国最大の内乱である壬申の乱の異常さをご紹介したいと思います。壬申の乱(672年)天智天皇がお隠れになって半年ほどたった672年5月のこと。大海人皇子のもとに、大津京に不穏な動きがあるとの情報が入ります。同年6月24日、大海人皇子は吉野をお発ちになって不破へと向かい、大友皇子との戦いに挑まれます。壬申の乱ゆかり地マップなら記紀・万葉HPよりお借りしました。ここで、私が特に気になったのは、6月24日に吉
大化の改新、壬申の乱は知っていても、それがどんな意義があったのか、改めて復習したいですね。こうやって、天皇中心の日本の形は出来上がってきたのでしょうね。
\\メイクしながらスキンケア//山あり谷あり、波乱の人生ドンブラコ!ようやくたどり着いたあこがれの年金生活‥夢見た悠々自適ゆうゆうじてきの年金生活は、なぜか幽遊自虐ゆうゆうじぎゃくの年金生活にさま変わり‥だがしか~し転ころんでもただでは起きないのが団塊だんかい育ちのいじましさ!つかんだ節約せつやくテクニックを余すとこなくご披露いたしましょ~ぅこちらからどうぞ日本の7世紀の政治情勢は、天智天皇の即位と短期間での崩御によって激動の
3月9日は「壬申の日」「壬申」とは、「じんしん」とも「みずのえさる」とも読みます。天の氣「壬」は、9番目の水の氣地の氣「申」も、9番目の金の氣。天の氣が冷え込み、地の氣が斬り込む、殺伐の氣。壬申の乱(じんしんのらん)が起こった年と、同じエネルギーです。壬申の乱は、日本の古代史上、最大の内乱で、西暦672年、天武天皇元年(壬申の年)に起きました。天智天皇の皇太子である、大友皇子(おおともの
3月12日。おそらくは幼稚園くらいの時以来、登ったことのなかったお勝ち山へ登ってみました。お勝山にあるお墓の墓場・・・岡山本陣跡、勝山配水池〜ダークサイド大垣このお勝ち山、関ヶ原の合戦で徳川家康が最初に陣を張った場所(お勝山の由来にもなっている)であったり、壬申の乱のゆかりの地の一つであったり・・・高射砲が設置されていた場所だったりと小さな丘のような場所ながら色々と歴史的に重要な場所だったりするようです。こんな石碑もありましたよ。お勝ち山
安八麿アワチマの海672年の壬申革命戦は、和蹔や野上(行宮)の場所が有名ですが、行宮の島から船で、移動して上陸した場所に間津湊、詰り和蹔が有りました。北東に短く突き出た半島で尾の様でした。壬申革命戦(壬申の乱)東軍配置東山軍間津湊大将倭稚建内津湊大人神威毛人東海軍御津湊総大将大人洩矢宮萬呂(倭建東宮)西軍配置水海大津宮総大将倭大友称制(倭壱志大君)難波津百済遺民水軍を使って、妻や子供を伴って移動して居り、現
皆さま、こんにちはディズニーシーはちょこちょこ行っていて去年?かな?、ディズニーランドに何年ぶりかに行ったんですが•••ああ•••夢の国だと•••と再確認して、気づいたらミッキーに手振ってました👋美女と野獣も最高でしたね!!笑😀新撰組で好きな隊士はいる?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・673年(天武天皇2年)2月27日、大海人皇子が即位する(天武天皇)→壬申の乱で近江朝廷軍に勝利した大海人皇子が即位し、天武天皇となります。皇
奈良県が発行している観光ガイド「祈りの回廊」2024年3月~2024年9月春・夏号が登場しました。表紙の「藤原宮跡の蓮」、インパクトあります。~目次~巻頭祈りの足跡~壬申の乱から藤原宮の時代~特集次世代を担う二人の仏師道長も来た道吉野・大峰特別講話飛鳥坐神社宮司飛鳥弘文氏金峯山寺金峯山修験本宗管長総本山金峯山寺管領五條良知師奈良大和路の「秘宝・秘仏特別開帳」これを見て、今年はどこへ行こうって考えるのは楽しいひとときです。実際に行ける
高田崇史さんの『采女の怨霊ー小余綾俊輔の不在講義ー』を読みました。高田先生のシリーズものの中で、わりと新しい「小余綾俊輔(こゆるぎしゅんすけ)」のシリーズ。2019年に『源平の怨霊ー小余綾俊輔の最終講義ー』2021年にこちら『采女の怨霊ー小余綾俊輔の不在講義ー』そして最新刊は2023年の『猿田彦の怨霊ー小余綾俊輔の封印講義ー』が上梓されています。ミステリー仕立てで歴史の闇に切り込む、大胆な考察が見どころとなっています。PickItem采女の怨霊小余綾俊輔の不在
天皇陛下が繰り返し取り上げられる「誡太子書」の厳しい内容|高森明勅公式ブログ|天皇、皇室、皇位継承問題天皇陛下はお誕生日に際してのご会見で、以前にも取り上げられている、花園天皇の「誡太子書(かいたいしのしょ)」に言及しておられた。「皇室の歴史を紐(ひも)解くと、皇位が連綿と継承される中では、古代の壬申の乱や中世の南北朝の内乱など皇位継承の行方が課題となった様々な出来事がありました。そのような中で思い出されるのは、上皇陛下が以前に述べておられた、天皇は、伝…www.a-takamori.c
ぎりぎり天智天皇なきあと後継の息子大友皇子を壬申の乱で制した大海人皇子が天武天皇にというのが教科書記述ですが、大友の妻十市皇女が天武と額田王の娘、大友に直接手を下した将軍高市皇子が十市皇女を慕う悲恋など興味深い話がつづきます。
三栖神社御旅所(みすじんじゃおたびしょ)は三栖神社の御旅所であるが、創建年代は不詳で、神社は金井戸神社(かないどじんじゃ)と呼ばれているそうだ。天武天皇元年(672年)に起こった壬申の乱の際に、大海人皇子が大津へ向かう途中に、三栖の地を通った時に、村人たちが篝火を焚いて夜道を照らしたと伝えられている。これが、「炬火祭(たいまつまつり)」として、毎年、三栖神社の秋季祭礼の「神幸祭」に行われている。「炬火祭」は京都市登録無形民俗文化財に指定されている。御祭神:天武天皇所在地
【日本書紀に記された六回の遣唐使記事】これまで見てきたように、日本書紀によると、7世紀の遣唐使は計6回派遣されている。第一回遣唐使:舒明二年(630)八月~舒明四年(632)八月旧唐書倭国伝、新唐書日本伝にも記載あり。高表仁登場第二回遣唐使:白雉四年(653)五月~白雉五年(654)七月第四回遣唐使と派遣隊の規模や遭難状況が酷似している。第三回遣唐使:白雉五年(654)二月~斉明元年(655)八月二回と三回は派遣時期が重なっている旧唐
第四十一代持統天皇は飛鳥時代の女性天皇です。大化元年(645年)生。御名は鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)。御父は天智天皇、御母は蘇我遠智娘(そがのおちのいらつめ)。大海人皇子の妃であった鸕野讚良皇女は、任申の乱の時ただ一人皇子に従い作戦も練ったといいます。4年前は日本書紀編纂1300年の記念すべき年でしたが、その日本書紀で一番詳細に記載されているのがこの壬申の乱の時代です。大海人皇子が天武天皇として即位すると皇后に立ち、政治面でも補佐をしました。その為天皇が崩御され
ここは関市の長良川沿いにある池尻になります。小瀬から長良川に架かる鮎之瀬橋を渡って、右折して長良川沿いにいくと弥勒寺跡(国史跡)があります。ここは白鳳期の寺院の跡になり、昭和28年に発掘された壬申の乱(671年)に功労のあった牟義都君広の氏寺になり、東隣には牟義都衛跡も発掘されました。古代における中濃の中心だったここを、長良川沿いの道を歩きました。ここは長良川の中流域になり、東海環状自動車道の下辺りは地元では、荒れ狂う川といわれる急流で、ここから下流の鮎之瀬橋までいきました。この橋のたも