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御家元席を後にして向かったのは月窓軒。こちらは男子席で、大台子と聞いていたので、絶対に外せません。床は四代将軍家綱公御親筆の柿本人丸画。人丸というのは、人麿(人麻呂)のことで、柿本人麿は飛鳥時代の歌人。人麿を人丸と呼ぶのは罪人になったからという説があるそうで、人麿刑死説の一因にもなっているそうです。ちなみに平安時代には「人丸」と表記されることが多かったようで「ひとまる=火止まる」と解して「火の神」としても祀られています。もちろん歌の神としても祀られています。
古田織部に関する茶道具関係は多く残っているが、住居、茶室、庭園は現存するモノは殆ど無く、茶室に限っても藪内家に伝わる燕庵、奈良国立博物館の八窓庵も残念ながら復元されたものである。庭園については唯一、武野紹鴎、千利休が修行をした堺市の南宗寺の方丈南側の枯山水庭園。国の名勝にも指定されているが、織部の焼き物からは想像できない位、落ち着き払った平庭枯山水と背後の石組で纏められている。堺市ホームページより豊臣秀吉・徳川家康の茶堂に抜擢されながらも、これほどまでに遺構が少ないのは、
毎年恒例の「京の冬の旅」が開催されている。何度も目にするものもあるが、今回の注目は何と言っても40年ぶりに公開される、西陣の興聖寺の「降り蹲踞(つくばい)」。私もこの地に古いお寺があるのは知っていたが、具体的な事は全く知らず、ネットで調べてみたが、ネット文化が始まってからは一般公開されていないので、殆ど詳しい事は解らないまま、先日伺ってきた。興聖寺は慶長八年(1603年)に、虚応円耳と云う、日蓮宗の僧侶を開山として、大名茶人・古田織部により創建と伝わる。1701年より日蓮宗
利休と秀吉の間に起こった悲劇は、織部と家康の間で反復される。朝顔の一件のような出来事が前者の間で積み重ねられたように、後者の間にあっても、清韓禅師のような出来事が繰り返されたにちがいない。とくに織部の場合は、瀬田の唐橋や佐竹の陣での竹束のエピソードで明らかなように、思い込んだら周囲を気にすることなく夢中になる傾向があるので、あるいは利休よりもずっと家康の機嫌を損ねる機会が多かったかもしれない。神屋宗湛は織部の歪み茶碗のことを「ヘウゲモノ」(ひょうきんな、おどけたひと)と呼んだ。織部はふざ
ソフトバンク孫会長が昨日の会見で、「稼いだ利益を3か月で吐き出した」と切り出し、自虐的に背景に砂嵐の映像を流し演出し「真冬の大嵐に突入した」と述べた(´艸`)。…中間決算で最終利益8割減、中国のIT大手「アリババ集団」の株も急落し、SBGの保有資産に占める価値は、この1年で約6割から約3割に下がった。結局、日本経済のオピニオンリーダーの孫氏が、大半の利益がギャンブル的な投機によって成り立っている事を示すもので、汗水流して働いて「稼ぎ」を得るより、パソコン操作で利益を得る
京都の堀川寺ノ内にある臨済宗「興聖寺」は、織部寺とも呼ばれ、茶人・古田織部ゆかりの寺院として知られています。通常非公開の当寺院ですが、現在、春の特別公開として受け入れている(3/30~5/6)とのことで、桜の見頃は逃しましたが、参詣しました。参道を進んで奥に見える中門を潜ると、両脇には青モミジが並び、正面奥には本堂(下)が見えました。本堂内は撮影禁止でしたが、本尊である釈迦如来を中央に、左に達磨大師、右に弥勒菩薩が祀られており、天井には雲龍図が描かれています。
いつも読んで頂き、ありがとうございます。今月の同門誌、「千家人物散歩」は「武蔵鐙の文」。千利休から古田織部に宛てて書いた、数少ない、書状です。小田原攻めに居た、利休が、織部に最高の出来の花入れを送り、その返事の返事。歌を添えて、その花入れの素晴らしさを語り合う二人の関係に、熊倉先生も、「内容も筆跡も素晴らしく、全文紹介したいところですが、それだけでこの回は終わってしまいますので…。」と古文書好きが溢れ出ています。最後に、利休最期の前に細川三斎と古田織部が
これは、「武蔵鐙(むさしあぶみ)」と言います。武蔵国で作られていた鐙(あぶみ)(乗馬の際、左右の足をかけて支える馬具)に似ているので、この名前がついたそうです。サトイモ科の多年草で、苞(ほう...つぼみを包むように葉が変形した部分)は、上部が幅広く、鐙(あぶみ)状をしています。「浦島草」にも少し似ていますね。この「武蔵鐙(むさしあぶみ)」にまつわる利休の手紙があります。秀吉の小田原征伐に同行した利休が関東遠征に出掛けた「古田織部」に宛てた手紙です。「むさしあぶ