ブログ記事129件
【僧侶としての経歴】江戸時代に囲碁の家元筆頭であった本因坊の初代・本因坊算砂は、もともと京都の顕本法華宗本山・寂光寺の二代目住職であり、元の名は本行院日海と言った。『本因坊』とは日海が寝泊まりしていた寂光寺の塔頭の名称で、本因坊算砂と名乗ったのは、江戸幕府成立後、江戸へ出向くようになってからである。碁打ちとして頭角を現す前の算砂の半生は不明な点が多いが、永禄2年(1559)に京都の舞楽宗家・加納與助の子として生まれ、幼名は與三郎。8歳の時に叔父で法華宗の高僧の久遠院日淵の門に入り日
大田南畝肖像(『先哲像傳』)大田南畝(おおたなんぽ)は、天明期における江戸町人文学の中心的な人物で、南畝の号の他に、四方赤良(よものあから)、蜀山人(しょくさんじん)などと号し、狂歌師、戯作者としても活躍している。本名は大田覃(ふかし)。寛延2年(1749)、江戸の牛込の御徒を勤める貧しい御家人の家に生まれ、15歳の時に江戸六歌仙の一人、内山椿軒の門に入って、国学・漢学や漢詩・狂詩などを学ぶ。17歳で御徒見習いとして幕臣となるが、学問もそのまま続け、明和4年(1767)に刊行し
本因坊算砂の一世代前の碁打ちには、仙也、宗心のほかに樹斎という人物もいる。宗心の時にも紹介したが、吉田神社神主、吉田兼見が記した『兼見卿記』によると、天正6年(1578)10月10日と11日に細川幽斎の居城、勝竜寺城において宗心と樹斎の対局が行われたという記述がある。10日の対局は食後に宗心徳番(互先の先番)で始められ、宗心が15目勝った。家康の孫である姫路藩主松平忠明が寛永年間に編纂したとされる『当代記』の中で、慶長12年(1607)12月22日の記事に「樹斎五十余」とあることか
算碩の墓(寂光寺)※妙法の左下算碩日傳慶長17年(1612)に江戸幕府は、有力な碁打衆、将棋衆8人に俸禄を与えている。それまでは碁会が開催される都度日当を支給していたのであろうが、それを扶持という形に置き換えたようである。俸禄の内訳は次の通りである。五拾石五人扶持本因坊五拾石五人扶持利賢五拾石五人扶持宗桂五拾石道碩弐拾石春知弐拾石仙重三拾石六蔵(安井算哲)弐拾石算碩俸禄を与えられた碁打ちの中に算碩という人
本念寺本堂太田南畝の墓の案内板文京区白山にある本念寺には、江戸町人文学の中心的な存在であった「蜀山人」こと大田南畝が眠っている。御家人で天明期を代表する文人・狂歌師でもあった蜀山人については度々取り上げているが、上野恩賜公園に囲碁を題材とした歌碑が建立されている。なお、お参りは寺の人にお願いすれば可能のようだが、取材時はご不在だったので、お墓にお参りする事が出来なかった。【囲碁史人名録】蜀山人(大田南畝)【住所】本念寺·〒112-0001東京都文
山門東京都港区元赤坂にある豊川稲荷東京別院は、日本三大稲荷の一つとされる愛知県豊川市豊川町にある曹洞宗の寺院・豊川稲荷妙厳寺の別院で、名町奉行として知られた大岡越前守忠相ゆかりの寺院である。本殿大岡忠相は寺社奉行時代、将棋界より囲碁界優位の慣例を廃止する「碁将棋名順訴訟事件」で将棋界の訴えを退け囲碁界を救った事でも知られている。大岡家は三河時代より豊川稲荷を信仰していたと言われ、忠相は豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請して屋敷に祀り、毎月「午の日」と22日には門
徳川慶喜巣鴨屋敷跡地の碑説明板かつての巣鴨邸(カラー処理)巣鴨駅の近くに江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜公の屋敷跡の碑が建立されている。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送っていた慶喜公は、謹慎解除後も静岡で暮らし囲碁や写真など趣味の世界に没頭していたが、明治30年(1897)、61歳の時に東京に戻り巣鴨に屋敷を構えている。そして翌年には皇居へ参内。明治35年には公爵となり着実に復権への道を歩んでいく。慶喜公は方円社の中川亀三郎から囲碁の指導を受けていたと記録されている