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【僧侶としての経歴】江戸時代に囲碁の家元筆頭であった本因坊の初代・本因坊算砂は、もともと京都の顕本法華宗本山・寂光寺の二代目住職であり、元の名は本行院日海と言った。『本因坊』とは日海が寝泊まりしていた寂光寺の塔頭の名称で、本因坊算砂と名乗ったのは、江戸幕府成立後、江戸へ出向くようになってからである。碁打ちとして頭角を現す前の算砂の半生は不明な点が多いが、永禄2年(1559)に京都の舞楽宗家・加納與助の子として生まれ、幼名は與三郎。8歳の時に叔父で法華宗の高僧の久遠院日淵の門に入り日
本因坊算砂の一世代前の碁打ちには、仙也、宗心のほかに樹斎という人物もいる。宗心の時にも紹介したが、吉田神社神主、吉田兼見が記した『兼見卿記』によると、天正6年(1578)10月10日と11日に細川幽斎の居城、勝竜寺城において宗心と樹斎の対局が行われたという記述がある。10日の対局は食後に宗心徳番(互先の先番)で始められ、宗心が15目勝った。家康の孫である姫路藩主松平忠明が寛永年間に編纂したとされる『当代記』の中で、慶長12年(1607)12月22日の記事に「樹斎五十余」とあることか
算碩の墓(寂光寺)※妙法の左下算碩日傳慶長17年(1612)に江戸幕府は、有力な碁打衆、将棋衆8人に俸禄を与えている。それまでは碁会が開催される都度日当を支給していたのであろうが、それを扶持という形に置き換えたようである。俸禄の内訳は次の通りである。五拾石五人扶持本因坊五拾石五人扶持利賢五拾石五人扶持宗桂五拾石道碩弐拾石春知弐拾石仙重三拾石六蔵(安井算哲)弐拾石算碩俸禄を与えられた碁打ちの中に算碩という人
渋沢正雄渋沢正雄の墓(谷中霊園栄一の墓の後方囲いの中)渋沢栄一の三男・渋沢正雄は、大正4年(1915)に東京帝国大学法科大学経済学科を卒業し第一銀行に入行するが、2年後には退行し実業家として一族の会社経営に関わって行く。石川島自動車・昭和鋼管社長や石川島造船専務を務め、昭和5年(1930)には「株式会社石川島飛行機製作所」を創立し初代社長に就任。(第2代社長は兄の武之助)。その他、秩父鉄道・日本製鉄・日満鉄鋼販売・日本鋼材販売の各社長並びに常務など多くの企業に重役として名
後藤象二郎幕末から明治にかけて活躍した土佐藩出身の政治家、後藤象二郎は、藩の大目付として藩政改革に取り組む叔父の吉田東洋により、幡多郡奉行や土佐藩大坂藩邸建築のための普請奉行に抜擢されている。しかし、文久2年(1862)に東洋が藩内尊王攘夷派の土佐勤皇党に暗殺されると、失脚して江戸で学問を学ぶなどして過ごしている。元治元年(1864)藩政に復帰した象二郎は、前藩主で事実上藩政を執っていた山内容堂の信頼を得て、大監察や参政に就いて公武合体派の急先鋒として活躍。この頃、京では「八
乃木希典(カラー処理)乃木希典の墓【乃木希典の生涯】日露戦争の英雄で軍神と讃えられている乃木希典は、嘉永2年11月11日(1849年12月25日)長州藩の支藩である長府藩の藩士の子として江戸の上屋敷に生まれる。安政5年(1858)父が藩のお家騒動に巻き込まれ国元での閉門を命じられたため長府へ転居。16歳の時には学者の道を志し、親戚で松下村塾創始者の玉木文之進のところへ押掛け学問の手ほどきを受けている。その後、第二次長州征伐を経て、軍人として生きていく意志を固めた乃木は
穂積歌子穂積陳重「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一の長女、歌子は文久3年(1863)に現在の埼玉県深谷市で生まれ、明治15年(1882)に法学者の穂積陳重と結婚している。穂積陳重は明治9年(1876)よりイギリス,ドイツ留学で法律学を学び、当時日本で主流であったフランス法に対して、経験主義的、実証主義的なイギリス法を導入し草創期の日本法学界に多大な影響を与える。民法典(現行民法典)の起草では中心的な役割を果たしたほか、英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人に名を
林家の六世林門利門入は五世林因長門入の門下で、元の名は岡田門利。常陸国出身で甥に井上春達因碩がいる。元文元年(1736)に因長門入の跡目になり御城碁へ出仕。寛保3年(1743)には名人碁所就位願いを出した因長門入が断念に追い込まれ隠居したため、家督を継いで六世林門入となる。しかし門利門入は当主となって3年後の延享3年1月29日(1746年3月20日)に亡くなり、跡は16歳の実子、転入が継いでいる。
大久保利通【大久保の生涯】西郷隆盛、木戸孝允と並び「維新の三傑」と称される大久保利通は、文政13年8月10日(1830年9月26日)薩摩藩鹿児島城下の下級武士の家に生まれ、元服後に記録所書役助として藩へ出仕している。しかし嘉永3年(1850)藩主・島津斉興が嫡子・島津斉彬を廃して側室の子・島津久光を後継者にするため、「お由羅騒動」と呼ばれる斉彬派の粛清を行い、大久保は騒動に巻き込まれた父に連座し謹慎処分となる。その後、幕府の介入により斉興は隠居に追い込まれ、島津斉彬が藩主に就任
徳川家康江戸幕府を開き戦乱の世を終息させた徳川家康は、戦国武将の中でも特に囲碁に傾倒した人物として知られている。豊臣時代の文禄3から翌年にかけて40回近い碁会を開催するなど当時の囲碁界の大スポンサーであり、幕府を開いた後は有力な碁打ちを江戸へ招き禄を与え家元制度確立につながっていくほか、御城碁実施の下地を整えるなど囲碁が発展していく上で重要な役割を担っている。平成16年には、その功績を讃え日本棋院の囲碁殿堂入り(第一回)をしている。【囲碁を始めたのはいつ】家康が囲碁を始めた
夏目漱石(カラー処理)夏目漱石の墓(雑司ヶ谷霊園)【囲碁の俳句】明治時代の文豪・夏目漱石は、特に囲碁好きという訳ではなかったが、いくつか囲碁を題材とした俳句を残しているほか、小説デビュー作『我輩は猫である』では最終話(11話)が囲碁の場面で、対局の様子をかなり詳しく描いている。夏目漱石(本名:金之助)は、慶応3年(1867)江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生まれ、帝国大学英文科卒後、松山中学や熊本の第五高等学校に英語教師として赴任している。明治33年にイギリスへ留
道頓堀安井道頓道ト紀功碑9月14日、プロ野球阪神タイガースが18年ぶりにセ・リーグ制覇を果し、大阪・ミナミの道頓堀川に架かる戎橋周辺では大勢が押し寄せ、警察が中止を呼び掛ける中で二十数名が堀川へ飛び込み騒動となった。前回、2003年星野阪神の優勝時には戎橋から約5300人がダイブするなど何かと話題となる道頓堀周辺は、カニ道楽やグリコの看板などで有名な大阪・ミナミの代表的な繁華街である。道頓堀の名は、慶長17年(1612)に私財を投じて川を開削した安井道頓の名前に由来している。安
本念寺本堂太田南畝の墓の案内板文京区白山にある本念寺には、江戸町人文学の中心的な存在であった「蜀山人」こと大田南畝が眠っている。御家人で天明期を代表する文人・狂歌師でもあった蜀山人については度々取り上げているが、上野恩賜公園に囲碁を題材とした歌碑が建立されている。なお、お参りは寺の人にお願いすれば可能のようだが、取材時はご不在だったので、お墓にお参りする事が出来なかった。【囲碁史人名録】蜀山人(大田南畝)【住所】本念寺·〒112-0001東京都文
山門東京都港区元赤坂にある豊川稲荷東京別院は、日本三大稲荷の一つとされる愛知県豊川市豊川町にある曹洞宗の寺院・豊川稲荷妙厳寺の別院で、名町奉行として知られた大岡越前守忠相ゆかりの寺院である。本殿大岡忠相は寺社奉行時代、将棋界より囲碁界優位の慣例を廃止する「碁将棋名順訴訟事件」で将棋界の訴えを退け囲碁界を救った事でも知られている。大岡家は三河時代より豊川稲荷を信仰していたと言われ、忠相は豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請して屋敷に祀り、毎月「午の日」と22日には門