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最近、テレビでよく流れている「湖池屋金のポテト」のCM。YMOの「ライディーン」がかかっていて印象的です。CM最後にポテトが膝蹴りするシーンがあります。真空揚げたて製法?夢想ノ丞はすぐにピンときました。これは!沢村忠の真空飛び膝蹴りだ!昭和40年代、日本キックボクシング界の黎明期、一世を風靡した沢村忠。アニメ「キックの鬼」も作られました。「キーック、キーック、キックの鬼だ~~♪」のフレーズを覚えている方もいらっしゃるはず。では、ライディーンの方は?ラ
忌野清志郎スーパースター烈伝(2024年12月の投稿に加筆しています)近藤雅信さんと言っても、ご存じない方も多いかもしれません。元東芝EMIのプロデューサーで、RCサクセションやタイマーズを担当し、RCの作品で言うと「ハートのエース」から「Babyagogo」までの最もエキサイティングな時期を清志郎とともに歩んだ方なのです。清志郎の信頼は絶大なものがあったようです。近藤さんは業界的にいうと、A&R(ArtistsndRepertoire、アーティスト・アンド・レパー
序論:対象の位置づけ1980年代以降の日本の電子音楽史において、YellowMagicOrchestra(以下、YMO)が果たした役割は国際的にも広く認識されている。とりわけ「京城音楽」は、YMOのアルバム『増殖』(1980)に収録された楽曲群の中でも、東アジア的音素材を電子音響の枠組みへ再配置する独特の試みとして位置づけられる。同曲は単なる「アジア的モチーフの引用」にとどまらず、電子音楽の語彙を用いて地域的記憶と歴史性を再編成し、当時のテクノ・ポップがもつ文化的磁場を示す代表的作品の一つ
今回は、私にとっての「第二のヒーロー」であるYellowMagicOrchestraの散開ライブ(散開コンサート)について、私なりの考察をお届けしたい。私にとってのYMO散開ライブ知人から紹介されたCASIOPEAが私の「すべて」になったとき、私の中で一つの確信が生まれた。「スタジオ録音には興味がない。CASIOPEAの魅力はライブにある」と。それもそのはず、私は元々アマチュアキーボーディストである。ライブでの実践を目的とし、CASIOPEAを「最高の教科書」として選んだのだから
今回は、いつものCASIOPEA解析や野呂一生コードワーク解説から少し離れて、私の「第二のヒーロー」であるYellowMagicOrchestraの話題をお届けしたい。「なりきり科捜研」とYMO1983年YMO散開。NHK総合テレビ「600こちら情報部」の番組内で、「YMO散開コンサート」日本武道館公演を一瞬だけ生中継した映像を今でも鮮明に覚えている。流れていたのは「Propaganda」。しかし、当時の私は「YMO散開」という事実さえ事前に知らず、その中継を見ても
忌野清志郎スーパースター烈伝※2023年に投稿したブログに一部加筆しております。坂本龍一編2023年3月28日、坂本龍一さんがお亡くなりになりました。享年71歳。。厳しい闘病生活の中でも、音楽活動への情熱を注ぎ続けておられることは知っていましたが、こんなに早く逝かれてしまったこと、とても残念で仕方ありません。YMOの時代坂本龍一さんの足跡は、多くのメディアで伝えられているところですが、その中で私の心の中にスッと入った坂本さんの偉業を説明する
るそんべえです。大瀧詠一の大ヒットアルバム「ALONGVACATION」は、1981年3月21日にリリースされました。はっぴいえんどからの盟友松本隆がほとんどの作詞をやっています。大瀧詠一は自身で詞を書くこともありますが、それ以外は松本に任せています。他の作詞家には依頼していません。それだけ、松本を信頼していたし尊敬していたんだと思います。デビューから一緒にやっていた細野晴臣は、YMOで大成功しました。鈴木茂もスタジオミュージシャンとして成功しました。もちろん、松本隆も歌
前回の「my9albums」に続き、いろいろネットで見てたら「私の音楽遍歴20枚」てなサイトがあるのを知った。興味のある方は勝手にググってください。というわけで早速やってみるのであるが、その前に。「my9albums」で選んだものは除外した。ワイ的「my9albums」はこちら↓音楽遍歴20枚はそれぞれ・中学時代にハマった5枚・高校時代にハマった5枚・大人になってハマった5枚・今ハマってる5枚で計20枚をチョイスするわけですが、さすがに高校時代以降の「大人」枠の幅
今回は、私にとっての「第二のヒーロー」であるYellowMagicOrchestraのトリビア的な話題をお届けする。GreekTheatre公演オープニングアナウンスYMOの「GreekTheatre(グリークシアター)」公演。この模様は日本のニュース番組でも報じられ、当時の音楽業界へ絶大なインパクトを与えた。この出来事は、直後の第1回ワールドツアーを経て、帰国時にはすでに日本中を席巻していた「YMOフィーバー」へと繋がる、鮮やかな伏線となった逸話として有名である。