ブログ記事283件
扉の前には、すでに数人の使用人が集まっていた。扉が少し開いている。「ウィリアム様……」使用人のひとりが顔を上げたが、その表情は今にも泣き出しそうに見えた。厳格なアードレー家の使用人がそんな顔をするのは珍しいことだった。キャンディがその隙間をすり抜けるようにして部屋へ入ると、そこには、大おばさまがいた。ベッドに横たえられた顔は、青白いというより、夕刻の光の中で蝋のように生気がなく見えた。唇の色も薄い。キャンディの心臓はぎゅっと縮む。だが、次の瞬間に身体が勝手に動き出した。
ブロードウェイ。ストラスフォード劇団。稽古場の噂は、音もなく広がっていた。最初は、照明係のひとりが言い出した。「……昨日の稽古、観たか?」それだけだった。だが、翌日には、音響室で、舞台袖で、スタッフルームの片隅で、同じ言葉が何度も繰り返されるようになった。「芝居が始まってないのに、テリュースが入ってきた途端、空気が変わるんだ」「台詞を言う前からもうハムレットだ」「あの間が怖い。あんなのはじめてみたよ」照明チーフが、プラン表を指で叩きながら言った。「フォロースポット、正直追いづ
翌朝、テリュースは誰よりも早く稽古場に入った。木の床には、誰かの落としたペンが転がっていた。テリュースはそれを拾い、机の上に置く。そして窓際の椅子に腰掛け、『ロミオとジュリエット』の脚本を開いた。ロミオとジュリエット。その名前を見るたび、テリュースの胸の奥に痛みが走る。あの役は、美しい。若さがあるし、熱がある。言葉が光っている。だが、その光の奥には、死がある。テリュースは、ページをめくる指を止めた。ずっと以前なら、ロミオを演じることは怖くなかった。恋を語ることも、愛を誓うことも、相手の
数日後。RSC公開稽古の日。客席には、いつもの劇団員だけではなく、演劇学校の講師、地方劇場の関係者、批評家の卵たちまで座っていた。薄暗い客席には、独特の緊張が漂っている。RSCの公開稽古は、単なる“見学”ではない。ここでは、俳優がどう壊れ、どう作り直されているかまで見られる。演じる過程をすべて丸裸にされる。つまり、未完成も、失敗も、沈黙も、すべて晒される。それがシェイクスピアの研究機関としてのRSCの役目でもあった。舞台袖で、テリュースは静かに呼吸を整えていた。指先が冷たい。『マク
コーンウェル邸の応接間は、昼下がりの光の中にあった。磨かれた床、重厚なカーテン、壁に並ぶ肖像画。その中に、アリステア・コーンウェルの肖像画もあった。まだ少年の面影を残した、柔らかい笑顔。成長してからはいくつか写真もあった。けれど、その笑顔の主は、もうこの屋敷には戻らない。ヨーロッパの空へ行ったまま、帰ってこなかった。アーチーは、その写真を見るたびに胸の奥が痛んだ。兄さんなら、何と言っただろう。アニーとの婚約を、父と母が認めようとしない。理由は分かっている。ブライトン家の借金問題だ
スザナの墓のある教会は、朝の光の中で静かに息をしていた。古い石畳に、まだ昨夜の冷えが残り、白い壁には薄い影が揺れている。キャンディとアルバートが馬車を降りた時、教会の前の少し離れた場所に、一台の馬車が停まっていた。見慣れないわけではない。だが、どこか“場違いなほど整った”馬車だった。革張りの座席、磨かれた金具、よく手入れされた馬。長旅を控えた者の、無駄のない佇まい。アルバートはそれを見て、足を止めた。理由はない。確証もない。ただ、胸の奥で何かが微かに鳴った。(……来ている)言葉に
『Nowcracksanobleheart.Goodnight,sweetprince,Andflightsofangelssingtheetothyrest.』「おやすみ、やさしき王子よ。天使たちの歌が、あなたを安らぎへ導きますように」ホレイショーの声は、低く、祈りのように静かな空気の中へとほどけていった。ストラスフォード劇団。『ハムレット』公演初日。最後の台詞が、空気の中にわずかに残ったままゆっくりと幕がおりると、客席はしばらく沈黙した。
空は、朝から重かった。低く垂れ込めた灰色の雲。霧混じりの風が、エイヴォン川から街へ流れ込んでくる。テリュース・グレアムは、劇場前で足を止めた。王立シェイクスピア劇団。RSC。重厚なゴシック建築の建物は、ブロードウェイとはまるで違う空気を纏っていた。派手な看板はない。スター俳優の巨大ポスターもない。客を煽るような明るい文字もない。ただ、長い年月の中で積み重ねられた“演劇そのもの”の重みだけがあった。入口脇のポスターには、『リア王』『十二夜』『マクベス』『ハムレット』の文字。そのどれもが静
朝は、よく晴れていた。劇場の壁は陽射しに温められ、窓硝子には青空と流れる雲が映っていた。開いた窓からは風が入り、川の匂いを運んでくる。テリュースがRSCの稽古場へ入ると、すでに俳優たちが発声を始めていた。低い声が、木の床を伝って響く。感情を乗せるためではなく、呼吸を整えるためだった。吸う場所。吐く場所。音を強く落とす場所。言葉を流す場所。怒りより先に呼吸を。涙より先にリズムを。そうして、言葉を身体へ沈めていくのだ。テリュース・グレアムは、その光景にまだ馴染めずにいた。RSCでは、俳優の熱
スザナの葬儀が終わった翌日。マーロウ邸は、音を吸い込んだように静まり返っていた。両親は、娘の面影が残るこの屋敷に留まることに耐えられなかったのだろう。葬儀が終わると同時に、使用人を伴ってフロリダの別荘へと発っていった。結果として、この広すぎる屋敷に残されたのは、テリュースひとりだった。与えられていた2階の客間で、彼は自分の私物を小さなトランクに詰めていた。ずっと、この屋敷へのテリュースの滞在の名目は「婚約者」だったが、その扱いは最後まで曖昧なままだった。今後についての話もなければ、引き止
今さら・でも―キャンディキャンディいつもアクセスいただきありがとうございます©水木杏子/いがらしゆみこ画像お借りしますブログを最初から読む二次小説を最初から読む11年目のSONNET目次スピンオフ本編前本編後キャンディ雑談を読むFinalStoryの考察を読む考察①FinalStoryって?考察②新旧手紙の比較考察③あのひとは誰?考察④Finalと漫画の違い考察⑤テリィの手紙考察⑥男アルバートさん考察⑦