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【キングダム】穆公(ぼくこう)はまれにみる名君だったのか?歴史の中の秦の穆公歴史関係の本を読むのが好きです。漫画でもキングダムを愛読しています。最近読んだ「人物中国の歴史Ⅰ大黄河の夜明け」(集英社)で、秦の穆公がでてきました。そうです。キングダムで、山の民と友好関係を築いて、秦の勢力圏を西側に大きく拡大し、秦王・政(のちの始皇帝)をして、「穆公はまれにみる名君だった」と言わしめた秦の君主です。以下が
他の一つは、殷の遺民を封じた、宋の様に、旧来の族集団を基本的に維持したままにして、諸侯に封じて、建国させる類型である。周王権は、その支配領域を再編し、政治的影響力を四方に拡大していった。しかし、西周時代の封建制の特質は、武装植民地型の封建制である。その結果、「中華世界」は、拡大の一途を辿ったと言える。紀元前771年、西周王朝が滅亡し、東周、即ち、春秋時代に入ると、周王に対する、諸侯の自立性が高まった。周王の権威が衰退して、封建制が動揺し始めた。春秋時代に入ると、各国間の戦争
ついに皇后になった武后でしたが、王皇后を廃妃した武后は、いつ自分が二の舞を演じることになるかと不安でした。そこで、武后は、女性として守るべき道徳や礼儀をまとめた「女則」を発表しました。「女則」を発表したのは、2つの目的があります。一つ目の目的は、長孫皇后が発表した「女訓」に対抗し、長孫皇后と同等、あるいは、長孫皇后を超える威厳を示すため。二つ目の目的は、高宗に近づく女性を牽制するためです。武后が李賢を身ごもっていた時、高宗と姉・韓国夫人が深い仲になりましたね。「私
李昭徳に続いて、来俊臣の次の標的となったのは、武則天の親族です。かねてより、来俊臣は、収賄の他、他人の妻を奪取するなどしていました。ある日、「左補厥・喬知之の愛人に、碧玉という美女がいる」という話が、来俊臣の耳に入りました。来俊臣は、喬知之から碧玉を奪い取ろうと企んでいました。でも、来俊臣が碧玉に会う前に、碧玉は自害してしまいました。なんと、武承嗣が喬知之から碧玉を奪い取り、絶望した碧玉は自ら命を絶ったんです。碧玉を奪い取るどころか、碧玉に一度も会うことができなか
楊貴妃【桜】オオシマザクラ系統に属するサトザクラの代表的な品種。多数の花弁が織りなす優雅な花の姿を中国史に残る絶世の美女「楊貴妃」になぞらえてヨウキヒ(ザクラ)と命名されました。東京府江北村(現・東京都足立区)の荒川堤で栽培されていた品種で、写真の楊貴妃はその荒川堤で撮ったものです。江戸時代にこの荒川堤から全国に広まりました。江戸時代の著者「花壇綱目」(1681)、「怡顔斎桜品」(1758)などにもその名がみられます。撮影【東京都足立区都市農業公園(荒川堤)2024.4.13】
【キングダム】史記「李将軍列伝」信とその子孫たち司馬遷の史記には、「李将軍列伝」というのがあり、「キングダム」主人公の信の子孫たちが登場します。おもに、取り扱われているのは、前漢時代の李広将軍と李陵将軍です。そしてその冒頭で信も登場します。李広将軍の祖先は李信という。李信は秦の時代に将軍に任じられ、燕国の太子・丹を追撃してその首を得たものである。信は、李広将軍・李陵将軍の先祖の紹介としての登場ですが、秦の有名な
(出典;http://www.chinfor.com/modules/webdoc1/content0073.html)琵琶を抱え、馬に乗る女性。絵画において、そんな姿で描かれるのは、古代中国は漢代の美女王昭君である。彼女は漢の宮廷につかえる宮女だったが、絵師に賄賂を贈らなかったために似顔絵を醜く描かれてしまう。さらにその似顔絵が原因になって異民族匈奴の王に嫁がされることになった「悲劇」の女性である。現代に例えるなら、丸の内の大企業のオフィスで働いていた女性が、アフリカかどこ
中国現代文学珠玉選小説〈3〉Amazon近現代における中国人作家の短編小説選。張愛玲、丁玲、蕭紅といった有名どころから、羅淑や梅娘など、日本ではあまり名前を聞かない作家も取り上げられている。清末以降、近代的な教育制度が整ってきたこともあって、女性も学校で学び、進んだ思想を身につけ始めた。しかし、社会の方ではまだまだ「女性はこうあるべき」という旧習が根強く残っていた。孝行の強制、本人の意思に関係なく親の決めた相手と結婚させる、女性は学問をすべきではない、などなど…。進歩的な女性
キングダムの趙・魏・韓の3国の元の国”晋”その2”春秋の五覇(春秋時代の5人の覇者)”の一人、文公重耳が晋の統治者になりますが、最終的には、臣下の下剋上により、趙・魏・韓の3つに分かれ(キングダムを読まれる方にはこちらの方がなじみがあると思います)、春秋時代から戦国時代になります。その戦国時代に入る前までの大国の”晋”です(秦ではありません)19年の逃亡生活を経て、ついに晋で即位する重耳からです。文公重耳(春秋の五覇)逃亡生活を終え、ついに即位懐公圉は高梁に出奔した