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楠木正成を代表とする「悪党」とは何か、彼等はなぜ後醍醐天皇のために最後まで戦ったのか、って話をします。「悪党」とは、鎌倉幕府から認められた御家人ではない、「武士とは認められていない」非正規武士のことです。悪党は幕府体制に入らない者を差していますから、悪の意味は「bad」ではなく「irregular」です。元寇をきっかけに、鎌倉幕府は従来勢力範囲外だった西国の武士たちを組織化することに成功しました。かえって幕府の威勢は高まっています。ところが。鎌倉幕府が滅亡したのは、貨幣経済の浸透です。
緑風荘の座敷わらしの由来およそ670年くらい前の南北朝時代。当家の先祖である藤原朝臣藤房(万里小路藤房)は、南朝の後醍醐天皇に仕えていました。しかし、南北朝戦争において南朝は敗北し、北朝の足利軍に追われ現在の東京都あきる野市に身を隠しました。その後、さらに北上を続け、現在の岩手県二戸市にたどり着きました。道中、二人連れていた子供の内、当時6歳だった兄の亀麿が病で倒れ幼き生涯を閉じました。その際『末代まで家を守り続ける』と言って息を引き取ったそうです。その後、守り神<座敷わらし>として
「南北朝の戦い」というのは、実は「源平合戦」と同じくらい、誤解を招く表現です。南北朝時代を「南朝と北朝が戦った時代」と考え「北朝の勝利で終結した」という捉え方は、あまり実情を反映していないからです。つまり、北朝の天皇は、戦ってもいないし勝ってもいません、実際のところを見れば。足利尊氏や後醍醐天皇のせいで天皇家が二つに分かれちゃった訳では、ありません。天皇家は、尊氏よりずっと以前、鎌倉時代のうちから、「持明院統」と「大覚寺統」の二つに割れて、交互に天皇を出しながら反目していたんです
この冬最強の寒波に、買い置きしておいた奈良・吉野の葛湯「吉野拾遺」を取り出していただきました。「吉野拾遺」は本来、後醍醐天皇、後村上天皇治世下の南朝での出来事を記した説話集で、室町時代に編纂された書名です。奈良県吉野の名産・葛を用いた“葛湯”に「吉野拾遺」の菓銘を用いて吉野の土産物にしたことに感心しました。向田邦子は随筆“思いも受けて・・・”の中で「吉野拾遺」をこよなく愛したことが記されています。お湯で溶かしてトロトロになった葛湯を、木製のスプーンですくって、少しずつ舐めるよう