ブログ記事264件
ロンドンの空は、春なのに冷たい灰色に沈んでいた。劇団の事務室を出たあと、テリィは自分がどのように廊下を歩いたのか覚えていなかった。照明の灯りが濁って見える。周りの声が遠い。床の感触も曖昧だ。ただひとつ、胸の真ん中だけが燃えるように痛かった。あの船にキャンディが乗っている。通信が途絶えている。安否不明。場所すらわからない。それ以外の思考を、世界が拒んでいる。控え室に戻ると、さっきまで読んでいた台本が机に広げられたままだった。「こんなもの……!」掴んだ台本を、テリィは投げた。紙が散らば
ニューヨーク港を離れた客船・アスタリア号は、春の北大西洋へ静かに滑り出していった。汽笛が長く響き、暗い海原を割って進む船体は、巨大な影となって夜の帳に溶け込んでいく。アスタリア号の航海は、順調だった。そう、三日目の夜までは。深夜一転。船内の非常ベルが突如、鋭く鳴り響いた。「機関室から火災!」怒号が走り、乗客たちの眠りは強引に引き裂かれた。廊下には蒸気と焦げ臭い匂いが満ち始める。キャンディは跳ね起き、上着をつかんで部屋を飛び出した。「火事……?本当に……?」乗客たちが叫び声を上
アメリカに戻ったキャンディ。ニューヨークに着いたのは、春の風が街のビルの谷間を吹き抜ける朝だった。港に停泊する客船の甲板から降りたとき、潮風が頬を刺した。キャンディは息を吸い込み、見慣れたニューヨークの雑踏に胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。(急がなきゃ)トランクをひきずりながら、彼女は汽車に乗り換え、ポニー先生が入院しているシカゴのアードレー財団記念病院に向かった。列車の窓から広がる景色は、遠い昔に少女だった頃の旅路を思い出させた。◇病院に着いたとき、廊下には白い光が落ち、消毒
4月、ロンドンの夕暮れ。テムズ川の水面は沈む光を返し、街全体が静かで重い青に沈んでいく。テリィは、ロンドン芸術座の裏口から出て、空気を胸いっぱいに吸い込んだ。『ジャーニーズ・エンド』の主役としての公演が始まって2ヶ月。舞台はロングランに入り、日々の緊張は並大抵ではない。だが彼の胸を突き刺していたのは、舞台の重圧ではなかった。胸ポケットに忍ばせた一枚の電報。昨夜家に帰ったとき、リビングで待っていたキャンディが震える手で差し出してきたものだった。《ポニー先生、重体。可能なら来てほしい
昨晩、テリィはケビンに言った。「ジャレッドと並べてローリーを演じることになる。実質、軽いオーディションみたいなものになるだろうな」「だよな」「発音を整えたほうがいい。観客は全員イギリス人だ」「お、おぅ……やってみるよ」ケビンは深く息を吸い込み、わずかに顎を引く。台本を手に取り、ローリーの第一声を発した瞬間……テリィの眉が、わずかに動いた。(……ん?)耳がその違いを先に捉えた。ケビンの声質はいつもと同じだ。だが、その語尾の処理、母音の抜き方、子音の立て方。(イギリス英語の……舞
ロンドン芸術座の稽古場には、木の床を叩く靴音と、台詞を読み上げる声が響いていた。テリィは主役の大尉役として立っていた。その隣に立つのは、準主役ローリー役のジャレッド・カーター。長い手足に整った顔立ち、立っているだけで絵になる俳優だ。だが、どうしても、何かが足りなかった。「ローリーの台詞、“夜明けを恐れているんじゃない、失うのが怖いだけだ”その言葉には、怒りが混じっているはずです」テリィの声は穏やかで、けれど鋭さを帯びていた。ジャレッドは小さく眉を寄せる。「怒り、ですか……?」「
クリスマス・イブの夕暮れ。ロンドンの空は早くも紫色に沈み始め、タウンハウスの窓には一つずつ灯りがともされていく。暖炉の薪がぱちぱちと音を立て、部屋にはほんのりと松の香りを含んだ温かい空気が流れていた。その前で、オリヴァーとオスカーが真剣な顔で並んでいる。ふたりの手には、赤いフェルトの大きな靴下。「ねえ、兄さん……ここでいいかな?」「もっと上にしたほうがサンタさん見つけやすいよ!」子どもたちは、暖炉のフックに背伸びして靴下をかけようとする。オリヴァーの背中がふらりと揺れた瞬間……後
1月。メイフェアの街角を、馬車と車が交錯しながら過ぎてゆく。テリィはフィリップ卿の執務室を訪ねていた。暖炉の前で紅茶を飲んでいた卿が、穏やかに微笑む。「ブロードウェイで上演された『BeforeDawn』、あれを観たという男がいる。今、ロンドンで小劇団を率いるハロルド・モンターギュ氏だ。彼が君を探している。」「……ロンドンで、再演ということか?」「そうだ。彼はあの作品に深く心を打たれたらしい。もう一度ロンドンで見たいと」テリィの指先がわずかに震えた。『BeforeDawn』……
ロンドンの12月は、昼も夜も区別がつかないような薄灰色だった。だが大晦日の夜だけは、街の空気にどこかそわそわとした温かな気配が漂う。ケンジントンのタウンハウスでは、暖炉の火が静かに揺れていた。湯気の立つマグを両手で抱えながら、キャンディがふいに言う。「……ロンドンで年越しなんて、なんだかまだ不思議ね」テリィは上着の袖をまくりながら、暖炉の前に腰をおろした。「ここはビッグ・ベンの鐘が鳴るだけだ。あの鐘の音が新年を告げるだけ、ニューヨークの賑やかさとは違う」「それで十分よ。あなたと聞け
1934年1月。ロンドンの夕暮れは、霧をまとうようにゆっくりと落ちていった。ケンジントンのタウンハウス。グランチェスター公爵家のロンドン邸は、外観こそ壮麗だが、内側はキャンディの工夫でどこか温かさを帯びている。玄関に、来客を告げるベルが鳴った。「ドミニク・ハーディと申します」執事ヘンリーに案内されて入ってきた男性は、寄宿舎の冬空の下で本を読んでいた少年の面影を残しつつ、すっかり落ち着いた紳士の風情になっていた。キャンディが微笑んで迎える。「ハーディさん、ようこそいらっしゃいました」
ロンドンの午後。タウンハウスの窓辺には、薄い金色の陽が差し込んでいた。ダイニングテーブルにノートを広げたオリヴァーが、鉛筆をくるくる回しながら言った。「あのねお母さん、算数、教えてくれる?」キャンディはエプロンで手を拭きながら近づき、にっこり。「もちろんよ。どんな問題かしら?」オリヴァーはノートを指さした。《ある男の子がリンゴを12個持っています。そのうち5個を友だちにあげました。今、彼は何個のリンゴを持っているでしょうか?》キャンディは読み上げながら、すでに眉が寄り始めてい
夕暮れのロンドンは、霧のかすかな匂いをまとっていた。その日の稽古を終え、テリィがタウンハウスに戻ってくると、キャンディが湯気の立つティーポットを手に待っていた。「おかえりなさい。あのね……今日、ちょっと驚くことがあったのよ」テリィはマフラーを解きながら、わずかに眉を寄せる。「何かあったのか?赤十字社で?」「ううん。そうじゃないの。……あなたの、昔の同級生に会ったの」テリィの動きが一瞬だけ止まった。ロンドンでの同級生。聞きたい名も、聞きたくない名も、それぞれ胸の底の異なる場所に沈
1933年12月。ロンドンの午前の空はまだ薄曇りで、冷たい風が石畳を掃くように吹いていた。「奥さま、こちらでございます」黒いコート姿のベネットが、静かにドアを押し開けた。「ありがとう、ベネットさん。ここからは私一人で」キャンディは深く息をつく。新しい国、新しい暮らし、そして、再び「誰かを助ける」場所へ歩み出す最初の日だった。築年数を感じる煉瓦の建物は、古い教会のような静けさと威厳を帯びていた。入口には小さな十字の旗が揺れている。(……ここから、また始められる)キャンディの胸が少
数日後、テリィはようやくフィリップ卿のもとを訪れた。彼はためらいながらも、すべてを語った。「彼女があなたの紹介だと誤解していた。だから、誰にも相談できなかった」フィリップ卿は深く息をつき、眉間に皺を寄せた。「……レディ・アシュフォード……あの夜、私も初めて見た。招待客の同伴者だったらしい。……だが、彼女を黙らす手段はある」彼は机の引き出しを開け、数枚の書類を取り出した。「調べたところ、彼女の慈善団体の資金に不審な動きがある。若い俳優や画家に資金援助を装い、裏では契約を迫っていたようだ
十二月に入ったばかりのニューヨーク。摩天楼の隙間をすり抜ける風は鋭く冷たいのに、テリィとキャンディの暮らすペントハウスには、暖炉に火が入り、ほのかな甘い香りが満ちていた。結婚して初めて迎えるクリスマス。夕食を済ませたあと、キャンディがぽつりと口にした。「ねぇ、テリィ。……ここにツリーを置きたいわ」テリィは片眉を上げ、軽く頷いた。「だって、クリスマスなんだもの。ツリーがないのは寂しいもの」彼女の声は弾んでいて、まるで子どもがお願いをするときのようだった。「そうだな」「本物のもみの木
冬のはじめ。ロンドン・メイフェアの夜は、霧の香を纏って静かに沈んでいた。フィリップ卿の私邸で催された慈善演劇の打ち合わせで出会ったひとりの女性……レディ・アシュフォード。貴族の生まれにして、慈善活動と社交界の中心に立つ女。その微笑は魅了というより、支配の香を放っていた。彼女は、テリィが“断り”を重ねるたびに、より強く彼を求めるようになっていった。招待状は毎週のように届き、花束、舞台への寄付、そして甘やかな言葉。だが、テリィは一度として応じなかった。「舞台は誰のために立つの?」「観
ロンドンの深秋のある夜。テリィは、幼馴染でもあるエドガー侯爵家の長男フィリップ卿の私邸へ招かれていた。彼は幼いころからの数少ない友人のひとりであり、貴族社会のしがらみを嫌いながらも、その地位と教養を活かして文化活動に力を注ぐ人物だった。「君の名は、すでに劇作家や演出家たちの耳にも届いている。ただ、ロンドンの舞台というのは、才能だけでは立てない場所だ。まずは人脈という名の地盤を築くことだよ」そう言って彼は、テリィのために演劇関係者を招いた小規模な晩餐会を企画した。慈善演劇の企画を通してテ
ポニーの村の小さなホテルを出たのは、翌朝の9時だった。村の空気は透き通っていて、昨日の祝福の名残が、まだどこかに漂っているようだった。「さて、行くか」マイケルが軽く伸びをする。「うん。長旅だからな」ケビンが運転席に乗り込み、エンジンをかけた。車はゆっくりと村を離れ、舗装の甘い田舎道へ滑り出す。ハンドルが少しだけ震えるたび、昨日の笑い声や歌声がふっと蘇る。しばらく沈黙が続き、それを破ったのはマイケルだった。「なぁ、ケビン」「ん?」マイケルは窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
ブロードウェイでの退団の報せは、大西洋を越えてロンドンの演劇界にも届いていた。ストラスフォード劇団の名俳優、“テリュース・グレアム”という名前は、この街でも静かな熱を帯びて囁かれていた。「もし彼がロンドンに来るなら、ぜひ我が劇団へ」そんな声が、水面下でいくつも上がっていた。特に、ストラスフォード劇団と旧知の劇団主宰たちは、テリィ本人の意志を確かめる前から、紹介状や招待の手紙を準備していた。だが、テリィはすぐには動かなかった。ロンドンでの新生活。慣れない街の空気、特に子どもたちの学校や妻
数週間後の午後、テリィは書斎で資料を読みながら、窓の外の庭をちらりと見た。キャンディが花壇にしゃがみ込み、咲きかけのバラをじっと見つめているのが見えた。どこかおかしい。なぜなら、その指先は動かず、ただ茫然と花を見つめているだけだったからだ。胸がざわつく。太陽のような彼女が、今は影のように静かだった。テリィは書類を置き、窓に手をかけた。「……キャンディ?」声はガラスに吸い込まれ、届かない。彼女はゆっくり立ち上がると、庭の端へ歩き始めた。その背中の小ささに、テリィの胸にじわりと冷たい
じつはこの数ヶ月、タウンハウスの裏側では、小さな波紋が何度も広がっていた。ニューヨークで長く自分の手で暮らしてきたキャンディは、ロンドンに来てもつい、洗濯物を庭に干したり、子どもたちの靴を玄関で磨いたり、キッチンで皿洗いを手伝おうと台所に入ったりしてしまう。当人に悪気などない。むしろ、働く人々への敬意と、「一緒に暮らしているのだから、私にもできることを」という思いからくる自然な行動だった。しかし、古参のメイド長ベネットは、何度も胸に手を当てていた。料理人ハドソンも、眉間に皺を寄せることが増
ニューヨークの午後は、白いカーテン越しにやわらかな光が差し込み、家の中にほのかにパンの匂いが漂っていた。キッチンでは、キャンディとマーサが夕食前の下ごしらえをしている。といっても、まな板の上にはまだ野菜が数個。包丁を持ったまま、彼女はそっと手を止めた。なぜなら、リビングのほうから、「好きな料理」についての、ほっこりした声が聞こえてきたからだ。オリヴァーが、椅子に座って足を揺らしながら言う。「ぼくはね、ママの“ミートボールスープ”がだーいすき!」“ミートボールスープ”。キャンディが忙
グランチェスター家の子どもたちが通う聖スティーブンズプレップスクールでは、新入生の母親たちを招いての「親睦ティー」が催される。名目は“教育環境の向上のため”だが、実際には、社交界の婦人たちが、互いの家柄と力量を見極めるための静かな戦場だった。キャンディは招待状を見たとき、ほんの少しだけ迷った。上流階級の習慣にも会話にも、まだ十分慣れてはいない。けれど、息子たちがこの国で育つ以上、母として避けられない場だと思い、参加の返事を出した。◇そして当日。10月のロンドンは薄雲に覆われ、街灯でさえ
九月の別の日。うっすらした霧の向こうで、ロンドンの空はやさしい光を帯びていた。テリィとキャンディ、そして子どもたちの家族四人がタウンハウスから馬車で向かった先に、聖スティーブンズプレップスクールの黒い鉄の校門が見えてくる。門の上の金文字が、秋の風を受けてふわりと揺れた。聖スティーブンズプレップスクールは、古い修道院を思わせる赤レンガの校舎と、ガラス張りの音楽棟が並ぶ新設の名門校だった。教育方針は、ラテン語や古典文学を重んじる一方で、科学・美術・音楽にも力を入れる「古典×現代」の融合型。校
ニューヨークに着いて2日目の夕暮れのペントハウスに、静かに街のざわめきが降りてくる。大きな窓から差し込む橙の光は、キッチンに立つキャンディの後ろ姿を、柔らかく照らしていた。テリィはソファに腰を下ろし、手には開いたままの台本。だが、実際には一行も読めていない。視線はどうしても、キッチンの彼女に吸い寄せられたままだった。白いエプロンを結び、髪を後ろで束ね、首筋の後れ毛には色香を感じる。思わずテリィの喉が鳴る。そんなテリィのことなどつゆ知らず、キャンディは“トントントン”とリズム良く、慣
夜のロンドン。霧はもう晴れ、窓の外にはオレンジ色の街灯が滲んでいた。公爵家のタウンハウスは静まり返り、暖炉の火だけが廊下に柔らかな光を落としている。あの静かな朝から、半日ほどが過ぎた。エリザベスが心の内を打ち明けたあのあと、キャンディはそっと彼女の手を握り、穏やかに言った。「エリザベスさん。あなたの気持ちは、きっとジョージさんに伝えたほうがいいわ。どんな形でも、言葉にして伝えなければ、誤解だけが積もってしまうの。」エリザベスは目を伏せ、少し震える声で答えた。「……怖いの。彼に“もう疲
翌朝のロンドンは、霧の薄い穏やかな陽射しに包まれていた。グランチェスター家のタウンハウスの庭では、オリヴァーとオスカーが芝の上を駆け回り、遠くで執事が笑いながら見守っている。キャンディはその姿を窓辺から眺めていた。湯気の立つ紅茶のカップを両手で包み、胸の奥に昨日の晩餐の余韻を思い返していた。家族の笑い声、公爵の穏やかな表情。そして、あの夜、ふと見せたエリザベスの影のある微笑。ノックの音がした。「お邪魔してもよろしいかしら?」柔らかな声。ドアの向こうには、淡いラベンダー色のドレスを
午前8時。とある春の朝。ストラスフォード劇場近くの公園。前回の惨敗から数年後。ケビンとマイケルは黙々とストレッチをしていた。「今日こそ……ついていってみせる」「うん……死ぬ気で……!」そこへ、ランニングウェア姿のテリィが現れた。黒のスポーツジャケットに、軽量シューズ。まるで雑誌のモデルのようにスタイリッシュ。「準備できてるのか?」「お、おう……!」「やるしかない……!」そこへ、「おはよう、みんな!」軽やかで明るい声が飛んできた。キャンディだ。白のジョガーにベージュの
海の色が、夏の青から秋の灰へと変わっていた。大西洋を渡る客船〈マウレタニア号〉は、午前の光のなかでサウサンプトン港へと静かに入港した。船上デッキに立つテリィは、潮風に揺れる帽子を押さえながら、遠くにのびる港の風景を見つめていた。「……イギリスの匂いだ。」その低い声に、隣で手をつないでいたキャンディが微笑んだ。足元ではオリヴァーとオスカーが興奮気味に波止場を覗き込んでいる。ニューヨークから七日間の航海。ようやく辿り着いたのは、かつて少年時代を過ごした国、そして、家族として新たに踏み出
朝の光が、カーテンの隙間から細い糸のように差し込み、その淡い明るさが、そっとまぶたの裏側を撫でた。意識の底に浮かび上がってきたのは、柔らかい布団の温もり、そして、自分の腰にまわされた、しっかりとした腕の重みだった。(……あ。私……テリィの腕の中で……)はっとした瞬間、昨夜のすべてが、濃密な熱を帯びながら一気に胸の奥へ流れ込んでくる。重なった呼吸。深く求め合った口づけ。ベッドへ倒れ込んだときの体温。耳元で揺れた低い声。触れられた場所がどこも熱を持って蘇る。(うわ……思い出すだけで