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半年という時間は、長いようで短かかった。テリィは、いつものようにスザナの家を訪れていた。今日は、通院の付き添いでも、買い物の帰りでもない。ただ、話をするためだけの訪問……それは、ほとんど初めてのことだった。「……座っていいか」テリィがそう言うと、スザナは一瞬だけ表情を動かし、それから静かに頷いた。「どうぞ」テーブルを挟んで向かい合う。湯気の立つ紅茶が二つ。何度も繰り返してきた、見慣れた光景。けれど、今日だけは、空気の密度が違っていた。テリィは、カップに手を伸ばしかけ、そのまま
最初に気づいたのは、ほんの些細な変化だった。通院の帰り。いつもなら、テリィが自然に前に出て、タクシーを止めてくれる。けれどその日、スザナは自分で手を挙げた。「……あ、私が呼ぶわ」そう言った瞬間、彼の動きが、ほんの一瞬止まったのをスザナは見逃さなかった。そして、彼は何も言わずに頷いた。胸の奥で、小さく音がした。——何かが、違う気がする?気のせい?スザナは、もう以前の自分ではない。義足の扱いにも慣れ、階段も、買い物も、時間をかければ一人でできる。仕事もある。ラジオ局でのナレ
スザナの仕事は、順調だった。舞台の脚本を任され、打ち合わせと執筆に追われる日々。締切に追われながらも、作品が形になっていく高揚感は、確かに彼女を生かしていた。「忙しい、って……悪くないわね」そう笑ったこともある。けれど、前触れがなかったわけではない。歯を磨くたびに、歯茎から血がにじんだ。立ち上がると、視界が白くなることがあった。階段を上るだけで、息が切れる日も増えていた。それでもスザナは、自分に言い聞かせていた。疲れているだけ。少し、無理をしすぎているだけ。食欲はある。眠れ
翌朝。エントランスのほうから、重い足音が静かに響いた。グランチェスター公爵が姿を現した。彼はしばらく扉の前で立ち止まり、テリィの背中を見つめた。その瞳には、長年の厳しさも威厳もなく、ただ、ひとりの父親としての、不器用な痛みだけがあった。テリィは父の気配に気づかないほど、精神が深い海に沈んでいた。公爵はケビンに目で問いかける。ケビンは静かに首を振った。「僕には、もう支えきれません。……テリィは限界です。キャンディが……どこにいるのかもわからないままでは……」公爵は喉の奥で小さく息を呑ん
数日後の午後、診療所に一束の新聞が届いた。町の雑貨屋が、まとめて仕入れている地方紙だ。マーチン医師が無造作に机の端へ置いたそれを、キャンディは何気なく受け取り、待合室のラックにしまおうとした。――そのときだった。視界の端に、写真が入り込んだ。一瞬。本当に、ほんの一瞬。黒い見出し。舞台照明の下に立つ、よく知った横顔。《テリュース・グレアム、『ハムレット』、今季最高の評価》《劇団を背負う主演俳優は、今年もブロードウェイの顔に》キャンディの指が、止まった。(……だめ)そう思ったの
団長ロバートは、早朝の劇場にひとり佇んでいた。舞台上には、まだ昨夜のオーディションの気配が残っている。床に落ちたチョークの粉、動かされなかった椅子、閉じきらない暗幕。それらはすべて、決断が先延ばしにされてきた痕跡のようだった。ロバートは、客席の中央に立ち、舞台を見上げる。(ハムレット)十年ぶりの再演は、それだけでも重い。だが、今回は、それ以上に主演の選択が劇団の行く先を決める。「来ていたのか」背後から足音がした。振り返るとブライアンだっ
六月の空は、どこまでも高かった。ニューヨーク州の北寄り、地図を探さなければ見落としてしまいそうなその小さな田舎町は、朝から不思議な熱を帯びていた。通り沿いの雑貨屋のショーウィンドウには、いつもより丁寧に磨かれたガラス越しに、新聞の切り抜きがいくつも貼られている。そこに並ぶのは、見慣れた若者の名前だった。ケビン・マクグラス。舞台評。出演作の紹介。写真は小さいが、確かに“ブロードウェイ”の文字が踊っている。その店の奥で、ケビンの母親は朝から落ち着かなかった。いつものように棚を整えなが
汽車は、夜の大地を切り裂くように走っていた。ピッツバーグを離れ、ニューヨークに戻る特別列車。客車の窓には、街の灯が流星のように流れていく。テリィは、座席に深く腰を沈めたまま、ほとんど外の景色を見ていなかった。頭の中にあるのは、二週間前のあの夜の庭園。ベンチ。夜風。そして、キャンディの、あの一瞬の表情。「……幸せなのか?」自分が投げた問い。そして返ってきた答え。「ええ……私は……幸せよ」その言葉が、どうしても胸の奥で引っかかって離れなかった。嘘だ、と決めつけるつもりはない。
夜のロンドンは、霧を含んだ空気で街を包んでいた。窓の外では、馬車の音が遠くに溶けていく。キャンディは暖炉のそばの椅子に腰かけ、膝に本を置いたまま、頁をめくるでもなく火を見つめていた。テリィはその近くに来ると、口を開く。「キャンディ」呼ばれた声に、彼女は顔を上げる。「なに?」テリィは彼女の前に腰を下ろしてキャンディを見上げる。「俺、次の舞台まで少し、時間を空けた。年始から一か月ほど。アレックスとの仕事、調整してもらった」キャンディの眉が、わずかに動く。「そんなに?どうしたの?」
今さら・でも―キャンディキャンディいつもアクセスいただきありがとうございます©水木杏子/いがらしゆみこ画像お借りしますブログを最初から読む二次小説を最初から読む11年目のSONNET目次スピンオフ本編前本編後キャンディ雑談を読むFinalStoryの考察を読む考察①FinalStoryって?考察②新旧手紙の比較考察③あのひとは誰?考察④Finalと漫画の違い考察⑤テリィの手紙考察⑥男アルバートさん考察⑦
四月。西ロンドン、ノルディックヒルの通り市は、この界隈に暮らす人々の生活の延長として、自然に根づいた市だった。十九世紀の終わり、坂道の周辺には職人や商人、小さな家業を営む家族が多く暮らしていたという。使わなくなった家具や道具、代々受け継がれてきたが手放さざるを得なくなった品々を、互いに持ち寄って売り買いする。この市は、そんな営みの積み重ねから生まれた。◇テリィはその頃、日々ストラトフォードの稽古場で役に向き合っていた。だが、イースターが近づくと、劇場は聖金曜日からイースター・マンデー
アレックス劇団『ハムレット』千穐楽の夜。劇場の前には、惜しみない拍手と歓声がいつまでも残っていた。テリィは汗の冷めぬまま、黒いコートの襟を立てて裏口から出た。冬の夜気が火照った体に心地よい。ケビンとアレックスは、まだ楽屋でスタッフと抱き合い、別れを惜しんでいた。テリィだけが先に外へ出て、しばし静かな空気を吸い込んだ、その時だった。「テリュース・グレアム様でいらっしゃいますね?」霧の中から一人の紳士が歩み寄ってきた。深い緑色の外套、白手袋、そして胸には小さな紋章が光る。“SMTの
会場に足を踏み入れた瞬間、空気が少しだけ重く感じられた。遅れて到着した、からではない。音楽は流れ、グラスの音も、笑い声も、予定通りにそこにある。それなのに、どこか違和感がある。名代として立っているはずの場所に、彼女の姿が見当たらない。(……おかしいな)彼女は、緊張はしても、責任を放り出すことはない。気分が悪いなら、必ず誰かに伝える。「ミス・キャンディスは?」近くのスタッフに声をかけると、少し慌てた表情で答えが返ってきた。「はいっ!少し……気分が優れないとのことでして、席を外され