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7:40AM@高知駅🚃💨全国的に今シーズン1番の冷え込みということで、南国土佐でも冷風が顔に刺さる寒さです昨日から気になっていた巨大像は写真向かって左側から「武市半平太」、「坂本龍馬」、「中岡慎太郎」と土佐藩で幕末に活躍した偉人「勤王志士」たちでした息子に質問され、ググる私、、、、今の天皇を中心とした国家があるのもこの方々が命をかけて国のため、国民ひとり1人のために行動したからであること、山口県にも関係ある人もいることなど伝授子どもから学びますそれぞれのお名前は高知県出身の橘京身さんが
別手組の隊士となっていた海野弦蔵がいつ見廻組に編入されたのか、実ははっきりしないのですが、慶応元年(1865)十二月二十八日付で入隊した21名の名簿の中に「海野繕蔵」なる人物がいるので、おそらく筆記者の聞き取り間違いで、これが弦蔵のことだと思われます。別手組は前年の元治元年(1864)五月に隊士のうち200名が上洛し、御所の警備に当たっているので、あるいはそこから引き抜かれたのかも知れません。「海野繕蔵」が弦蔵だとすれば、入隊時には平隊士にあたる「見廻組」であったのですが、慶応三年十月
高知県には桂浜に坂本龍馬の銅像が建っており、幕末の英雄として祀られて観光スポットとなっています。坂本龍馬ファンも多いので書きにくいのですが、彼が決して日本に取っては英雄ではなかった事をここに書いて置きましょう。龍馬か暗殺された時に盟友の中岡慎太郎も切られたが、彼は止めを刺されずに2日間生きていました。その様子をつぶさに聞いていたのが土佐藩士田中光顕ただ一人でした。龍馬の海援隊として活動するのに、亀山社中という日本初の株式会社がありますが、その定款の中には【射利】を得るとあり、金儲け
京都見廻組・桂早之助は京都所司代同心桂清助の長男として生まれました。生年については主に二説あり、『桂早之助略伝』(川田瑞穂/大正六年)では生年を明記していないものの、嘉永四年(1851)に十七歳で同心になったとし、慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いで戦死した際に「享年三十四」としていることから逆算して天保六年(1835)生まれということになります。一方、『霊山歴史館紀要(8)』収録の「龍馬を斬った男見廻組・桂早之助の履歴」(木村幸比古/1995)では天保十二年(1841)四月生まれと
さて…ライオンズファンにとっては地獄の公式戦再開です…トホホ。なんか噂では、どこのチームもトレード交渉相手にしてくれないとか…トホホ。ソレはさておきですね…歴史小説・人魚ノ肉を読む。作者の木下昌樹は1974年生まれ。若手作家系ということになるのか…。木下昌樹はアンソロジー決戦シリーズで知りました。■前書いた記事はコチラ『決戦・本能寺を読む。』さて…決戦・本能寺を読んでます。。花粉の猛毒で殆ど外出できませんしね、やはり歴史小説比率が高まるです。この本は講談社の決戦
一人の刺客が、首をかしげた方の男へ、「コナクソ」と叫びながら、刀を抜き打ちざまに前額部を払いました。首をかしげたのは坂本龍馬です。この時、龍馬の頭から脳漿が飛び散ります。この脳漿と血痕が、龍馬の後ろに掛けてある、先ほど板倉より贈呈された掛軸に悲劇の後を残します。驚いて屏風の陰に置いてあった刀をとろうとした中岡も背中を斬られます。龍馬はだるまのようにふくらんだ身体を動かし、床の間に掛けてあった刀をとろうとしたところ、向けた背中を斬られます。さらに振り向きざま、にぎった刀で鞘ごと防ぎます
【京都】京都市東山区清閑寺霊山町の坂本龍馬と維新の志士が眠る京都霊山護国神社のステキな【限定御朱印】【京都霊山護国神社御朱印】坂本龍馬【京都霊山護国神社御朱印】中岡慎太郎以前いただいた【京都霊山護国神社御朱印】【京都霊山護国神社御朱印】【維新の道石碑】文字は松下幸之助の揮毫【鳥居】【拝殿】【御祭神】幕末勤王の志士及び明治以降の戦争の戦没者1868年明治天皇の詔により創建。坂本龍馬・