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昼休みの学院。鐘の音が遠くに消えると、石造りの校舎の間を抜ける風が、草の匂いを運んでくる。キャンディが勝手に名付けた場所、「にせポニーの丘」。ここは本物の丘ほど広くはないが、学院の敷地の中で、ほんのわずかに“日常から外れた場所”だった。キャンディは芝生に腰を下ろし、膝を抱えるようにして空を見上げた。そして、珍しく大きなため息をつく。「……はあ」その音に、隣へ腰を下ろしたテリィが、片膝を立てて顔を向けた。「珍しいな。きみがそんな顔をするなんて」からかうようでもあり、心配している
テリィは、「一年後に連絡する」と決めていた。それは逃げではなく、衝動でもなく、自分の人生を自分の手に取り戻すための、ひとつの区切りだった。仕事の予定を逆算し、巡業の流れを考え、無理のない時期を選び抜いた結果の一年。……一年後には、きっと。そう思っていた。だが、その一年が過ぎた頃、スザナの余命は、静かに燃え尽きようとしていた。◇病室の時間は、外の世界と違う速さで流れていた。時計の針は同じように進んでいるはずなのに、一日が、やけに重い。スザナは、もう自分の未来を語らなかった。仕
スザナの仕事は、順調だった。舞台の脚本を任され、打ち合わせと執筆に追われる日々。締切に追われながらも、作品が形になっていく高揚感は、確かに彼女を生かしていた。「忙しい、って……悪くないわね」そう笑ったこともある。けれど、前触れがなかったわけではない。歯を磨くたびに、歯茎から血がにじんだ。立ち上がると、視界が白くなることがあった。階段を上るだけで、息が切れる日も増えていた。それでもスザナは、自分に言い聞かせていた。疲れているだけ。少し、無理をしすぎているだけ。食欲はある。眠れ
最初に気づいたのは、ほんの些細な変化だった。通院の帰り。いつもなら、テリィが自然に前に出て、タクシーを止めてくれる。けれどその日、スザナは自分で手を挙げた。「……あ、私が呼ぶわ」そう言った瞬間、彼の動きが、ほんの一瞬止まったのをスザナは見逃さなかった。そして、彼は何も言わずに頷いた。胸の奥で、小さく音がした。——何かが、違う気がする?気のせい?スザナは、もう以前の自分ではない。義足の扱いにも慣れ、階段も、買い物も、時間をかければ一人でできる。仕事もある。ラジオ局でのナレ
六月の空は、どこまでも高かった。ニューヨーク州の北寄り、地図を探さなければ見落としてしまいそうなその小さな田舎町は、朝から不思議な熱を帯びていた。通り沿いの雑貨屋のショーウィンドウには、いつもより丁寧に磨かれたガラス越しに、新聞の切り抜きがいくつも貼られている。そこに並ぶのは、見慣れた若者の名前だった。ケビン・マクグラス。舞台評。出演作の紹介。写真は小さいが、確かに“ブロードウェイ”の文字が踊っている。その店の奥で、ケビンの母親は朝から落ち着かなかった。いつものように棚を整えなが
半年という時間は、長いようで短かかった。テリィは、いつものようにスザナの家を訪れていた。今日は、通院の付き添いでも、買い物の帰りでもない。ただ、話をするためだけの訪問……それは、ほとんど初めてのことだった。「……座っていいか」テリィがそう言うと、スザナは一瞬だけ表情を動かし、それから静かに頷いた。「どうぞ」テーブルを挟んで向かい合う。湯気の立つ紅茶が二つ。何度も繰り返してきた、見慣れた光景。けれど、今日だけは、空気の密度が違っていた。テリィは、カップに手を伸ばしかけ、そのまま
団長ロバートは、早朝の劇場にひとり佇んでいた。舞台上には、まだ昨夜のオーディションの気配が残っている。床に落ちたチョークの粉、動かされなかった椅子、閉じきらない暗幕。それらはすべて、決断が先延ばしにされてきた痕跡のようだった。ロバートは、客席の中央に立ち、舞台を見上げる。(ハムレット)十年ぶりの再演は、それだけでも重い。だが、今回は、それ以上に主演の選択が劇団の行く先を決める。「来ていたのか」背後から足音がした。振り返るとブライアンだっ
数日後の午後、診療所に一束の新聞が届いた。町の雑貨屋が、まとめて仕入れている地方紙だ。マーチン医師が無造作に机の端へ置いたそれを、キャンディは何気なく受け取り、待合室のラックにしまおうとした。――そのときだった。視界の端に、写真が入り込んだ。一瞬。本当に、ほんの一瞬。黒い見出し。舞台照明の下に立つ、よく知った横顔。《テリュース・グレアム、『ハムレット』、今季最高の評価》《劇団を背負う主演俳優は、今年もブロードウェイの顔に》キャンディの指が、止まった。(……だめ)そう思ったの
テリィが来客で呼ばれ、部屋を出て階下へ行った。一人になったキャンディは、あらためて宝石箱を机の上に置いた。象嵌細工の蓋を開ける。中は空だ。内側も見事な装飾が施されている。高価な代物であることがよくわかる。指先で内側の複雑に合わされた模様をなぞったとき、底に、ほんのわずかな引っかかりを感じた。「……?」それは爪でつまめ、そして、そっと持ち上げると、音もなく、底板が外れた。なにかが入っている。なんと、そこにあったのは、一枚の写真だった。「テリィ?」幼いテリィと、公爵、そしてエレ
1934年1月。ロンドンの夕暮れは、霧をまとうようにゆっくりと落ちていった。ケンジントンのタウンハウス。グランチェスター公爵家のロンドン邸は、外観こそ壮麗だが、内側はキャンディの工夫でどこか温かさを帯びている。玄関に、来客を告げるベルが鳴った。「ドミニク・ハーディと申します」執事ヘンリーに案内されて入ってきた男性は、寄宿舎の冬空の下で本を読んでいた少年の面影を残しつつ、すっかり落ち着いた紳士の風情になっていた。キャンディが微笑んで迎える。「ハーディさん、ようこそいらっしゃいました」