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肥前大村藩士で神道無念流練兵館の塾頭をつとめた渡邊昇(わたなべのぼり)は、新選組に関して二つの証言を残した人物としても知られています。渡邊の証言とは、ひとつは練兵館の塾頭時代、当時天然理心流試衛館の道場主であった近藤勇に道場破りの助っ人を頼まれたという話で、もうひとつは幕末の京都において、自分を尾行している者があるのに気づき、「黒衣、黒袴、問わずしてその新選組たるを知る」とした話です。いずれも広く知られた話であり、特に新選組ファンには知らない人がいないのではないかという
3月、友人たちと大磯に行った際、小田原にも足を延ばせれば、、、と思いつつ結局その時間がなくなり、後日改めて訪れました。友人の一人から、小田原文学館はもともと個人の別邸で、かの曾禰達蔵の設計だよ、と教わったので。家を建てさせた人物は陸援隊所属の田中光顕。田中光顕と聞いて最初ピンとこなかったのだけど、坂本龍馬と中岡慎太郎の殺害現場に真っ先に駆け付けた人、と聞いて、あああの人かぁ、と。近江屋事件では、息がすでに耐えていた坂本と異なり、中岡の方は当初意識があり、事情を駆け付けた人物に
近江屋襲撃の指揮をとったとされるのが京都見廻組の与頭・佐々木只三郎です。佐々木只三郎は天保四年(1833)に会津藩士佐々木源八の三男として生まれました。名は唯三郎とも書き、また諱ははじめ泰昌を名乗りましたが、安政六年(1859)二十七歳の頃に幕臣で同姓の佐々木弥太夫(矢太夫とも)の養子に入ると諱を高城と改めています。実兄に会津藩公用人の手代木直右衛門(勝任)がいます。また養子先の佐々木家は親戚だったとも、縁戚関係はなかったともいわれていてハッキリしません。青年時代までを会津で過ごした只
一人の刺客が、首をかしげた方の男へ、「コナクソ」と叫びながら、刀を抜き打ちざまに前額部を払いました。首をかしげたのは坂本龍馬です。この時、龍馬の頭から脳漿が飛び散ります。この脳漿と血痕が、龍馬の後ろに掛けてある、先ほど板倉より贈呈された掛軸に悲劇の後を残します。驚いて屏風の陰に置いてあった刀をとろうとした中岡も背中を斬られます。龍馬はだるまのようにふくらんだ身体を動かし、床の間に掛けてあった刀をとろうとしたところ、向けた背中を斬られます。さらに振り向きざま、にぎった刀で鞘ごと防ぎます
【京都】京都市東山区清閑寺霊山町の坂本龍馬と維新の志士が眠る京都霊山護国神社のステキな【限定御朱印】【京都霊山護国神社御朱印】坂本龍馬【京都霊山護国神社御朱印】中岡慎太郎以前いただいた【京都霊山護国神社御朱印】【京都霊山護国神社御朱印】【維新の道石碑】文字は松下幸之助の揮毫【鳥居】【拝殿】【御祭神】幕末勤王の志士及び明治以降の戦争の戦没者1868年明治天皇の詔により創建。坂本龍馬・