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天海(152)「慶長五年五月三日、徳川家康、陸奥会津ノ上杉景勝ノ老臣直江兼続ノ答書ヲ見テ怒リ、諸大名ニ出征ノ令ヲ下ス、徳川家康、下野ノ士伊王野資信ノ、陸奥会津ノ形勢ヲ報ゼシニ答ヘ、守備ヲ厳ニセシム。」(「史料綜覧」)直江状に目を通すと、家康は激怒し、直ちに景勝の征伐を決意した。ただし、ここまでは家康の想定通りである。景勝は前田家のように、戦わずに屈することはないであろうと考えていた。家康の頭の中には、秀吉が行った「四国征伐」や「九州征伐」の光景が浮かんでいたので
天海(153)「六月十日、陸奥会津ノ上杉景勝、徳川家康ノ出陣セントスルヲ聞キ、部下将士ヲ訓シ、去就ヲ決シム。」(「史料綜覧」)直江状の真贋はともかく、景勝は上洛も再度検討していたようである。ただ、条件として讒言をした者(堀秀治・直政ら)の取り調べを要求したが、家康に無視され、遂に決戦やむなしとなったのである。さて、当時上杉家は120万石であるから、120万石×300人で36,000人の動員が可能と思われる。さらに防衛戦であるから全体で5万人弱の配置が可能であったこと
期間:2024/04/23〜05/08天井:100倍率:2倍初回:半額戦)徳川家康:大老筆頭の帥射)毛利輝元:維新の先触れ武)宇喜多秀家:千軍万馬の構射)小早川隆景:仁愛智将戦)上杉景勝:不変の面貌覇)前田利家:笄斬りの剛直射)赤座吉家:技巧家©コーエーテクモゲームス
大崎城は、私にとって重要な遺構なため、前編で序と山上内郭、後編では外郭(外張付随か)の二編構成にて書きます。上杉の「とばり」については福原圭一(1)、遠藤公洋(2)の研究が手元にあり、要約して前振りした。https://ameblo.jp/mei881246/entry-12582944464.html(1)福原圭一(発表年不明)「中世考古学と文献資料1魚津城の「まるとばり」」(2)遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」、pp.120-3
天海(154)「然らば内府様にとって、この度の会津征伐で、理想の展開とはどのような物でしょうか。」と天海は尋ねた。「うむ、大軍を持って、上杉を屈服させ、戦わずして、勝利することである。その際、金山のある佐渡と庄内は取り上げて、上杉は90万石程度で存続を許す。あれは律儀ものであるから、恩を売れば、忠義で応えるであろう。これが理想であるが、実際に交戦があれば、景勝は隠居させ、上杉には養子を入れて60万石程度で存続させるつもりだ。」と家康は言う。「なるほど、では考えら
花の慶次、これにて完結なり。さて久しぶりに京都に帰ってきた慶次、つーわけで新キャラ登場。結城秀康!徳川家康の次男ですな。長男の信康が切腹させられたので徳川家の長子となったわけですが、秀吉への人質に出されたので徳川家の家督は弟である秀忠のものに。さらに秀吉の養子になったものの秀頼が生まれちゃって邪魔になったのでさらに結城家に養子に出されたという可哀想な人物です。徳川と豊臣、どちらの相続権も持っていながら両方取りこぼしたわけですからね…つーわけで父家康から疎まれながら育った秀康。深い言葉です
美しく怪しいガクト謙信を見ていると、つい連想してしまうのが、「上杉謙信女性説」・・・・最近広まった説だが、調べてみると案外面白かった。wikiに記載されている『謙信女性説』の主な根拠をPICKUPしてみると、①スペイントレドの修道院で見つかった古文書のなかに「上杉景勝は金を会津へ隠しもっている。その金は彼の伯母が、佐渡金山を開発した得たものだ」とある。②松平忠明による『当代記』のなかで、謙信の死因を「大虫」としているが、「大虫」とは、更年期障害による婦人病のことである。
信長の野望はしっかりやるのは嵐世記ぶり、最後にやったのは創造PKかな~いずれにしても10年ぶりくらいの信長シリーズ。楽しみ!木曜日~タイトルから大名選択画面へ・・・ここで各大名の情報をにやにやしながら見ること2時間w悩んだ末に初回は1582年夢幻の如く伊達家で始めることに開始早々本能寺の変が起こり信長が倒れ、秀吉の中国大返し、山崎の合戦、清須会議、賤ケ岳の合戦と続く・・・伊達家も開始早々に政宗が跡を継ぎ、人取橋
【原文】今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。一、当国の儀其元に於て種々雑説申すに付、内府様御不審の由、尤も余儀なき儀に候、併して京・伏見の間に於てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝弱輩と云ひ、似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に候、尊慮易かるべく候、定て連々聞召さるべく候事。一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中当国は雪国にて十月よ
山形駅12時過ぎの電車で、米沢駅に13時過ぎに到着。※※※※※城攻め中にグルメは求めないぷにゅたではあるが、せっかく米沢まで来たんだし、ランチは米沢牛が食べられる店を。電車の中でスマホで見つけた「牛の恩返し鷹山公」。ピークが過ぎていたのか、席も空いていた。↓米沢牛ランチは良い肉を手頃な値段で食べられる。肉はもちろん、小鉢とかおしんことかも美味しかった。↓米沢駅前駅へ戻ってバスを待つ。駅前には前田慶次のノボリが。前田慶次推しなんか最近は。前田慶次住居跡と供養塔が駅の
2020年11月24日山寺の次に立ち寄ったのは、上杉神社でした。戦国最強の武将と語り継がれている上杉謙信を祭神として米沢城本丸跡に建立されたのが上杉神社です。上杉謙信にあやかって開運招福や諸願成就、学業成就や商売繁盛のご利益があるパワースポットになってま.お堀にかけられた橋を渡り、上杉神社へ向かいます。お堀には鴨がスイスイ泳いでましたよ。上杉景勝公と直江兼続公の主従像がありました。左側が上杉影勝公で、愛の兜を持つ右側が直江続継公の銅像にな
この坂戸城、私にとって特別思い入れのある山城で、私が荒戸城と共に山城が好きになったきっかけを作ってくれた所でもあります。2015年4月に城跡巡りを始めて5ヶ月後に残暑厳しい中、荒戸城に行った後に新潟県最大の山城に行くという今考えれば無謀な事したなぁと思っています。(^^;)坂戸城は当時上田長尾城と呼ばれ、長尾政景や上杉景勝、直江兼続の居城として有名で、上杉謙信の姉である仙桃院の嫁ぎ先となった城でもあります。三国街道を見下ろす交通上の要地に位置しているため、越後府中(現在の上越市直江津あ