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去年の春以来、1年ぶりの墓参りは、下関長府にある功山寺という寺へ。ここは高杉晋作が騎兵隊を決起した言われる場所。毛利家の墓や明治維新で活躍した要人の墓がいくつもあるこの場所に私の先祖が眠っている。『あんたは、とても偉いひい爺さんから名前を貰っているんだよ』小さい頃、耳にタコが出来るくらい母によく言われていた。どんだけ偉い人なのか、その価値が分かるのに実に40年以上も掛かってしまった。幕末生まれの曽祖父は、長州の支藩である長府藩士出身で後に日露戦争の陸軍大将になった乃木希典将軍と
『奮発震動の象あり』松野浩二松野浩二は山口大学・工学部のOBで、日立金属の社長・会長を務められた方で、現在は山口大学の特別顧問をしている。本の内容は『長州五傑』のことも含めて、『松下村塾』の教育についていろいと書いてある。明治維新の起爆剤となった長州藩ではあるが、『松下村塾』ぬきには語れないのは周知のことである。この中で特に着目したいのは『玉木文之進』である。杉百合之助の次男として生まれた松陰は幼名を大次郎といい、毛利藩の軍学師範の叔父大助が早くに亡くなったので、養子として、その吉田家の跡
乃木希次・寿子夫妻の墓乃木希次乃木寿子日露戦争の英雄・乃木希典が生まれた長門国長府藩(長州藩の支藩)の乃木家は、宇治川の先陣争いで知られる佐々木高綱を祖とし、希典の高祖父・乃木傳庵が長府藩に藩医としてに仕えて以降、江戸詰めで代々医師として藩に仕えています。希典の父・乃木希次は、文化2年(1805)に分家の長州藩に仕える乃木家で生まれますが、文化6年(1809)に本家の養子になっていた兄希幸が亡くなり、兄の養子となって本家の家督を相続します。希次は医師としてではなく、武
って、漫才コンビみたいな名前ですよね。と若者が言うので、失礼ながら思わず大爆笑してしまった。いうまでもなく、島崎藤村である。聞くと、文学史の教科書で見たことあるとのこと。最近でも国語の教科書には夏目漱石やら森鴎外、志賀直哉などの小説が採用されているらしいから、今の若者にも明治~昭和初期の作家は身近なんだそう。でも、遙か昔の歴史上の人物として捉えているから、その作品も歴史書、古典みたいなものと言う。『舞姫』『城の崎にて』と『源氏物語』『徒然草』が同じカテゴリーなの?と質問したと
2023年05月04日(木)09時44分28秒の記事を復刻デマッターは本当にシツコイからな。定期的に斬る。明子さん通報ありがとね!ちょっとストックから持ち出したわ。これも全部ウソやで。すごいですねぇ、わざと画質を劣化させ、さらにわざと青い色にして印象操作をブーストしてるんだよねこれ。小さい文字は潰れて判別不能にしたりとか、コスいねぇ。で、ちゃんと原本は俺見つけてるからね。これが陰謀論者がよく使う説明入り画像に俺が本当の名前を書きこんだやつです。黄色い縁取りをした文字
むしろ「史実に反するエンタメ狙いのフィクション」ではない、ってところに、ポイントっていうか、問題があるんです。坂の上の雲は、もちろん小説です。松山出身の同世代の二人、正岡子規と秋山真之、それと兄の好古の三人を主人公にして、日露戦争に向かう上り坂の日本の姿を、社会と文化のいろんな側面から多面的に描いていこう、っていう意欲的な小説だったんですが。ところが、司馬遼太郎先生というのは御存知のとおり、徹底的に調べて書く人なんで、だんだん取材成果の発表のほうの比重が増えてきて、特に正岡子規が死んだあとは
乃木保典の墓(手前)乃木兄弟。乃木保典は右側陸軍大将・乃木希典の次男である乃木保典は、明治14年(1881)に生まれています。父親に似て前向きで明るく人懐こい性格で、母方に似て学才も優秀であった保典は陸軍士官学校に15期生として一発合格します。兄の勝典は3度目でようやく合格したものの、それを僻むこともなく兄弟の仲は大変良かったといわれています。日露戦争に歩兵第15連隊小隊長として出征した保典は、父希典が指揮すろ旅順要塞攻略のための203高地での戦いに参加。明治37年(190
8月19日中村区の戦争遺跡を巡りました忠魂場?どこかの神社の土地なんでしょうか?日比津町にある、乃木希典像、コンクリート製砲弾、忠魂碑などが建っている場所です。諏訪消防団詰所の隣です。奉納砲弾(コンクリート製)と乃木希典像。名古屋城の乃木倉庫の乃木将軍です。戦役記念碑、忠魂碑、大東亜戦慰霊碑星と錨の燈籠戦争遺跡とは関係なさそうですが、日比津町でお墓のような石碑を見かけました。左の燈籠がありません。全面には南無妙法蓮華経とありますが、側面には五穀