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ご訪問ありがとうございます。今回は東アジアを揺るがした大事件です。「倭の五王」の興王の時の出来事ですが、やはり20年ほどずれて雄略20年(実際は興王の晩年、倭王武の即位以前の475年)に記載されています。20年冬、高麗コマ王=高句麗王(長寿王)が大軍を発して、百済クダラを滅ぼした。そこで逃げ延びた少数の人々が、倉下ヘスオトに集っていたが、食糧も尽き、深く憂い泣いていた。その時高麗の諸将は王に「百済の考え方は我々と違うので、相対するたびに私は不覚を取って失敗いたします。恐らくまた、蔓草
ご訪問ありがとうございます。前回まで「日本書紀」の雄略天皇のところを読んでいましたが、外交関係の記事ではおよそ20年のズレがあり、允恭天皇の頃の出来事が「雄略天皇紀」に入っているということがわかりました。つまり「日本書紀」の編者たちは、外交についての史料、ほぼ「応神天皇紀」と「雄略天皇紀」に集約して、あまり綿密な考証は行わなかったと言うことが言えます。そういうことですから、「神功皇后紀」~「雄略天皇紀」について、倭の五王を大和王権の人物とすることは妥当とする一方で、「日本書紀」に基づ