ブログ記事2,210件
↑神田川の桜並木昨日、夜桜花見を行ってきました。去年に比べて今年の桜は咲くのがやたら遅かった。去年は三月の終わり頃にもう咲いていたが、今年は四月の頭はまだつぼみで、今週に入ってようやく咲いたという感じ。咲いた時点でもう葉が出てしまって、満開だが葉桜だというのが残念。さらに残念は続き、コロナ流行直前で死去してしまった親友大久保氏に研究家あさくらゆう先生が加わった形での追悼花見でもあります。大久保氏は私が就職で東京に出てきたその日から知り合いで、何でも相談できる間柄で、コミケで幕末ヤ撃団
みなさん、こんにちは。少し前の話ですが福島県に旅行に行ってきました。今回は福島県でも西の方の会津地方です。※外出の際は「新しい旅のエチケット」を参考に、感染リスクを避けてお出かけください会津は会津藩の「白虎隊」が有名です。あまり詳しい内容は知りませんでしたので、今回は白虎隊記念館に行き展示物や案内を見て、歴史や背景を知ることができました。小学生の頃に訪れたことがありますが、大人になってから改めて訪れてみると色々と感じるものがありました。大内宿にも行きました。江戸時代に宿場町として
こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。今回は澤野大樹氏青森講演会フライヤーを持って、三沢市へお邪魔してます。三沢は旧斗南藩です。小川原湖に沈む美しい夕日と斗南藩に流された会津藩士の無念と重なり涙が込み上げてきました。湖面から魚が勢いよく飛び跳ねるのを見たのはこの日が初めてでした。※動画には飛び跳ねる魚は映ってません(泣)小川原湖は米軍三沢基地と隣接しております。小川原湖と斗南藩記念施観光村と三沢市のガイドをしてらっしゃる坂本さんに
これから書くことは(*/∀\*)❣️勝手な美海おばさんの考えで~歴史的な何かとか宗教とか…なーんにもわからずに私の魂の思いだけで書きますので賛否両論あるかと思いますそこは、多様性の時代まあ、変なおばさんがいるな…くらいでおおめに見てねでは本題~大和魂(やまとだましい)や武士道って聞いたことありますか英語に訳すとわかりやすいのだけど◆大和魂「theJapanesespirit」そうスピリット!🇯🇵民族固有の勇敢で潔いことが美徳とされる~精神をさす言葉として
今日の昼間は暑かったですね私、夜はまだタオルケット2枚を重ねてかけて寝ているのですが、今朝方、ちょっと寒いなぁ…と、目が覚めました。「ん?」寒いはずですよね。そのタオルケット2枚の間に寝ていました上に掛けていたのは、薄手のタオルケット一枚のみ。あれ?なんで寝る時に気が付かなかったんだろう…それとも夜中に無意識にタオルケットの間に潜り込んだ、かなさて、久しぶりの幕末記事です覚えていらっしゃいますでしょうかちょびっとばかり「天狗」?になった勇さんを諌める為に、
そうだ!第3の道で行こう。現在の皇室制度は、女性皇族の婚姻が続き崩壊寸前です。いつか共和制なら第3の道で行きましょう!ここでは現在の皇室方を取り上げるのではなく、かつて「旧皇族」であった方を頂きにしたらどうでしょうと云う第3の道を示すブログです。(第2の道は、女系天皇誕生か?二重権威(上皇陛下と今上陛下)誕生)時は遡ること…慶応4年(1868)5月6日、明治維新寸前の戊辰戦争の最中に、東北25藩が奥羽列藩同盟を結成。そこに越後6藩も加盟して「奥羽越列藩同盟」を樹立しました。先の鳥羽・伏見
今後、歴史好きの私が興味ある事象・人物について語ります。今回は会津松平家についてです。会津松平家の藩祖・保科正之は二代将軍・徳川秀忠の三男として生まれました。秀忠の正妻は浅井三姉妹の末妹である「お江の方」です。秀忠は織田信長の姪で淀君の妹でもあるこの正妻に頭が上がらず、城内に側室を置くことができませんでしたが、正妻に隠れて「お静」と言う女性と間に男子を誕生させました。それが保科正之です。徳川宗家の血筋(秀忠の血筋)は会津松平家以外すべて途絶えてしまい、現在まで徳川宗家の血筋を繋いだ
☆主は変わってもそこに咲く桜の花*天下一・高遠(たかとう)の桜(伊那市)高遠城址1500本の「コヒガンザクラ」その美しさと中央アルプスを望む眺望は”天下一”二代将軍・徳川秀忠には、三代将軍となる「家光」のほか、側室に男児がいたが、極秘裏に信州・高遠城で育てられていた。家光は、将軍になってから始めて、弟の高遠藩主「保科正之」の存在を知る。
昨日の続きです。ちょっとわかり辛かったかもしれないのですがとりあえず今、「安政六年二月日」兼「同年山田浅右衛門の試斬銘」のある「元興」が三振りある、ということはご理解頂けたかと思います。ひとまずそれはちょっと横に置いておいて(笑)兼定と元興のことについて、お話したいと思います。新選組土方歳三の愛刀として伝わっている刀に、「和泉守兼定」と「大和守秀國」があります。以前にも書きましたが、「和泉守兼定」は二人おりまして、「関二代兼定(ノサダ)」と、「会津十一代兼定」です。現在土方歳
大河ドラマ「八重の桜」で、綾野剛さんが容保公を演じました。会津若松の地元の人に伺うと、今までで一番雰囲気が似ていたということです。ドラマでは、容保が松平春嶽(村上弘明さん)に耳打ちされます。藩祖保科正之の遺訓です。その御家訓15箇条は、どんな時でもどんな場合でも、徳川宗家に忠勤を尽くすこと。だから、このたびの京都守護職をお引き受けなされと重ねて言う場面です。容保は、高須松平家から会津松平家に養子になり、第9代会津藩主となりました。他家から入って藩主となったことも、より会津藩
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」お城めぐりの旅、会津若松城その2の紹介です。5月下旬に親父のふるさと会津に行ってきましたので、僕の第二のふるさと、会津のことを少し紹介しますね。僕が執筆した城びと記事「会津若松城の見どころ5選」もご覧ください。城名(別名)住所関連する人物会津若松城(鶴ヶ城、若松城、黒川城)福島県会津若松市追手町1−1加藤嘉明、加藤明成、松平容保、白虎隊、新島八重誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせくださいますよう
会北史談会の定期総会が来る29日午前10時から喜多方市の喜多方プラザ二階の会議室で行われますが、そのときに私が「会津白虎隊の精神」と題して話をすることになっています。白虎隊の少年たちの死は、あまりにも壮絶なものでしたが、なぜ国に殉じたかというと、そこには山崎闇斎の朱子学、さらには藤樹学の影響があったからです。いうまでもなく、朱子学は天皇絶対であり、会津藩の家訓(かきん)における「大君」という言葉は、天皇を意味するという解釈もあります。幕府を第一と考える場合にしても、その上に天皇がおられ
本日は、会津藩主松平容保公の命日。大河ドラマ「八重の桜」では、綾野剛氏が演じました。ほんとに、容保公が乗り移ったような熱演。(お顔だちも似ているんですよね)容保公自身は、東京四谷生まれですが、美濃高須藩出身。岐阜生まれの剛くんとは、美濃繋がりでもあります!縁を感じます。きれいなお殿さまや~。こちらが容保公の居城であった鶴ヶ城。立ち姿がまぢで美しい。が、幕末、悲運な運命を辿る城でもあります。現在は復元の城。でも、石垣や縄張りなど、当時の面影を残すものは多数あります。なんと