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明治十二年四月二十日に発足した方円社は、神田区表神保町に事務所を置き、例会は神田花田町(秋葉原)の相生亭で行っていた。表神保町の方円社では、後に社長となる石井千治や、田村保寿(後の本因坊秀哉)が塾生として寝泊り。修行の日々を送っていたという。塾生以外では高橋杵三郎も住み込んでいた。また、社長の村瀬秀甫は、すぐ近くの小川町に住んでいて、そこから通っていたという。明治時代の神田神保町方円社の機関誌「囲棋新報」には方円社の住所具は「神田区表神保町2番地」と記載されている。現在の
明治以降、大正末期に日本棋院が設立されるまでの間、日本囲碁界の一翼を担っていった「方円社」は、明治十二年四月二十日に囲碁研究会として発足している。設立当初のメンバーは十名で、当時の第一人者であった村瀬秀甫をトップに中川亀三郎や小林鉄次郎らが中心となり、家元からも林秀栄、安井算英、そして病となった本因坊秀悦に代わり弟の土屋百三郎(秀元)が加わっていた。発会式は、神田花田町の相生亭で行われたと記録され、その後も例会は相生亭で行われていたという。方円社は設立後まもなく、秀栄らが参加の条件とし
朝倉文夫市ヶ谷の日本棋院のロビーに二十一世本因坊秀哉と初代総裁・大倉喜七郎の胸像が設置されている。作者は「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家、朝倉文夫である。朝倉は早稲田大学の「大隈重信像」や、旧東京都庁第一庁舎前に設置され現在は東京国際フォーラムに移設されている「太田道灌像」の作者としても知られている。経緯はよく分からないが秀哉像は昭和九年(1934)に制作されたものと思われ、大倉喜七郎像は喜七郎氏が亡くなった昭和三八年(1963)に棋院の依頼で制作されている。本因坊秀哉
芳川寛治【芳川寛治の概要】大正9年(1920)に文部大臣や枢密院副議長を歴任した伯爵・芳川顕正が亡くなり襲爵したのが娘婿の芳川寛治である。顕正は将棋の十二世名人・小野五平の有力後援者として知られていたが、寛治は囲碁愛好家であり、特に裨聖会の有力支援者として活躍している。寛治は明治15年(1882)に大蔵大臣、外務大臣等を歴任した曾禰荒助子爵の次男として生まれ、三井物産に務めていた明治42年(1909)に芳川顕正の四女鎌子と結婚し娘婿となっている。しかし、寛治は身持ちが悪く妾
JR市ヶ谷駅囲碁モザイクアート説明板日本棋院東京本院の最寄駅であるJR市ヶ谷駅の構内には「長生の図」の囲碁モザイクアートが設置されている。2010年に安全対策で床を防滑素材に張り替えた際に、日本棋院の提案を受けて設置されたものである。「長生」とは同手順を繰り返すことにより永遠に石が死ぬことのない珍しい形で、長寿を連想させる縁起のいいものとされている。モザイクアートは名人井上因碩が著した『発陽論』からのものであり、説明版も設置されている。【住所】市ケ谷駅·〒
芳川顕正明治期から日本棋院が設立される大正末期にかけて日本囲碁界の一翼を担った「方円社」は、明治12年(1879)4月に発足しているが、設立時に賛成者として名を連ねた人物の一人に文部大臣や枢密院副議長を歴任した伯爵・芳川顕正がいる。芳川顕正は、天保12年(1842)に阿波国麻植郡山川町(徳島県吉野川市)の医師の原田家で生まれる。幼名は原田賢吉。医学を学び、21歳の時に徳島市の医師・高橋家の養子となり高橋賢吉と名乗る。文久2年(1862)より長崎へ遊学し、医学・英学を学ぶ中で伊
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山田顕義明治12年(1879)4月に囲碁研究会として発足した「方円社」は、実力主義を謳い家元の権威を蔑ろにしたとして当初参加していた各家元と対立していくが、棋界の第一人者である村瀬秀甫を社長とする会社組織に再編、明治33年(1900)頃には初段以上が全国で500人に達するなど、大正末期に日本棋院が設立されるまで日本囲碁界の一翼を担っている。方円社設立時には各界の名士109名が賛成者に名を連ねているが、初代司法大臣などを歴任した政治家の山田顕義もその一人である。山田顕義の墓(護国
京都伏見区にあった伏見城は豊臣秀吉や徳川家康ゆかりの城で、囲碁との関わりも多い。伏見城は豊臣秀吉が隠居後の住まいとするために築城されている。当初、文禄元年(1592)に伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設されたが完成直後に慶長伏見地震によって倒壊。そのため、指月から北東に約1kmほど離れた木幡山に再建される。慶長2年(1597)に新しい城が完成したが、秀吉はその1年後に城内で亡くなる。秀吉の死後、遺言により豊臣秀頼は大坂城へ移り、伏見城へは五大老筆頭の徳川家康
日本へいつ囲碁が伝来したのかは囲碁史において大きなテーマのひとつであり、これまでも吉備真備伝説など様々な説を紹介してきた。近年の研究では、中国南北朝時代の南朝宋の正史『宋書』に登場する「倭の五王」の時代(五世紀)に伝来したという説も有力な説の一つとしてあげられている。【倭の五王の概要】『宋書』倭国伝によると、宋代(420-479)に、倭国の5代の王、讃・珍・済・興・武が約一世紀にわたり南朝へ使節を派遣し朝貢を行ったとある。邪馬台国以来、いわゆる空白の150年を経て登場した中国での日本の
深谷駅北口渋沢栄一像明治以降の囲碁界の有力支援者であった渋沢栄一の故郷、深谷市にあるJR高崎線の深谷駅は、レンガを用いた東京駅そっくりな駅舎で知られている。耐火性に優れたレンガ造の建物は明治初期には需要も少なく、レンガは国内では当初、瓦職人や大工・左官職人の手によって生産および建築が行われていた。しかし、明治4年(1872)に発生した銀座や丸の内一帯を焼き尽くす大火をきっかけに銀座煉瓦街が形成されると、レンガの需要が逼迫。そこで渋沢栄一が目を付けたのが故郷の深谷。良質な粘土が採
渋沢栄一記念館多くの企業や団体の設立に関わり「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、明治以降の囲碁界の有力支援者のひとりでもあった。「渋沢栄一記念館」は栄一の生まれ故郷、深谷市で平成7年(1995)に開館した記念館である。なお、建物は八基公民館を兼ねる市の複合施設である。栄一ゆかりの遺墨や写真など貴重な資料が展示されているが、囲碁に関する資料は確認できなかった。なお、栄一のアンドロイドによる講義を希望する場合や、10名以上の団体はネットによる事前予約が必要。渋沢栄一像
「棋待詔」は唐朝第9代皇帝玄宗によって制定された囲碁をもって皇帝に仕える官人である。唐末期の棋待詔、滑能は稀世の名人と言われた人物だが、次のような伝承が残されている。滑能がすでに待詔の職にあったある日、張と名乗る十四歳の少年が訪ねてきて対局を求めてきた。少年は先番を乞うて対局となったが、滑能は大いに苦心して思考を重ね着手すると、少年がすぐに打ち返してくるという状況が続く。局面も技量も自分が劣っていると感じた滑能は、終局前に職務にかこつけてその場を去ってしまった。名人といわれた滑能が
囲碁界とも深い関わりのあった渋沢栄一の生家、埼玉県深谷市の「中の家」の周辺には、栄一ゆかりの史跡が点在している。「晩香渋沢翁招魂碑」「先妣渋沢氏招魂碑」生家裏手の竹藪にいくつか碑が建立されている。「晩香渋沢翁招魂碑」は、栄一の父、渋沢市郎右衛門の招魂碑で撰文は尾高惇忠、「先妣渋沢氏招魂碑」は栄一の母、渋沢えいの招魂碑で撰文は栄一によるものである。「渋沢平九郎追懐碑」「渋沢平九郎追懐碑」は、尾高惇忠の弟で栄一の養子となった渋沢平九郎の追懐碑である。平九郎は彰義隊の
唐朝末期の第21代皇帝僖宗には囲碁にまつわる伝承がある。【僖宗の概要】僖宗は第20代皇帝・懿宗の五男として生まれ、873年に父の崩御にともない12歳で即位する。しかし、政治の実権は宦官田令孜が握り、僖宗自身は遊蕩の生活にあけくれていたという。政治の腐敗と天災が重なり不満が高まる中、王仙芝の乱、黄巣の乱をはじめ,農民の反乱が各地で起こり、880年に帝は長安を逃れ蜀の地域を転々としていく。そして、地方の軍閥の力を借りて反乱軍を鎮圧し、885年にようやく長安へ戻るが、この頃には地方
「中の家」門中の家「日本資本主義の父」と呼ばれ、多くの企業や団体の設立に関わった渋沢栄一は、明治維新後の囲碁界の有力支援者の一人である。渋沢栄一の故郷である埼玉県深谷市血洗島には通称「中の家(なかんち)」と呼ばれている生家が残されている。渋沢一族はこの地に土着した開拓者のひとつで、分家が数々の家を興している。「中の家」もその一つで、名称は各屋敷の位置関係に由来しているという。建物内部の様子若き日の栄一像中の家は、代々農業を営み、養蚕や藍玉づくりと販売、雑
囲碁好きで知られた唐の玄宗皇帝は、開元初年(713)に囲碁をもって皇帝に仕える棋待詔という制度を設けているが、その中の一人、王積薪は国手と称され讃えられている。一説には囲碁の心得を説いた「囲碁十訣」の作者とも言われているが、これには異説もありはっきりしていない。王積薪は、唐の玄宗の時代に農家で生まれ、早くに父母を亡くし山に入り柴刈りで働いていたという。このとき山中の寺院で僧侶達が碁に興じているのを見て碁を覚え、やがて僧侶達を上回る実力になったという。その後、旅に出て腕を磨き、やがて
首尾稲荷神社道路側案内板港区芝大門にある首尾稲荷神社という小さな祠は芝大神宮の兼務社のひとつで、元禄9年(1696)に難病に悩む田村三郎兵衛の夢枕に稲荷大神が現れ命を助けられたことから、稲荷大神が勧請されたと伝えられている。その祠の裏側(道路側)に「尾崎紅葉生誕の地」の説明板が設置されている。明治期を代表する小説家の尾崎紅葉は、慶應3年(1867)に芝中門前2丁目、現在の芝大門2丁目の尾稲荷神社の近くで生まれる。17歳の時、日本最初の文学団体『硯友社』を結成。翌年
第9代皇帝玄宗は「開元の治」と称される善政により唐を絶頂期に導いたものの、晩年は寵愛する楊貴妃の魅力に溺れて国政を顧みることがなく、「安史の乱」で退位し、半ば軟禁状態の余生を送っている。安史の乱を引き起こしたとして「傾国の美女」とも呼ばれている楊貴妃には、囲碁が絡んだ玄宗皇帝との逸話が残されている。【楊貴妃の生涯】楊貴妃は719年、蜀の国(現在の四川省)の地方役人の家に生まれる。もともとの名は楊玉環。貴妃は皇帝の側室の中で皇后に次ぐ高位の者に与えられた封号である。幼いころに両親を
玄宗(歴代君臣圖像)【玄宗皇帝の生涯】唐を絶頂期に導いた第9代皇帝玄宗は囲碁好きで知られ、その代に碁は盛んとなる。玄宗は第5代皇帝睿宗の三男として685年に洛陽で生まれる。諱は隆基。隆基(玄宗)が幼少の頃は祖母の武則天が中国史上唯一の女帝となり、国号が唐から周(武周)へと変わっていた。二代皇帝太宗の側室であった武則天は、太宗崩御により出家していたが、三代高宗の側室として再び迎えられ皇后にまで登り詰める。高宗に代わり垂簾政治を行い、敵対する貴族を排除して貴族以外でも有能な
太宗中国の唐の時代は高名な打ち手が現れ囲碁が大いに発展した時代である。今回は、二代皇帝太宗の囲碁に関する逸話を紹介する。【唐王朝の成立】長く続いた中国の南北時代は北朝・北周の外戚である楊堅が北周、次いで南朝の陳を滅ぼし終焉を迎える。五八九年に楊堅(文帝)が皇帝となり隋王朝が成立。文帝は学科試験により官吏を登用する科挙や律令制による中央集権体制の確立など斬新な政治改革を断行していく。日本も聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣し新しい制度を取り入れていった。しかし、文帝は次
高松城跡公園内説明板岡山市北区高松にある高松城は豊臣秀吉が水攻めを行ったことで知られる有名な城跡である。築城時期ははっきりしないが戦国時代の備中守護代・三村氏の家臣・石川氏が築城したと言われ、三村氏が毛利氏に滅ぼされると勇将・清水宗治が城主として入っている。天正10年(1582)、織田信長の命で中国攻めの先鋒を務めた羽柴秀吉は高松城攻めに取りかかるが、周囲が沼地に囲まれた高松城は難攻不落を誇っていた。そこで、低湿地帯である事を利用して考え出されたのが水攻めであった。
宇喜多氏、徳川氏に仕えた武将の花房職秀(後に職之)には囲碁にまつわる逸話が残されている。職秀は、天文18年(1549)に宇喜多氏の家臣.花房職勝(職治)の子として生まれ、若い頃に囲碁の対局でいかさまをした相手に激怒し、碁盤で相手を殴り殺し出奔したと言われている。宇喜多氏家臣・明石景行に仕えた職秀は、戦いの中で頭角を現し、宇喜多直家に気に入られ仕官。足軽大将として各地を転戦し、天正5年(1570)には美作国に荒神山城を築城。天正5年(1577)からは赤松氏、浦上氏と交戦し、天正7年(15
吉備津神社本殿囲碁の愛好家として知られた第29代内閣総理大臣・犬養毅の巨大な銅像が故郷岡山県岡山市の吉備津神社に建立されている。吉備津神社は備中国一宮で、主祭神は、吉備を平定したといわれる大吉備津彦命である。吉備津彦命は第7代孝霊天皇の第三皇子で、崇神天皇10年に四道将軍の一人として山陽道に派遣され吉備を平定している。一説にはその話が鬼退治として伝わり桃太郎伝説が生まれたと言われている。現在の本殿および拝殿は室町幕府3代将軍・足利義満が応永32年(1425)に再建したも
頭山満明治から昭和初期にかけて活躍した右翼の巨頭頭山満は、「頭山といえば囲碁」といわれるほどの囲碁愛好家で、囲碁界の有力な支援者でもあった。【経歴】頭山は安政2年(1855)に福岡藩士の筒井家に生まれ、明治6年(1873)に母方の頭山家へ婿養子に入る。16歳の時に福岡藩の女性の儒学者の高場乱の門人となり、明治9年には「秋月の乱」「萩の乱」で福岡藩士に蜂起を促したため投獄されている。そのため尊敬する西郷隆盛が起こした西南戦争へは参加する事ができなかったという。板垣退助らが中心
新宿中央公園から眺める東京都庁熊野神社境内拝殿東京都庁近くにある熊野神社は新宿総鎮守として古くから人々に信仰されてきた。神社に隣接する都庁前の「新宿中央公園」は、かつての熊野神社境内である。室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた紀州出身の商人・鈴木九郎が熊野三山から十二所権現を移し創建されたことから、かつては「十二社」(じゅうにそう)と呼ばれていた。現在も神社西側の十二社通りにその名を留めている。「十二社」は江戸時代には江戸近郊の景勝地として知ら
牧野伸顕大正13年(1924)に設立された日本棋院の初代総裁は大久保利通の次男の牧野伸顕である。牧野伸顕は文久元年(1861)に鹿児島で生まれ、生後まもなく親類の牧野家の養子となる。明治維新を迎え、明治4年には父・大久保利通を含む政府首脳による海外視察「岩倉使節団」に同行し、11歳でアメリカへ留学。明治13年に外務省に入省し、イタリア公使等を経て文部大臣、外務大臣等を歴任している。大正8年、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」に次席全権大使として参加しているが、この時、日本
延壽寺山門東京都台東区谷中にある延壽寺には、健脚の神様として知られる日荷上人の像を祀った『日荷堂』がある。延壽寺の創建は第四代将軍徳川家綱の時代である明暦2年(1656)、当初は大乗山延壽院と呼ばれ、同じ谷中にある瑞輪寺の末寺であったが、宝永年間(1704~1710)に身延山久遠寺の直末となっている。本堂宝暦5年(1755)に延壽寺と名を改め、その際に身延山山本坊より日荷上人尊像を勧請。尊像は現在も、日荷堂に安置され、毎月一日と十日にご開帳されている。日荷堂の絵馬
称名寺健脚の神様として信仰される日蓮宗の日荷上人が、仁王像を賭けて囲碁の勝負をしたのは称名寺の住職であると伝えられている。神奈川県横浜市金沢区金沢町にある真言律宗別格本山・称名寺は、北条一族のひとつ金沢北条氏の祖、北条実時のが開基で、屋敷内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)が起源とされ、正嘉2年(1258)の創建と伝えられている。仁王門北条実時は鎌倉幕府第2代執権・北条義時の孫で4代執権北条経時から8代執権の北条時宗まで歴代執権を支えた幕府の重鎮であった。称名寺は鎌倉時代、
犬養毅第29代内閣総理大臣・犬養毅は、囲碁の愛好家で、明治・大正期の囲碁界の有力な支援者としても知られている。犬養毅は号をとって犬養木堂と称されることもある。【犬養毅の生涯】犬養毅は安政2年(1855)、備中国庭瀬村字川入(現:岡山市北区川入)で大庄屋を務める犬飼源左衛門の次男として生まれる(のちに犬養と改姓)。犬養家は桃太郎のモデルといわれる吉備津彦命に従った犬飼健命の子孫と伝えられ、桃太郎伝説における犬の子孫といわれている。明治9年(1876)に上京して慶應義塾に